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【小説】平和の象徴(キーワード 鳩)

 今日も学校の中庭に置いてある「飛翔」と書かれた大きな石碑の上には、二羽の鳩が寄りそうようにとまっていた。窓側の席でそれを見ながら「ああ、今日も二羽仲良くそこへ居るのだな」と思うと、澄玲はなんだかほっとするのだった。別にその二羽がいつも同じ鳩である保証などどこにも無いのに。
 澄玲の通う中学校は県内でも有数のマンモス校であり、そして酷く荒れた学校であった。自転車で校舎に乗り込み走り回る者が普通に存在するし、授業はほとんど成り立っていない。一学期、クラス担任は生徒からのいじめによって精神を病み休職に追い込まれ、二学期に入ってしばらくし教師を辞めてしまったときいた。あの先生はいい人だったと澄玲は思うけれど、この学校ではいい人は生きていけないのだとも同時に思う。
 まだ中学校へ進学して一年も経っていないというのに、この学校へ通うのが辛い。そもそも公立の中学校に通うつもりなど、澄玲には毛頭なかった。自分はここに居るべき人間ではない、自分はもっと高次な人間であって、それに相応しい場所があるのだと信じて疑わなかった。けれどこの場所で、息を殺して澄玲は日々を送っている。

 澄玲が両親に中学受験をしたいと申し出たのは小学三年生の終わりのこと。両親は揃って「中学受験なんてしなくていい」と言った。それでも澄玲は「どうしても受験したい」と懇願したが、両親はそんな澄玲を見て、おかしなものでも見るような目をしながら「子どものうちはのびのびと遊んだ方がいい。小学生のうちから受験勉強なんか始めたら楽しいことが減る」とへらへらしながら言った。
 両親に悪気はなかったんだと澄玲は分かっている。ただ、自分たちの価値観の中でしか物事を考えられない人たちだったというだけで。それを理解出来たところで、澄玲が両親に絶望したことは変わらない。子どもの願いを叶えるという観点が、決定的に自分の両親に欠けているという事実はきっとこの先の人生にも影響するだろうことは明白だったからだ。
 そうして澄玲は公立中学校へやって来た。去年から市の取り組みで、市内全ての公立中学校の制服が同じになった。各学校の違いは制服のエンブレム部分が僅かに違うだけで、ぱっと見はどこの学校の生徒か分からなくなっている。澄玲はそのことにあからさまにほっとしていた。この学校が酷く荒れていることは市内では周知の事実である。この学校の生徒であるというだけで、差別はないにしろ多少の偏見の目があるのは確かなことだ。
 澄玲のようになんの問題も起こさず、ただ学校で平穏に過ごすことをモットーにしている人間にだって、その偏見の目は容赦がないことくらい分かっている。市内の人たちの「ああ、あの学校ね」という諦めや憐憫にも似た視線を受けることが澄玲は絶対に嫌だった。けれど制服が市内全ての学校で統一され、そういった視線をあからさまに受けることなく澄玲は生活している。

 澄玲にとって中庭の「飛翔」にとまる二羽の鳩は、息の詰まる生活の中で唯一の癒やしだ。学校の窓ガラスが頻繁に割れても、学年の半数近くの生徒が煙草で生徒指導を受けても、授業が成り立たなくても、変わらず仲睦まじくそこに居る。それだけで澄玲の心は救われるようだった。
 机も整然と並ばない教室の中で、澄玲に居場所はない。いじめの標的にもならないくらい存在を消し、淡々と日々を送る。教室にいる間中、息を止めているみたいだ。誰にも見つからないことを寂しいと思うことはある。けれど、この学校でいじめの標的になってしまったら、それこそクラス担任のように精神を病んで学校へ来ることも叶わなくなるだろう。そうなってしまったら高校受験、ひいてはこれからの人生がめちゃくちゃになってしまう。澄玲はそれが何より怖かった。
 石碑の上で鳩はのんびりとくつろいでいるように見える。授業中だというのに、クラスメイトは何人か教室を抜け出していて、空席がぽつぽつあった。かろうじて教室に残っているクラスメイトも授業を真面目に聞いている人はほとんどいない。黒板に向かって数式を書いている「えっぺ」こと江口先生は立ち歩いている生徒に注意することもなく、淡々と授業をしている。まるでこの惨状は自分には関係ないと言うように。
 江口先生は四十代半ばの男の先生で、背が低くぽっちゃりとしていた。情熱があるふうではなく、その日をやり過ごすことだけを考えているように見えて澄玲は江口先生が嫌いだった。生徒には舐められていて、だからこそ「えっぺ」なんてあだ名で呼ばれ、授業がほとんど破壊されている。チャイムが鳴ればさっさと授業を終え、あっという間に職員室へ戻っていく姿を見る度、澄玲は江口先生が教師になった理由は何なのだろうと思ってしまうのだった。

 昼食の時間を経て、昼休みになると澄玲はいつも「飛翔」の石碑が見える場所に行く。それは学校図書館だったり、中庭の隅の影だったり、教室の自分の席だったり色々で、今日は天気がいいので中庭の隅の影を選んだ。影にすっぽり収まると、ぼうっと石碑にとまる鳩を眺める。時折、隣接する職員室の給湯室から先生たちの話声が聞こえて、先生たちの本音らしきものを聞けるのもこの場所のいいところだと澄玲は思う。

「斉藤先生の替わりに担任を引き受けることになっちゃいましたけど、一年五組はダメですね」

 漏れ聞こえてくる声に澄玲はドキリとした。一年五組は澄玲が所属しているクラスだ。声の主は二学期から正式に一年五組の担任になった加藤先生だろう。

「この学校全体に言えることかもしれないですけど、一年生のクラスであそこまで酷い状況になっているクラスは他にないと思うんですよ。現に斉藤先生は辞めるところまで行っちゃってるわけじゃないですか」

 諦めまじりのその声を聞きながら、澄玲はそれをどうにかするのが仕事なのではないかとぼんやり思う。それと同時に、まともに育てられていないように見えるクラスメイトの素行の悪さは、親の責任と考えた方がいいのだろうかという考えも浮かんできて、まだ中学一年生の澄玲には答えが出せない。

「よくもまあ、あんなに問題児ばかり集まったなと思いますよ。あと問題児とは違いますけど、板東澄玲はなんなんですかね。どう考えても、私たちを馬鹿にしていると思うんですよ。いつも、冷めた目でこっちを見てるし」

 その言葉に澄玲は心臓を冷えた手で掴まれたような気がした。

「ああ、板東は確かにいい子風にしてますし、成績もいいですけどそれを鼻にかけているのがモロ分かりですよね。周りとは違うんだって思っているのが漏れているっていうか」

 加藤先生の言葉に反応を返したのは、学年主任の古谷先生だ。二人は澄玲の悪口をどんどん続けて、そしてけらけら笑っている。悪趣味だな、と澄玲は思いながらもどんどんと自分の心が冷えていくのを感じていた。

「板東さん?」

 しゃがみ込んでいた澄玲の頭上から声がした。見上げるとそこには、江口先生が不思議そうな顔をして渡り廊下から顔を出し、そこに立っている。

「体調悪い? というか、なんでそこに居るの?」

 その問いに澄玲はなんと答えるべきか一瞬悩んだ。

「鳩。鳩を見てるんです。飛翔のところに、いつも二羽の鳩が来てるから」

 嘘はついていない。給湯室から先生たちの本音が聞こえてくるのは副次的なもので、澄玲はそれを主目的にここに居るわけではない。

「ああ、鳩。板東さんが嫌じゃなかったら、ぼくも少し見ていっていいかな?」

 江口先生はにこりと笑いながら澄玲にそう言った。断る理由もない澄玲が曖昧に頷くと、江口先生は澄玲から少し距離を取って、張り出した給湯室の壁にもたれるように座った。

「問題児たちの対応もしんどいですけど、板東澄玲みたいな生徒の対応も面倒ですよね。自分は違うって思っているのかもしれないですけど、他の生徒と大差ないでしょう。どうせ、三年間でこの学校に染まって校則破ったり色々するんですよ、あのタイプは」

 ここに澄玲たちが居ることを知らない加藤先生たちは、尚も澄玲の悪口を続けていた。何がそんなに面白いのか澄玲にはまるで理解出来ない。澄玲は何も気にしていないというフリをしながら二羽の「平和の象徴」をじっと見た。

「板東さん。今の話、気にしなくていいですからね。あなたが、しっかりと自分を律していることをぼくは一応知っているつもりです。面と向かってでなくても、聞かれていると思っていないとしても、今聞こえたような話をするほうが間違っているんです。あなたは今まで通りしていればいい」

 江口先生はまっすぐと前を見ながら、澄玲にそう言った。声に反応して澄玲が江口先生のほうを見ると、その瞳は怒りに震えているように見えた。
 おもむろに江口先生は立ち上がり、そして「ぼくは職員室へ戻ります」と言って去って行った。澄玲は小さな声で「はい」と返事をして、江口先生の後ろ姿を見送る。
 先生のいなくなったいつも通りの中庭の隅で、澄玲は江口先生の言葉を反芻していた。「あなたが、しっかりと自分を律していることを知っている」それがどれだけ澄玲の心を救ったか、江口先生は知らない。冷えていた心にぬくもりが戻ってきて、澄玲は立ち上がった。

 江口先生へ抱いていた嫌悪感が、少し溶けた気がした。完全になくすことは出来ない。江口先生がどんなに澄玲にとって嬉しい言葉をくれたとしても、先生がクラスの状況を無視しているということに変化はないのだから。
 それでも澄玲にとってこの学校における「平和の象徴」は二つになった。二羽の鳩と、江口先生。完全な救いにはならないけれど、気休めにはなる。それでいい、と澄玲は思った。

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