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僕のなかの「怪物」

――視点の違いのせいで、その人にとっては純粋な思いだとしても、別の誰かからみれば異様に、奇妙に見えるという現象が起きるおそれがあるのです。「怪物」に見えてしまうのです。


人生は物語。
どうも横山黎です。

今回は「あなたのなかの怪物」というテーマで話していこうと思います。


以下の音楽をBGMに読んでいってみてください。


📚映画『怪物』を観てきた。

興奮冷めやらぬなか、記事を書いています。映画『怪物』を観終わった後だからです。

『怪物』は是枝裕和が監督、坂本裕二が脚本、坂本龍一が音楽という奇跡のマッチングで話題の映画です。カンヌ映画祭に正式出品されたこともあり、海外からも注目を集めています。

元々坂本さんの脚本が好きなので、次の作品が出たら見るようにしているんです。そのうえ、是枝監督と坂本龍一さんとのコラボとなれば、見ないわけにはいきません。タイミングが合わずにずっと見れていなくて、ついに今日観ることができました。

田舎の小学校で起こった小さな事件。その事件をとりまく関係者たちの物語です。秘密を抱える少年、少年の母親、少年の通う学校の校長、クラスの担任、それぞれの想いが交錯する重厚なストーリーでした。


結論からいえば、号泣です。

映画の最後、淀みなく涙がこぼれてきました。ちなみに今聴いてもらっている曲は、物語の最後に流れていた曲です。この曲の存在にも後押しされ、涙が止まりませんでした。

そして先に触れておきますが、特筆したいのが、今日、見てよかったと思いました。昨日でも明日でもなく、今日、見るべき映画でした。僕にとって、きっと後にも先にもない絶好のタイミングで観れたと思うのです。


📚「怪物」と「純粋な人間」

映画のネタバレはあまりしたくありませんが、僕が受け取ったメッセージをさらっと説明すると、この世に怪物なんていなくて、誰かを怪物のように思えるのは視点の違いのせいであるってこと。

僕にとっての純粋な思いが、あなたにとっては怪物かもしれなくなるということです。

映画のなかでいえば、母親の物語世界と、クラス担任の物語世界は真反対といっていいほど違うし、秘密を抱えた少年の物語世界もまた大きく違う。同じ事実を描いているはずなのに、視点の違いだけで物語世界に大きなずれが生じるのです。


芥川龍之介の『藪の中』という作品が良い例です。以前noteの記事で語ったので、興味を持たれた方は是非以下の記事をご覧ください。そのなかでも、物語には語る人の想いや偏見が含まれるから、事実とかけ離れるおそれがあることを指摘しています。


フィクションの世界だけではなく、僕らの生きている日常世界にだって十分に起こり得ること、というより常に起こっていることです。

僕は毎日記事を投稿していますが、僕の視点でみた日常を、僕の感度で切り取り、僕の書き口で表現しているわけですから、少なからず思いと偏見が含まれており、事実と異なっていない保証はどこにもありません。僕の物語になっているんです。


つまり、視点の違いのせいで、その人にとっては純粋な思いだとしても、別の誰かからみれば異様に、奇妙に見えるという現象が起きるおそれがあるのです。

「怪物」に見えてしまうのです。


いわゆるメンヘラと呼ばれる人たちがいます。彼ら彼女らにとっては相手のことを一途に純粋に思い慕っているだけですが、それを知った人の多くは少し怪訝な顔をすることでしょう。恋人がメンヘラで大変だね、そんな言葉をかけたりするのではないでしょうか。その発言は、メンヘラを「怪物」と捉えている心に因るものです。

それは性的マイノリティーの問題でもいえることだし、単純な趣味嗜好にもいえること。仕事や生き方にすら、いえることだと思います。起業家が「怪物」に見える人もいるだろうし、会社員が「怪物」に見える人もいるだろうし、教師が「怪物」に見える人もいる。


結局、人は、対象を捉えたときに、心にどんな像が映るのか。そのシルエットの形から、怪物かそうじゃないのかを判断しています。

きっと映画『怪物』を観た人は、事あるタイミングで登場人物たちを「怪物」のように捉えたはずです。しかし、実際は「純粋な人間」だったと認識を改めることになったはずです。僕自身、そうでした。

母親の視点では「怪物」だと思っていた人物が、その人物の視点で物語が進むことによって「純粋な人間」だと気付かされる。このしかけを施すことで、この映画は僕たちにそれぞれのなかに潜む「怪物」の存在を認識させたのです。


さて、最後に、冒頭でも触れました「どうして僕にとって今日という日に『怪物』を観て良かったのか」という話に戻りますね。

結論からいえば、今日が教員採用試験の試験日だったからです。そして、僕は教育学部生でありながら、採用試験を受けなかったからです。


📚僕のなかの「怪物」

僕は今、教育学部の4年生なんです。教育に興味があったから、教育学部に進学したんですが、この3年間で思ったこと、感じたこと、学んだことを振り返ったときに、「よし教員の道にいこう」と思うには不十分でした。

もちろん教育実習のときの経験はとても貴重だったし、教師のやりがいを感じることもできました。ただ、手応えや教師の生き甲斐と向き合ってみると、教師の道に踏み出すのに躊躇う自分がいたんです。


その一方、20歳の1年の出来事をベースにした物語にして、小説『Message』として出版して、この1年間で200人以上の人に届けてきた経験を振り返ると、どれもきらきらして眩しいもので、僕の根源的な幸せを何度もつくってくれました。

つまり、作家の道に踏み出す勇気が生まれたんです。


もちろん作家として食べていくなんて厳しい世界だけれど、探りがいはいくらでもある。本を書くことだけが作家じゃないし、印税だけが作家の収入源じゃない。作家という姿勢を貫きながら、仕事やお金と向き合ってみたい。そんな思いがあふれだしてきたのです。

まわりの大人たちにも相談して、背中を押してもらう機会にも恵まれました。もちろん賛成している人ばかりじゃないけれど、今の流れを断ち切って教師の道を追求するよりも、作家の道を追求した方が絶対に後悔しないし、生きるモチベーションも高くなる。

だから、僕は、今日、採用試験を受けないことに決めたんです。


また、映画『怪物』は、フィクションでありながら、教育現場の問題を色濃く描いていました。それは教師という個人の問題というよりも、学校という組織の問題。子どもを教育し、親の目を気にし、校則や学校の雰囲気、教育委員会という枠のなかでやりくりしなければならない環境を描いていたんです。

組織(環境)のせいで心が壊れていく若い教師の姿も描かれ、もし仮に自分が教員になったときの姿と自然と重ねてしまいました。息が詰まる思いになりました。

まわりの教員志望の教育学部生は採用試験を受けているなか、僕は教職現場の問題を描く映画を観る。単なる偶然だけれども、教員の道じゃないよと神様が向かい風を吹かせてくれたんだと思います。


教育学部生や教授などからは「怪物」と思われるでしょうが、僕はただ純粋に、自分の心の行きたがっている方へ歩み出そうとしているだけです。今後、少なからず衝突が起こったり、障害と向き合うことがあるとは思いますが、相手と視点が違うから仕方ないと割り切り、相手が「怪物」と呼ぶそれを育てていこうと思います。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

20230625 横山黎



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