平成最後の告白 ~ある障害と向き合い続けた半年間の軌跡
平成最後の日となる4月30日の今日。僕があるトラウマをきっかけに障害を発症してからちょうど半年のタイミングとなりました。『平成』から『令和』へと変わるこの瞬間に、みなさんへの自己開示を正しくすることで、
自分自身次のステップに進めればと考え思い切ってこの決断に至りました。
親にも言えず、今まで5人にしかオープンにしてこなかったトラウマと障害に向き合った半年間の軌跡。拙い文章かつ冗長な文章ではありますがお付き合いいただけると幸いです。
【全ての始まりとなったバイト先での出来事】
昨年10月の半ばに起きた出来事が全ての始まりとなりました。いつものようにバイト先で仕事をしていたところ、ある30代くらいの女性客の方から執拗に身体を触られ、迫られるということがありました。
その瞬間は「お酒に酔っているししょうがないな...」くらいの感覚で、全く重い出来事と自分自身捉えてはいませんでした。
しかし、その日を境に身体への変化が現れはじめ、眠ろうとするとその瞬間がフラッシュバックしたり、 夢でうなされる回数が日に日に増していき、夜を迎えても満足に眠れない状況が続きました。
体調に限界を感じて病院にいったのが10月30日、ちょうど今日から半年前の日になります。診断結果として医師の方から言い渡されたのは、「トラウマからくる睡眠障害」というものでした。
最初この結果を聞いた時は自分の耳を疑いました。自分で言うのもなんですが、もともと人と接することや、コミュニケーションをとること自体大好きで、ましてやちょっとしたセクハラでやられるほどの弱いメンタルではない、と自分自身で思っていたからです。性格として完璧主義な面もある自分にとって、この事実を受け入れることが全くできませんでした。
当たり前ですが、自分が受け入れていないことを打ち明けるなど、友人はおろか、家族にもすることができず、ただひたすらに自分で悩み続けることしかできませんでした。睡眠薬を飲めば睡眠をとることはできたものの、今まで当たり前にできていたことができなくなる苦しみは、決して小さいものではありませんでした。
そのトラウマは自分の身体を段々と侵食していき、右耳が突然聞こえなくなり、声が出なくなった時期もありました。
周りにオープンにすることもしていなかったので、外に出る時は今までの自分を演じるための仮面をかぶることに必死になり、その度に精神をすり減らして毎日を過ごしていたように思います。
正直にあの頃を振り返るならば、普通に「死ねる」と、毎日考えていました。皆が安らぎの時間となる夜、自分は孤独な戦いを続け、外に見せることは一切しないようにしていた反面、1人の時には、自分が生きる価値があるのかわからないまま数ヶ月を過ごしていました。
【初めて他者への開示をした今年の2月】
医師からカウンセリングを受けるように言われ、障害が発覚したその日から、ある担当カウンセラーの男性の元に通うことになります。しかし、依然として事実を受け入れきれていなかった自分は、彼に対しての不信感すらぬぐいきれず、きちんとした自己開示もできないまま距離を縮めることができずにいました。
そのまま3ヶ月が経過し、自分と向き合っていく中で、その当時お付き合いをしていたパートナーに、自分が抱えている障害について打ち明ける決意をしました。とはいえ、なかなかにそのハードルも高く、決意をしてからなかなか切り出すタイミングが掴めないまま、結局直接伝えられたのは、確か2月17日あたりだったような気がします。彼女は僕の告白に対し、静かに耳を傾けながらすべてを受け入れてくれ、「障害のあるなしに関わらず、あなたという存在としっかり向き合いたい」そう話してくれたことを今でも覚えています。
パートナーへの告白は自分にとって大きな第一歩となりました。これを契機として、本当に少数ではありますが、何人かに対して障害の件を打ち明けることができるようになりました。
【4月に訪れた3つの別れ】
平成最後の4月は本当に自分にとって大きな転機となった月でした。 障害を持つ人が悩む要因となる依存先や居場所について、自分自身再度考えさせられることになります。
4月に自分が経験した別れとは、
・障害と向き合い続けてくれた彼女との別れ
・担当カウンセラーの死
・祖母の死
の3つでした。
-障害と向き合い続けてくれた彼女との別れ
僕が障害と向き合い続ける一方、彼女の方は新社会人として新たな環境に向き合う時期となり、お互い対峙しなければならないものの大きさから、一旦彼氏・彼女のラベルをお互いが剥がし、個々で前へ進んでいく選択を取ることについて、3月の終わりから4月頭にかけてお互いで話をしていました。
2人とも後悔はしたくない、という思いもあり、考えをしっかりとぶつけ合う場を用意して、4月6日を境に2人の関係にピリオドを打つ決断をしました。
自己開示をした当初は、自分の現状を理解してもらうことだけでよかったはずなのにも関わらず、とてもクレバーで、人との向き合い方に常に全力であった彼女の包容力にだんだんと甘えていってしまい、苦しみを打ち明ける居場所が彼女自身となることで、いつかのタイミングからか僕からの一方的な依存となり、多くの苦しみを彼女に与えていたのだろうと思います。別れの決断に対する後悔はありませんが、この点に関しては申し訳なさと共に後悔の気持ちが心にまだ残っています。
本当に最後の最後まで真摯に向き合ってくれたこと、命の恩人とも言える彼女には、心から感謝をしています。
-担当カウンセラーの死
4月8日の朝、まさかの知らせを電話で受けることになります。その知らせは、僕が睡眠障害を発症して以来カウンセリングを担当してくれていた方の訃報でした。
その理由が自殺だったと知り、さらに衝撃を受け、彼が自ら命を絶つ選択を選んだことが信じられず、涙が止まりませんでした。「なんで?どうして?」という怒りも同時に湧き上がりました。ずっとずっと距離をお互い縮められず、悩んで、苦しんで、辛い時期が何ヶ月も続いた中、3月の終わりにやっと自己開示し合えたばかりのに、お互い泣いて喜んだばかりだったのに、どうしてこの瞬間に命を絶つ選択をしたのかが理解できませんでした。ようやく見つけかけた『居場所』を失うことになり、喪失感、虚無感に押し潰されました。
でも、もっと多くの苦しみを抱えていたのは彼の方だったのだろう、と、今では少しわかります。傷を癒す側の傷は見えにくいもの。でも、そういったところにも目を向けてあげないと、誰かがやらないと、同じようなケースが起こりうるだろうと思います。心の依存の難しさを実感させられる出来事となりました。
この場をお借りして、彼のご冥福をお祈りいたします。
-祖母の死
それから3日後にあたる4月11日の明け方、午前2時過ぎだったかと思います。父親の元に祖母の訃報が伝えられました。家庭の事情で疎遠な関係であったこと、そして、ずっと施設に入っており意識のない状態であったこともあり、祖母の死を聞かされた時の悲しみは全くなく、その事実に自分自身衝撃を受けました。
ついこの前に亡くなったカウンセラーの彼の死は、涙が止まらないほどに悲しかったにも関わらず、血のつながっている祖母の死に悲しみを感じず、血ののつながりよりもリアルな関係性、依存関係の度合いによって、人の感情が左右されることを改めて痛感しました。
父が入院中ということもあって、自分が喪主を務めることになったのも、貴重な経験だったと思います。葬儀にあたっての準備、方々への連絡、見積もりなど、自分自身わからない事だらけでしたが、周りの協力ももらいつつなんとか無事終える事ができ、一安心といったところでしょうか。
喪主を経験して一番に思った事は、葬式というシステムが、だいぶブラックボックスと化しているということです。これからどんどんと高齢化が進んでいくことを思えば、葬式のあり方を考えていく価値はあるのではないだろうか...。そんな風に感じたりもしました。
-4月を終えて
4月の出来事や学びを色々と語りましたが、簡単にまとめるならば、
人生で底辺といっていいレベルに辛い月
だった、の一言に尽きます。本当に色々なことがありすぎました。半年前に手術をして快方に向かっていた右耳の不調が再発していたり、絶賛声が出なくなっていたりと、まだまだ試練は山積みも山積みですが、『平成』から『令和』へと変わるこのタイミングに、 1つカミングアウトをすることで、自分自身次のステップに進めたらと思っています。
直前に迫ってきている『ボクシング部』のリーグ戦、『知るカフェ』における新たなキャリアへの挑戦、一橋生の就活を変えるための『エンカレッジ』での活動、内定先であるリンモチでの長期インターン、まだまだやりたい事だらけの大学生活最後の年、障害ともしっかり向き合いながら1日1日を大切に生きていきたいです。
後悔ない人生で終われるかどうかは自分自身の努力にかかってますから。
【半年間障害と向き合った今考えていること】
半年間障害と向き合って学んだこと、それは自分の中で次の2点に集約されます。
1. 自分を守るための自己受容と自己開示
2. 自分がこの世に生きる意味を思考し続ける
1.自分を守るための自己受容と自己開示
障害の発症がわかってから、自己開示できるようになるまでの間、ひたすらに僕は1人で苦しみ続けていました。
「この障害は自分の問題」「他人に話しても理解などしてもらえない」「自分しかこの苦しみは理解できない」
あの頃はずっと考えていました。しかし、今思えば、一番自分の事を理解できていなかったのは自分自身だったのだと思います。
まずは自己をしっかりと理解してあげること、そして、どんな自分でも受け入れてあげる姿勢が大切なのです。
その次の段階として他者への自己開示がやってきます。 自己理解がしっかりとできていたとしてもなかなか自己開示のハードルを高く感じることは事実あります。開示の先に必ずしも幸せな結末が待っている訳ではないことも理由としてあるでしょう。お互いが傷ついて終わる可能性だってもちろんあります。しかし、その壁を乗り越えなければ全てを自己完結しなければならず苦しみを共有することもできないまま、 息苦しさを感じながら生きていくことになってしまいます。
『恐怖を乗り越えて自己開示をすること』
を自分を救うため・守るためにしていかなければならないと僕は学びました。まさに今回のこの告白自体、 学びから自分なりに考えてとったアクションになっています。
2.自分がこの世に生きる意味を思考し続ける
自分を受け入れられない時期が長くなればなるほど
「自分がこの世に生まれ落ちた意味」
がだんだんと人間わからなくなってくるもので、僕自身この点でもなかなかに悩んでいました。
しかし、自分が障害を持ち苦しんだ実体験と、それに対峙しながら思考を止めずに考え続けた結果、今では自分にとっての『生きる意味』を、かっこいい言い方をするならば『ライフテーマ』を、僕なりに見つけることができているのかなと思います。
そしてなによりも大切なのは『思考を止めない事』。
例えば、「障害がある人は生きにくい」という考えに対して、「そうだよね」、と表面的な共感を示して思考を止めてしまうことは全然イケてないと僕は感じます。
「じゃあどうしたら生きやすくなるのか?」
「そもそも全員が生きにくいと感じているのか?」
常にこのような疑問を持ち、当たり前に流されずに思考し続けられる人であるべきだと思うし、僕はそうありたいです。
【終わりに...】
ずっと周囲に打ち明けられずにいた頃、僕の告白に対して真摯に向き合ってくれた5人にこの場をお借りして、感謝の言葉を伝えさせてもらいたいと思います。
〜真央
本当に真央には最後までたくさん苦労をかけさせてしまったね。こんな不器用な自分に対しても、最後まで真摯に向き合って、支え続けてくれたこと、想いをぶつけてくれたこと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。お互いたくさん傷ついたけれど、真央と2人で歩んだあの時間がなければ、現在の自分はいないと自信を持って言えます。今までたくさんの学びをありがとう。
〜河村
かわむーは自分にとって、本当に自分をさらけ出せる存在で、いつだって親身になって不安も聞いてくれて、理解しようとしてくれる姿勢に感謝しています。これからもたくさん頼りにしてしまうと思うけれど、お互い支え合っていきたいな。
〜みさき
フランスと日本という時差がある中で、長電話にいつも付き合ってくれてありがとう。 みさきの言葉の1つ1つに助けられていたよ。なんでこれだけ距離があっても通じ合えるんだろうね、不思議だね。日本に戻ったらまたたくさん語ろ、待ってるよ。
〜ゆり
唯一後輩で打ち明けられたのがゆりだった。障害とトラウマの件を初めて伝えた瞬間も、それ以外の時も常に励ましてくれたのもゆりだった。いい距離感でいてくれたお陰で何度も救われた、 ありがとう。これからもよろしく。
〜ぱやぷー
1番最近に打ち明けたのがぱやぷーだったね。急遽ご飯に誘って、重い内容にも関わらず、最後までしっかり聞いてくれて嬉しかった。ぱやぷーに打ち明けた時から、自分を守るためにも、もっとオープンにしていかないと、って改めて実感した。そのきっかけを作ってくれたこと、感謝しています。
2019.4.30 Rei Kinoshita