そもそも従来の小説も共同制作じゃん!
――「従来、小説は1人でつくるもの。1人でつくれるから、みんな参入するんだ」と考えていましたが、「そもそも小説って1人でつくってないじゃん」と思い至りました。
【#222】20220207
人生は物語。
どうも横山黎です。
作家を目指す大学生が思ったこと、考えたことを物語っていきます。是非、最後まで読んでいってください。
今回は「共同制作してよかったことpart1」というテーマで話していこうと思います。
☆noteでの共同制作、無事完遂!
昨日、note創作大賞がしめきりを迎えましたね。みなさまはどんな作品を提出したでしょうか?
さて、僕は新しい『桃太郎』で勝負しました。
ただの『桃太郎』ではありません。「noteで共同制作した小説×画像×動画の作品」です。
#情報量が多い
詳しくは作品をご覧になってみてください!
少なからず僕が面白いと思い、納得したものをつくることができたので、この企画は総じて成功といえるのかなと思います。
ということで、今回は、「共同制作してよかったこと」について話していこうかなと思います。
☆あれ、従来の小説も共同制作じゃん!
そもそも論ですが、共同制作してつくったものが、一人でつくったものよりも劣ってしまうなら、意味ないじゃないですか。
いずれにせよ一番のゴールは「良い作品を完成させる」にあるから、一人でやった方がいいなら、共同制作なんて意味ないんですよ。やるだけ無駄なんですよ。
でも、僕は共同制作した方が「作品がより良くなる」と思ったので、今まで共同制作の可能性を追求しているんですね。
じゃあなんで「作品がより良くなる」のか。その理由について、僕なりの説明をしていきます。
そもそも「小説は一人で書くもの」という認識があると思います。僕もその一人でした。一人で良い作品を書けるに越したことはないと思っていたんです。
でも、よくよく考えてみてください。
本当に一人ですか?
執筆するのは作家1人かもしれませんが、一人じゃ「作品」は完成しません。プロの作家には編集者がいます。文章を直す校閲者がいます。表紙をつくるイラストレーター、本にするなら印刷会社の方だって必要です。
そもそも、執筆するのは作家1人と言いましたが、書くまでにいろんな本を読んで知識を蓄えているし、行き詰ったときに編集者だけでなく親しい人に相談することもあるのではないでしょうか?
「従来、小説は1人でつくるもの。1人でつくれるから、みんな参入するんだ」と考えていましたが、「そもそも小説って1人でつくってないじゃん」と思い至りました。
しかし、何者でもないアマチュアの作家には、編集者も校閲者もいません。だから、1人でつくらなきゃいけないのでしょうか? みんなでつくることを諦めなきゃいけないのでしょうか?
僕はそうは思いません。
何者でもない作家だってみんなでつくったっていいじゃないか!
たしかに編集者も校閲者もいない。でも、誰だって文字は読めるからあれこれ意見をいうことはできます。書評家じゃなくたって、本が好きな人がいる。プロじゃないけど絵が得意な人だっているじゃないか。
その人の力を少し借りれば、その人の人生の時間の数秒、数分をいただければ、みんなでつくることは実現できると思ったんですね。
そして、
より多くの視点で
作品を見つめることができれば、
作品はより良いものになる!
そう仮説を立てました。
だって、一人の人生で考え付けることなんて、一人の人生分しかないじゃないですか。僕はまだ20歳。20年分のデータしかないんですよ。
でも、僕と同い年の人と力を借りれば、40年分のデータになるし、30代、40代、50代……の方の力を借りれば、言わずもがなですよね。
結果、共同制作を続けていけばいくほど、その考えは間違っていなかったと思えるようになりました。
実は、『桃太郎』以前にも、小説の共同制作はしていました。
僕のまわりの友達を集めて、LINEやDiscordをつかったオンラインでの共同制作をしたんです。完成したのは、小説『メッセージ』。noteで全文共有したところ、ありがたいことに、あたたかくて優しいコメントをいただきました。想像以上でした。
『メッセージ』の肝であるラストシーンは、共同制作メンバーの一人のアイデアでした。僕も大好きなあのシーン、僕が考え付いたものではないんです。コメントを見ると、「ラストシーンに感動した!」という声が多くみられます。
共同制作じゃなかったら辿り着けなかったのです。
そして、今回の『桃太郎』でも同じようなことが起こりました。
☆いただいたコメント全てが道標
しめきり直前になって、「あれ、これおかしくね?」という箇所を作品中に見つけたんです。
その問題点は何かというと、「人間と鬼はもともと同じ場所で暮らしていて、対立したことで、鬼が島流しに遭い、人間は桃の里、鬼は鬼ヶ島で暮らすようになった」という設定にしていたんですね。
これだけなら特に問題はないんですが、「人間と鬼は違う言語をしゃべっている」ことにしちゃったんですよ。それも全く通じ合えないほど、その言語は異なっているっていう、、。
この2つの設定をふまえると、1つの課題が浮かんできます。
「そもそも同じ共同体だったなら、鬼独自の言語が発達するのおかしくない?」ってこと。
もちろん、100%ありえないわけではありませんが、リアリティがないし、おかしくね?と思った時点でその設定に無理があるし、負けです。
ということで、しめきり直前になって、悶々と頭を抱えていました。
で、その嘆きをnoteのつぶやきで共有していたんですが、それへの一つのコメントを読んで、解決したんです。
それは里さんからコメント。
本人は(笑)をつけて、あんまりちゃんとした意見だとは思っていなかったようです。追い詰められていた当時の僕も、「なるほ、ど(笑)」という訳わからん返答をしています。
ただ、少し時間を置いてから見直して、「え、それでよくね?」となったんです。
ここで大事なことは「人間と鬼が同じ場所で住んでいたこと」ではなくて、「人間と鬼が共に生きていたこと」なので、「貿易」という形でお互い共生していたなら解決じゃん!ってなったわけです。
ということで、結論、「人間は桃の里で生まれ育ち、鬼は鬼ヶ島で生まれ育った。かつては海をわたって貿易をしていた」という設定でいくことになったのです。
今は、鬼と人間は対立しているけれど、かつては「共生」していたんだから、きっといつかあの頃みたいな日々が訪れるよね!
という希望的解釈もできます。
なんやかんやありましたが、新しい設定にしたことで、新作『桃太郎』は「より良い作品」に進化したのです。
共同制作していたからこそ、解決できたのです。
こういったことは小さいものも含めれば、たくさんありました。
たとえ僕の考えに合わない意見があっても、「いや、僕はこう思うから……」という風に、自分のこだわりを再認識できるので、意味のないコメントってないんですよね。
みなさんからいただくコメントすべてが道標になって、新作『桃太郎』は想像以上に眩しい目的地にたどり着くことができたなあって思います。
改めて、ありがとうございました!
せっかくですから、みなさんも今回の企画を通じて「よかったこと」を共有してくださるとうれしいです!
次もしまた共同制作やる!ってなったときに、活かせるのでよろしくお願いします!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
横山黎でした。