「語る」ことは、「騙る」こと
ーー事実とかけ離れていても、人は語りたいように語るし、受け取りたいように受け取るので、誰かが語った物語を事実と見なしてしまうことが当たり前のようにあるわけです。
人生は物語。
どうも横山黎です。
今回は「『語る』ことは、『騙る』こと」というテーマで話していこうと思います。
◆人は事実を語れない。
テーマだけきくと何のこっちゃって感じなので、先に結論を申し上げます。
人は事実を語れないってことです。
事実は、この世に一つしかありません。しかし、それを語ろうとすると、どうしても事実とは離れた物語になってしまいます。
どこから、どんな風にその事実を吸収したのか、そして、価値観や思想など自分のなかにあるフィルターを通して認識し、それを自分なりの言葉で、文脈で伝えようとするわけですから、近かれ遠かかれ、事実と乖離したものになってしまうのです。
つまり、「物を語る」ことは、「物を騙る」ことに等しいんですよね。
◆登場人物7人の物騙り
前回、僕は芥川龍之介の『藪の中』について語りましたが、そこでも似たような話をしました。7人の登場人物が、それぞれの精神的欲求に基づいて、自分に都合のいい物語を語っている。そんな風に論じました。
たとえ事実と乖離しても、自らの欲を満たすために、物語を伝える。それが、『藪の中』という物語なのです。
事実をそのまま伝えようとしても伝えきることはできないのに、そこに欲望が結びついてしまったら目も当てられません。事実とはかけ離れた物語を語ることになってしまうのです。
そりゃあ、真相を解明することはできませんよね。登場人物たちが語っているのは、彼らにとっては真実だとしても、揺るぎない事実とは違うわけですし、そんな物語が7つもあれば、何が本当かなんて文字通り藪の中です。
しかし、これは物語におけることだけでしょうか?
僕らは日々、言葉を通じて、「事実」を語っています。もうその時点で、騙っていることになるのではないでしょうか。
◆物語の重なる世界の生き方
僕らの世界は、物語(物騙り)で溢れています。物語のおかげで世界はつくられたし、物語があるから信用が生まれるし、今日があります。
しかし、そうして創られた「事実」は、たった一つの揺るぎない事実ではなく、誰かの物語であるのです。
つまり、事実とかけ離れていても、人は語りたいように語るし、受け取りたいように受け取るので、誰かが語った物語を事実と見なしてしまうことが当たり前のようにあるわけです。
Aさんが、嫌いなBさんのことを語るとき、どうしてもBさんにネガティブな印象がついているから、言葉選びも言種も好きなひとに使うそれらではないんですよね。
それを鵜呑みにしてしまったCさんは、Bさんはそういう人なんだと曲解して認識してしまいます。事実がどうであれ、CさんはBさんの物語に翻弄されてしまうわけです。
きっとみなさんにも似たような状況を経験したことがあるのではないでしょうか。20歳の僕ですらいくつも思い当たる節があるので。
こういう現象が横行する世界ですから、物語のせいで残酷な現実を招くこともあるのです。そのリスクを少しでも減らすためにはどうすればいいでしょうか?
「話を聴く」です。自分の感覚全てを研ぎ澄まして、相手の話を聴くんです。
Cさんは、BさんにAさんのことについてあれこれ言われたあと、Aさんに確認すべきなのです。本人に会って、直接聴くべきなんです。
もちろんAさんだって、自分の都合のいいように物語るわけですが、何せ本人が語るわけですから、Aさんの真実(その人にとっての「事実」)に迫ることができるのです。少なくとも、Bさんより信頼度の高い話が聴けるのです。
そう考えるようになってから僕は、他人の悪口を聞く度に、フラットな気持ちを持つようにしていて、ちゃんと本人の口から聴くまでは信じないようにしています。
結構これが効果的で、その後、本人の物語を聴くと、「あ〜そゆことだったのね!」と納得できることが少なくないので、無駄に人を悪く思う必要がなくなるんですよね。
気休め程度にしかならないかもしれませんが、「会って話を聴くこと」。それが、悪い意味で物語で溢れる世界を上手に生きる術なのかもしれません。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
【#346】20220611 横山黎