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渋谷で働く安城の告白


28歳渋谷で働く営業マン、自分史を書いてみる。
目的はシンプルに『自分を知る』ためだ。
自分が何のために生きて、何のために仕事をして、どこに向かっているのか?
改めて自分というものを第3者目線で客観的に振り返り、これからの人生の『軸』を探す。普段はあまり自己開示しない(できない)が赤裸々に書いてみる。

簡単な自己紹介だ、血液型はB型でMBTIはISTJ(管理者)だ。ストレングスファインダーは学習欲が1番で、好き嫌いがはっきりしていて、サバサバしているが、やるべき事は真っ直ぐにやり続けられる、武士みたいな人間だ。


幼少期〜小学校

生まれ

私は群馬県太田市という田舎に男三人兄弟の末っ子として1996年10月23日に誕生した。

父親母親ともに看護師で普通の一般家庭だ。
家は一軒家で畑に囲まれた家だった。

わんぱくな保育園でわんぱくな少年

両親共働きで祖父祖母もいなかったので、0歳から保育園に預けられていた。その保育園が結構わんぱくで、基本的に外でも裸足で生活をするし、ドッチボールや鬼ごっこなど先生も本気でやるような方針の保育園だった。

この間久々にその保育園に行って園長と話したが、なぜ裸足なのかという質問に対して「もちろん強制ではないけど、裸足で外を歩くと肌で地面を感じられる。ここは柔らかいな、ここは危ないな、ということに靴を履いていると気がつけないところに意識がいく、裸足だからこその発見があるし、体で学ぶから裸足にしていた」と言っていた。実に素晴らしい考えだ。

また、おやつには煮干しを丸ごと食べていた。苦いし骨もあるし不味いけどみんな食べるものだと思って食べていた。きっとこれも体にいいとかそう言った意味があるに違いない。

とにかく毎日泥だらけ傷だらけになりまくっていた保育園時代だ。

幼少期の遊びはゲームじゃなくてフィギアで戦いごっこ

うちは貧乏ではなかったが、ゲームや欲しいものは何かのイベントごとじゃないと買ってもらえなかった。誕生日やクリスマスくらいにしか買ってもらえなかったので、なのでゲームはほとんど家にはなく、唯一あったのが父親がやっていたプレイステイション2の三國無双だけ。これもマイナーなゲームで学校ではあまりやってる人はいなかった。

だからゲームよりも、自分の部屋にこもって色んなフィギュアを集めてラグビーをさせていた。今思うと何が楽しいのかわからないし、戦わせるならわかるけどラグビーってどうやってさせるの?って思うかもしれないが、本当にやっていた。

シンプルにビー玉みたいなやつをラグビーボールに見立てて、ラグビーをさせる。小さいフィギュアが大きいフィギュアにタックルをして倒す果敢な姿が楽しかった。自分でも書いてて恥ずかしいが、そんな少年だったのだ。

ラグビーとの出会い

年長になった頃(6歳)の時にラグビーに出会った。
きっかけは兄の影響で、何で兄がラグビーをしていたのかはわからないが、おそらく友達の勧めで友達と一緒にやっていた。

当時はラグビーというスポーツが今よりももっと知られていなく、変な遊びだなと思ってやっていた。

40分くらいかけて隣の栃木県のラグビースクールに通っていて、全く楽しくなかったけど、ラグビー中にアクエリアスがが飲めるのと、ラグビー終わりにすき家で牛丼を買ってもらえるのが好きでやっていた。ただのルーティンだった。特に何も考えずラグビーをしていた。

真ん中が僕

悪ガキ小学校生活

小学校の頃はとにかく悪ガキだった、不良とかじゃなくてイタズラ好きと言うか、先生や親の興味を引きたかっただけのガキンチョだった。

とにかく悪さが好きで、覚えているのは、友達に膝カックン(そんなに仲良い人じゃない)してその子が倒れ込んで怒られたり←今思うとそんなに膝カックン強いか?。電柱にマッキーで落書きしたり、雑巾で戦いごっこをして周りの女の子の目に入ってしまったり、一番大きいのは、何クラスか合同で跳び箱の授業があり、違うクラスの女の子が2人組でロイター板を運んでいるところにジャンプして乗っかり、女の子の足をロイター板がガリって擦れて怪我をさせたり、今思うとなぜそんなことをしたのかわからないが、ダメなことだとわかっているがやってしまっていた。

その度父親に怒られている僕を見て、母親はたまに父親に言わないでこっそり2人で夜車で友達の家に行って謝りに行ったりした。そこで母親からの愛情をとても受けていた印象がある。

左が僕で、右が2つ上の兄

少し気性が荒い父親

父親は少しだけ気性が荒かった。暴力とかがあったわけではないが、酒を飲んではテレビに暴言を吐いたり母親と喧嘩をしょっちゅうしているような人で、ただ僕にだけは優しく、ヒイキされていた気がする。

後は血液型も同じで、性格も似ていたので何となく父親が感じているようなこと怒りそうなことも予想がついて事前に回避できていたのかもしれない。この頃から他人の顔色をうかがうのが得意になったのかもしれない。

ラグビーが楽しくなった小学5年生

ラグビーを始めた当初(小学1年生)の頃は全く楽しくなかった。理由は小学校の友達でまずラグビーをしている人が少ないし、テレビ中継されるスポーツやアニメやドラマも野球やサッカーでラグビーをほとんどの人が知らなかった。

また、通っていた足利ラグビースクール(栃木)がラグビー人口が少ない中さらに少なくその中でも僕の学年は一番少なく2、3人しかなかった。なので練習も体力練習や基礎練習ばかりでスポーツをしている感覚はなく、試合も他のチームに混ざって知らない人たちとその場限りのチームで試合をしていたので面白くなかった。

それでも続けていたのは、兄弟もやっているという謎の使命感と、母親が応援してくれている安心感でやっていた気がする。後はやっぱりアクエリが好きでラグビーをしに行ったら飲めたり外食ができるのでとりあえず続けていた。

そこで、なんのきっかけだったか覚えていないが足利ラグビースクールから東毛ラグビースクール(群馬)に移動した。
そこは現パナソニックワイルドナイツというプロチームが本拠地としていたグランドを借りているジュニアチームみたいな感じだった。そこではラグビー人口が多く、各学年20人ずつくらいいて練習も本格的だった。そこから試合もチームのみんなでできるし、練習も楽しくなって、ラグビーが好きになった。

また、プロの試合を見にいく機会が増え、将来の夢はラグビー選手になりたいと思うようになっていた。

中学

勉強は苦手だったが、学ぶことは好きだった

勉強は、というと120人中80位くらいの成績で下の方だった。ただ体育や美術等のテスト以外の評価割合が多い強化で点数を稼ぎ、成績表は3.2とかだった。勉強は嫌いなわけではなかったが、点数が中々伸びなかった。

実際に数学とかは全く授業が理解できないので、朝早く学校に行き勉強ができる友達に教えてもらったり、授業は絶対寝ないしサボらないし真面目に受けて質問とかもしていた。

単元の最初の方の基礎的な話はわかりついていけるのだが、応用になると一気に置いて行かれていた。そこで考えてもわからない子にはやる気が出せずにほったらかしで、あまり勉強ができなかった。

ちゃんとテスト期間は自分の部屋にこもって勉強をしていたし、宿題も必ずやっていた。新しいことやできないことを学んでいく行為自体は好きだけど、うまく結果に現れなかった。

中学3年間は陸上部に所属

6歳からしていたラグビーは続けつつ、全生徒部活動には入らなければいけない決まりだったので陸上部に所属していた。月曜から土曜までは陸上部での活動を、日曜はラグビーをしていた。今思うとオフはなかった気がする。

なぜ陸上部かというと、兄2人も同じように陸上部に所属しながらラグビーをしていたからだ、多分理由は日曜日に練習や試合が入ることがないためだ。僕自身も走ることは好きだったし何よりリレーが大好きだった。あのみんなでバトンを渡していく感じ、遅い人もいればめっちゃ速い人もいて、足が速いとヒーローになれる感じが好きだった。

小さい時からスポーツはなんでもできたから何部でもよかったし、特にやりたい部活がなかったので陸上部にした。それなりに3年間県大会に行ったり、リレーの選手になったり、高跳びに挑戦したり、一時期はラグビーより陸上の方が輝けるんじゃね?と思った時期もあったが大会に出ると上には上がいて打ちひしがれていた。

特にこれといった思い出はないが、イタズラ好きは中学校になっても変わらず、覚えているのは学校の壁の塗装がぺりぺりと剥がれているのをさらに広げて剥がしていくことが好きでやり続けていたらとんでもない量のぺりぺりが床に落ちていて担任に怒られ、顧問にも怒られ、一時期「校内清掃課」として毎日部活の時間は雑巾掛けをし続けるという罰を2週間くらいしたこともあった。

あとは、陸上の大会の時にお菓子禁止だったけど女の先輩にもらったアメを舐めながら試合観戦をしていて、同じ学校の選手を応援するため観客席の一番前まで行って応援していたところ、口に虫が入ってぺってしたらアメが競技場内に落ちて、顧問に怒られた時に女の先輩からもらったとは言わないという当時の男気を発揮したが、誰にも何も感謝されなかった。

自分の中学校はそこまで成績が良くなく、みんな最下位とかでゴールをしている感じだったが応援することは好きだったし、いつも一緒に練習している人達が頑張ってる姿は好きだった。ちゃんと3年間やり遂げた。

ラグビー県選抜に選ばれて、全国大会の夢破れる

中学生になってからラグビーがまたあまり楽しくなくなった。理由は小学生までは20人くらいいたクラブチームだが、中学生になるとみんな学校の部活動に専念するので5人くらいになっていた。その為、また幼少期と同じで試合の時には他のチームに入りながら試合をしていた。だから、メンタル的には陸上にかける気持ちの方が強くなっていたと思う、これも続けていた理由はちゃんとあって、中学3年になるとラグビーの県選抜というものがあり、群馬県内のラグビースクールの中から20人くらい選抜されて関東勢と試合をして2位までに入ったら全国大会に行けるというものがあったからだ。

ラグビーはセンスがあった、というか足が早かったのと気持ちが強かったので、昔から敵には情けがない激しいプレーができたのだ。そこそこいい選手だったのでちゃんと県選抜メンバーには選ばれた。ただ結果は全国大会にはいけなかった。負けたのだ。初めてラグビーの試合の勝敗で泣いた。悲しかったのは全国大会に行けないことよりも、みんなとラグビーができなくなることだ。色んな市から選抜されているから、高校も離れるし(もちろん同じメンバーもいる)このチームでできることが最後ってなった時にとても悲しかった。

だけど小さい時から引きずらない性格だったため、次の日になったらすっかり忘れて学校でおふざけをしていた。ラグビー人生初めての挫折なのではないでしょうか。この時から仲間意識はかなり強い性格だった。

友達がみんな非行に走った

小学校高学年からそうだったが、友達は非行少年が多かった。今考えると真面目に勉強だけしてるやつより非行少年の方が見応えあるしおもろいので友達になりやすかった。

だが中学2年になるとみんな暴走族に入って、学校にも来なかったし疎遠になった。一番悪いやつと私は一番仲が良く、保育園から一緒で暴走族になったこと、髪を染めて学校にきていたり、学校で暴れている姿を見ると若干悲しくなったのを覚えている。ちなみにそいつは今群馬で建設業の社長をしている、昔から義理人情はしっかりしていたし仲間を大事にする性格だった。

そいつの暴走行為を止められるのは私しかいなく、多分クラスが同じクラスだったのはそれもあってだと思う、いつも止めていた。暴力的なその子だが、俺がふざけながら止めると笑って静まっていた。だけどその効力は短く何分か後にはまた暴れていた。そいつ以外でも何人かが暴走族になって非行をしていたが、自分が飛行に走ることは一切なかった。理由はかっこいいとは思わなかったからだ。ラグビー選手の方が何百倍もかっこいいし憧れた。タバコも吸わなかったし、周りが暴走族になったからといって流されるような性格ではなかった。あとは兄弟の存在が大きい。みんなちゃんと高校に行っていたしラグビーを続けていた、周りに流されることはなかったが、人の人生って色々あるんだなと思い俯瞰してみていた。

初めての進路選び

保育園から中学校までほとんど同じメンバーで同じ進路を歩んでおり、高校選びで初めて自分で進路を選び進んでいくという体験をした。幸いなことにラグビーである程度の結果を出していたので、5つくらいの高校からスポーツ推薦のスカウト?的なのがきて、選び放題だった。

一番濃厚なのが兄2人が行っている高校で、家族もみんなその高校に行くと思っていたと思う。ただ私が選んだ高校は違う高校だった。それは当時群馬県で一番強かった高校で、兄と違うこと、家から遠いということ、この他にはない感じが当時も私にはたまらなく優越感があったので選んだ。

あとはシンプルに強い高校に行った方がいいに決まっていると思っていたのでその高校にした。周りの友達はほとんど近所の高校で、偏差値別で選んでいる感じで、遠くの高校に行くのは結構珍しかった。それもあってその高校を選び、中学校の中で一番初めに進路が決まった。

願書の写真

高校

モラハラコーチとの歪な生活

高校に入ると1つ上の先輩とコーチ(23歳くらい)との3人での寮生活が始まった。1つ上の先輩は地元の先輩で家も近く、小学校中学校とよく遊んでいた。その人に誘われてその高校に行った。

家から高校は遠く、自転車→電車→自転車で大体2時間弱かかる。なので、監督の意向で寮生活をすることになった。寮といってもコーチと先輩と3人でアパートに住む生活で家賃や食費をみんなで生活費を割りながらの生活だ。

最初は割と仲良く生活をしていたし、コーチとの距離が近くラグビーの勉強もできるし、充実していた。ただそのコーチがモラハラというか好き嫌いがはっきりしていて、嫌われたら口も聞いてもらえないし、無視されるし、そういう陰湿な人だった。どんな理由だったか忘れたが、そのコーチが家に帰ってくる前に鍵を閉めてしまって入れなくなり、それを違うコーチづてで後日にきき、そこから僕のことを嫌っていたんだと思う。

練習中も喋らなくなったし、いない存在のように扱われた。好きな人は絡んで、嫌いな人とは一切絡まない、今思うとコーチになるべき人望ではない人間だった。

そんな3人の歪な生活も1年で終了し、そのコーチが原因で僕と先輩は実家から通うようになった。結局そのコーチは僕が3年生の時に同級生のモンスターペアレントにクレームを入れられて、解雇になっていた。


真ん中が俺だ

増量という名の激太りするも肯定化

高校の時のトレーナーの教えでご飯をたくさん食べるようになった。なぜなら、トレーナーからたくさん食べれば強くなるし、〇〇先輩もこれで体づくりをしていたと教えられていた。入学当時は68キロくらいだった体重が2、3年生の時には87キロくらいにまで膨れ上がっていた。

もちろん筋肉で増えたのもあるが、脂肪ものっていた、だけど怖いことに自分が太っていることに当時の自分は気づいておらず、筋肉で増えていると勘違いしていた。確かシャトルランも90くらいしか行かないし、試合でもバテバテになっていた。

だけど、監督もコーチもやせるようにいってくれる人はいなかった。だからこれは筋肉で増量していて、体が重くなっているから走れなくなるのは当然だと思っていたし、かなり勘違いをしていた。当時の食事は、朝はおにぎり2つとコンビニのおでんとうどん、昼食は珍しく給食が出る学校だったので、給食プラスで家から持ってきたお弁当、練習後にはコンビニで軽食を取って帰宅し通常通り夕飯を食べていた。

そんな生活を繰り返していたら太っていた。その時に、人間は自分の今の環境を正当化しようとするし、他人の変化にみんな口を出さないから、客観的に自分を見ることができないと本当に危ないなと思った。

当時体重86kg

ラグビー人生二度目の挫折

僕は幸いにも1年生の時からレギュラーで、試合に出場をしていた。その時の僕は血気盛んで、先輩とか関係なくアグレッシブなプレーをして監督から気に入ってもらっていたと思う。元から足が早かったのと、おそれを知らないプレーでレギュラーを獲得した。

僕が一年生の時には全国大会常連校で4度目の出場をかけていた年だった。だが、その年の先輩方はほとんどの人がラグビーを高校生から始めた人が多く、今年は全国大会に行けないんじゃないか?と噂をされていた。だが僕の1個上の代と僕の代は間違いなく県内ナンバーワンの人材は揃っていたので、全国大会になんだかんだいけるだろうと思っていた。

花園予選(県予選)準決勝で僕達は敗れた。僕も80分間グランドには立っていたが、その時は初めて大勢の観客の前で負けたら終わりのトーナメントの緊張感もありあまり覚えていないが、気づいたら負けていた。王座奪還、そう言われて敗北した。

しかも僕達に勝った高校じゃない高校が全国大会に出場した。この時は、ただただ先輩達に申し訳ない、出れないメンバーに申し訳ないという感情が多く、自分たちが全国大会に出場できないことよりも、自分たち以外が全国大会にいくことの方が悔しかった。ラグビー人生2度目の挫折だ。ちなみにその試合以降僕のチームは高校ラグビー人生で群馬県内で負けることはなかった。

高校3年は全国ベスト16で敗退

高校3年生も全国大会に出場した。一回戦と2回戦はなんとか勝利し、3回戦は強豪の東海大仰星高校だった。花園でのラグビーは本当に光のような思い出しかなく、多くの観客、歓声の中試合をしていたので夢のような時間だった。実際に思い出してみても、ふわっとしている記憶しかなく光の中のイメージしかない。結果は3回戦で敗退、55-0で僕の高校ラグビー人生は終わった。ちなみに僕たちが大敗した東海大仰星高校は次の試合で東福岡高校(優勝校)に大敗していて、とんでもない世界だなと思った記憶がある。

高校ラグビーを振り返ると本当にたくさんの思い出がある。正直後悔はしていない。ラグビーに人生を賭けて、みんながバイトをしている時に男どもと汗をかきながらラグビーをしていたのが泥臭くていいと思っている。

ラグビー人生での一番の思い出は間違いなく高校時代の全国大会だ。本当に一生の思い出だと今でも思う。

高校最後の試合vs東海大仰星高校

大学選び

大学ではラグビーをやろうと考えていた。自分の中で大学まではラグビーをやるという使命感を勝手に持っていたし、ラグビーが好きだったので大学でも普通にやることを選んだ。高校のラグビー部の半数以上が大学に進学してラグビーを続けるという環境もあったと思う。そこで志望していたのが大東文化大学だった。

理由としては幼馴染の仲のいい先輩が通っていたことと、高校の先輩も好きな先輩が何人か通っていた。そして将来の夢を考えた時に学校の先生になりたいなと思ったので、スポーツ何ちゃら学部がある大東文化大学に行きたいと思った。

そこで監督がなんとか話をつけてくれて、ほぼ決まり、あとは試験を形上するだけだったが、突然推薦がキャンセルされた。理由は、トンガ人留学生を取るため人員が余剰になってしまい、僕がキャンセル対象になったのだ。しかも3年の10月くらいの出来事で、悔しいというよりかは、どうでもいいやって思った。特に焦りはなく、なんとかなるだろうと思っていた。

その時に監督から薦められたのが日本体育大学だった。高校のOBが行っていることもあり、体育免許といえば日体大なので薦められ、特に考えてはなかったが、名前もかっこいいし、まあいいかと思って決めた。

本当は中央大学とか青山学院大学とかに行きたかったが、学力が足りず、スポーツの能力も足りず、日体大になった。当時、日体大は2部リーグで少し舐めていた、大学に入って1年からレギュラーで弱いチームで1人だけ目立っちゃおと思っていた。

高校での感謝

高校ラグビー人生を振り返ると、親を全国大会に連れて行きたいという気持ちが大きかったので、頑張れたのかなとも思う。兄2人は全国大会に行くような高校ではなかったので、いけず、最後の希望は僕だった。そして、練習試合や公式戦も全部見にきてくれる親に感謝の思いをプレーで見せたいという気持ちは誰よりもあった。

僕の両親は口数が多い人ではないが、僕のことが大好きでいつもきてくれていた。僕が全国大会に出場した時のメールは今でも大事に保存してある。最後の成績は全国ベスト16。高校ラグビー、高校人生は本当に色々あった、恋愛もしたし、ラグビーもしたし、ちゃんと遊んでいた。途中でラグビー部を辞めた友達の岩村くんの家にバレー部の友達の折原くんと泊まりに行くことが楽しかったり、野球部の岡田くんの家でたこ焼きパーティーをしたり、ラグビーの練習はきつかったし、楽しくなかったけど、学校の友達にも恵まれて、そこそこ楽しかった。いい高校3年間だった。

花園最後の試合前の母親からのメール
花園最後の試合前の父親からのメール

大学

体育大学の洗礼


大学入学は4月1日だが、ラグビー部の入寮は3月20日くらいからだった。横浜の青葉台駅に1年生みんなで集合してバスに乗って寮に向かう。実はその時に先輩が1人隠れていて、調子に乗っている新入生がいたら報告してあとで締められるのだ。

そんなことも知らずに、みんな初対面なので何気ない会話をしながら寮に向かうと、、映画クローズゼロのように先輩達がベランダに乗り出して、布団叩きや木の棒で壁をバンバンしながら騒いでいた。

イメージ図

その瞬間誰もが、来る大学間違えた。と思ったはずだ。そのまま部屋が決まっていたので部屋に行き先輩に挨拶を済ませて、日用品の買い出しに出かける。

部屋割りは1年生2年生3年生4年生の4人部屋で、6畳くらいの部屋の中に2段ベットが2つ置いてある部屋だ。その買い出しに同部屋の2年生と行くのだが、2年生はみんな優しかった。1、2年バーサス3、4年の構造がなんとなく出来上がっていた。

その買い出しの時に、どうやら部屋っ子紹介という儀式があるらしく、1年と2年がセットになって20部屋ある部屋に挨拶(自己紹介)をしに行くというものだ。一発芸も用意しておいた方がいいという情報もあり、楽しいものだと思っていた。22時に点呼が終わり部屋っ子紹介の時間が来た。それは想像していたものとは違く、恐怖の2時間だった。

まず、危険とされている部屋が何部屋かあり、そこを先に突破するかどうか?を作戦会議した。ちなみにかなり危ない部屋は「シュンタロウ」と「シュンスケ」という4年の部屋だ。

部屋の中で何が行われるかというと、まず部屋に入るためのルールがあり、そのルール通りじゃないとまず怒号①、声が小さいと怒号②、なんでできないんだ?と矛先が2年にいく怒号③、一発芸が面白くないと怒号④、しまいにはお腹に蹴りを入れられていた2年生もいた。後々あれは儀式なようなもので、みんな仲良かったが、なぜ仲がいいのにお腹に蹴りが入れられるのかは理解不能だ。

20部屋を周るので、全部終了する頃には12時を回っていた。とにかく恐怖を植え付けられた。ただこの時から僕は済ました顔で、めんどくさいと多分顔に出ていたし、こいつをいじっても面白くならないなと先輩からも見られていたと思うので、そこまで部屋っ子紹介でいじられることはなかった。これが体育大学の洗礼かと思い知らされた。

大学ラグビーのレベルの高さを思い知った3年間

高校の時は全国常連校で1年生からずっとレギュラーだった。レギュラーじゃない時期が入学してから3、4ヶ月くらいでそれ以外はレギュラーだった。しかも日体大は1部リーグに入るものの順位は下の方で、余裕でレギュラーになれるだろうと正直思っていた。

だが現実は甘くなく、よくてサブメンバーに入る程度で、3年間はずっと2軍で試合をしていた。その時の心境はというと、なんで俺の良さに気づかないんだろうか?見る目ないなーと諦めていた。相変わらず努力はしていた、毎日練習後にはタイヤ引きやスピードトレーニング、筋トレをやっていたし、オフの日も筋トレをしていた。

今思うと、レギュラーになれない自分の保身のためにやっていたのかもしれない、練習をたくさんしていると安心するし冷静でいられた。上には上がいるんだなと強く痛感した。

何のために大学に来たのか?自問自答

授業はというと、本当にサボっていた。朝練が6時からあったのもあるが、寝れる授業は全て寝ていたし、出席しなくていい授業は出席しないで寮で昼寝をしていた。テストは違うクラスの人に問題を教えてもらったり、カンニングペーパーを作ってなんとか生き延びていた。本当にクズの大学生の生活をしていた。

大学何年生の時の授業だったのか、何の教科だったのか、全く覚えていないが、心に響いた話をしてくれた教授がいた。もちろんその人の名前は覚えていない。教授達も日体大は部活生しかほとんどいないので、僕と同じように授業は寝る人が多かったが、容認している教授が多かった。というか大学の教授は高校と違い、生徒ができなかったら単位を上げないだけで、責任はないのだ。

その教授が言っていたのは「寝てるやついるけど、お前らは何しに大学に来たんだ?多分部活推薦できたと思うが、いくらかかってると思う?日体大の学費は1年間で160万円、4年間で640万円だ。それを計算して1つの授業で2000円くらいだ、お前らは2000円で寝てるだけだぞ、もう一度考えた方がいい」と。その時は何とも思わなかったが、後でよく考えたら、何しに俺は大学に来たんだ、、と考えさせられた。こんな生活を両親は望んでいるのか?高い学費を払って部活と寝るだけ、そんなんでいいのか?と自問自答し、大学3年時から就職活動の影響もあり改心した。そこから授業は基本一番前で受けて、1度も授業で寝なかったし、出席しなくていい授業も全部出席した。根は真面目なのだ。

4年時にはキャプテンを任された(臨時で2ヶ月だけだけど言わせて)

3年生までレギュラーにはなれなかった。3年生になると就職活動が始まる。大学卒業後にラグビーをしない人は基本就活に時間を割いて部活動より優先でやっている人も多かった。僕もその時点でラグビーはせず警察官になることを決めていた。

だが、何のために大学でラグビーをしているのか?と考えたら、これも両親にレギュラーとして試合している姿を見せたい一心だった。だから、レギュラーの道を諦めずに練習に励んだ。自分は大学ラグビー界ではかなり体のサイズが小さい方だった。172センチ80キロ、試合をする強豪校、帝京大学や早稲田明治の同じポジションの人は大体180センチ以上で100キロくらいだった。

そこで僕がレギュラーになるためにやったことは2つだ。1つは、監督が求める自分のポジションの理想像を把握することだ。自分のポジションは基本的にコンタクトが多く、相手のディフェンスを体を張って突破したり、前線でタックルするような体を張るポジションだった。そこで僕は体格が大きい人と同じように突破することやコンタクトで負けないように考えていたが、そうじゃなかった。監督に聞いたら、ミスをしないこと誰よりも走ること、を僕に求めていた。

だからそのプレイヤーを僕は演じ切った。確かに、僕以外にトライを取れる選手はいるしセンスのある選手、突破する選手はいた、それはできる人に任せて自分は自分の仕事をしようと考えた。そして4年の夏くらいからレギュラーを獲得し、全試合レギュラーとして出場した。最後の2試合はキャプテンが怪我により離脱したので代わりにキャプテンとしてチームを率いた。その時が一番自分が好きだったし、慕われること、信頼されること、責任が大きいこと、それをしている自分だ好きだった。


大学最後の試合の後の写真

公務員試験と部活動の両立生活

大学2年の冬くらいから公務員になろうと決め少しずつ勉強を始めた。その時は消防か警察か迷っていたが、最終的には警察にした。理由はたくさん仕事がありそうだし、刑事やSPの仕事に憧れて志望した。

公務員試験は大学4年生の4月から5月の間で実施される。今でも覚えているのが1月の模試で10点だったことだ。合格ラインの点数が50点満点中25点で、その半分にも満たない数字だった。しかも試験が3ヶ月後に迫っていて、流石に焦った。そこから勉強に熱心に取り組んだ。

変わらすラグビーの練習はあるので、朝練をして日中の授業の合間で勉強をして、夕方から練習し、寮に帰るのが20時で、21時から23時くらいまで勉強をして、土日はフルで勉強の時間に充てた。練習以外の時間を全て勉強時間に費やした。人生で一番勉強していた時期かもしれない、教員の道もやめたし一般企業で働く気もなかったので、死ぬ気で勉強をした。そして第一志望の群馬県警に合格した。その時が8月くらいでちょうど夏合宿をしていた時期だった。

群馬県警の最初の試験を受けたのが5月で結果が8月、その3ヶ月間で僕の心境は変化していて、「群馬に戻ったら何もない人生にならないかな?」とふと思ってしまったのだ。地元の友人はずっと同じ工場勤務をして家庭を作って家を建てて、そのルーティン人生になってしまうのではないかと考えて、神奈川で働きたいという気持ちが芽生えてしまい、群馬県警の内定を辞退し、神奈川県の2回目の試験勉強に励んだ。関東の警察官の試験はは東京以外は全て同じ日程で行われるので併願ができない。なので、もう一度試験勉強をすることにした。正直、一次試験が5月でそこからもう勉強はしていなかった。

8月に神奈川県警を受験することを決め試験は11月、また勉強生活が再スタートした。今思うと、2回目の神奈川県警を落ちたらもう行くところはなく、どう考えてたのか覚えていないが、意外に楽観的でどうにかなるでしょ精神を持っていた。そして2回目の神奈川県警の試験に合格し、見事警察官の道を作り出した。

人生最初で最後のアルバイト

ラグビー部は高校も大学も部活動が終了するのが1月だ。そこから始めて自由の身になり、みんなするのがアルバイトだ。3月の前半までになるので2ヶ月間くらいしかなく、どこもそんな短期アルバイトは募集していなく、引越しの単発バイトやイベントのバイトをみんなやっていた。

僕は後輩の親の知り合いが派遣会社の社長をやっていて、そのつてでフルーツ屋さんでアルバイトをすることになった。特に短期間だったので職種とかはどうでも良く紹介されたのがそのバイトだったのでやろうとなった。仕事はシンプルでりんごやみかんを袋詰めすること、ゴミを捨てること、それくらいだった。特に同じ作業も苦ではなく、人間観察をしながら1人で楽しんでいた。店長も副店長も他のスタッフさんも全員優しくて、働くのに苦労はしなかった。特に目立ったエピソードはないが、人生で最初で最後のアルバイト経験だった。

警察官人生

警察学校

警察官になると全員が入校するのが警察学校だ。高校卒業組は10ヶ月間、大学卒業組は6ヶ月間入校する。都道府県によって変わるが全寮制で生活を全て警察学校内で過ごすのだ。

僕は県外勢(群馬県出身)だったのでみんなが入寮する前の日に前のりで入寮することになっていた。噂では携帯電話は使えるんだか使えないんだか、今ほど情報が転がっていなかったので半信半疑のまま、流石に前のりのその日は使えるんじゃね?という微かな希望を抱いて入寮した。

そんな希望は一瞬で終わり、警察学校に入った瞬間携帯電話は没収された。それから5月のGWまで携帯電話を触ることはなかった。

警察学校の時間割はこんな感じだ
6:30 点呼
7:00〜7:30 清掃
7:30〜8:00 朝食
8:30〜17:00 授業
17:00〜18:00 自主トレーニング
18:00〜19:30 夕飯・風呂
20:00〜21:00 自主勉タイム
21:00〜22:00 点呼・清掃
22:30 就寝

これを平日ひたすら繰り返す。

ただ、僕は高校生から寮生活をしていたし、規則正しい生活をしていたので全く苦じゃなかった。むしろ、練習がない環境が楽勝すぎて肉体的に疲れた覚えがない。ルールがかなり多かったのでそこら辺はめんどくさかったが、他の人に比べて集団生活は慣れていたし、怖い先輩もきつい練習もないので、楽勝だった。

強化訓練期間

入校して最初の1ヶ月間は土日も外出はできず、ずっと学校内で生活する。授業も本格的な授業ではなく、基礎動作だ。ひたすら回れ右や敬礼、行進を繰り返す。少しでもずれていたり、間違った動きをしたら教官から怒鳴られて、腕立て伏せをさせられる。これも全くキツくなかった。強いて言えば、腕立て伏せをする際にアスファルトなので熱かったくらいだ。

内心、これでお金もらえるとか超ラッキーじゃんって思っていた。同じ動作の繰り返しでも毎回考えることがあったり、前よりもスムーズにできるようになったり、可愛い子を見つけたり、自分なりに楽しんでいた。教官もみんな怖がったいたが、僕は全く怖くなかった。大学の先輩の方が怖かったし、どうせ無理して怖い人演じてるんだろうなーと見下していた面もある。ただこれは結構事実で、警察学校生活が長くなるにつれて、みんな教官と仲良くなり、優しい人は多かった。ただ一部、本当に変な人はいた。

試験

警察学校も通常の高校のように中間試験と期末試験がある。あと毎月漢字テストもある。評価点はないが、赤点を取ると教官に怒られるっぽい。僕はとったことないのでわからない。試験はほとんどが暗記で、ここからここまで出るから暗記してこい、というものだった。ただこれが期末になると9教科くらいあるし、暗記の量のレベルはものすごかった。期末テストの全教科の暗記する箇所を合わせると軽い本1冊分くらいあると思う。しかも句読点や、改行の位置、丸の位置、全て暗記する。なので、点呼中や移動中に呪文のように唱えながらひたすら暗記した。

計算や複雑な興味のない勉強は得意ではないが、暗記なら気合いでなんとかなるので警察学校時代の成績は結構良かった。卒業式で全体で9位までの成績の人は表彰されるのだが、僕は8位で表彰された。これは試験の点数もあるが、内申点的なものもあり、僕はクラスの中で4人だけ役を与えられる(学級委員的な)中にも選ばれたし、同期にも普通に厳しかったし、それも含めて190人くらい同期がいる中で8位だった。

警察学校卒業式の写真

鍵紛失事件

そんな成績だったが、実はちゃんとやらかしていた。ロッカーの鍵を紛失したのだ。警察官での紛失は世間一般での紛失とは訳が違く、かなり重い。それはそうで、人の命を守る立場であり、仕事上のものは無くすのはダメで、警察学校でも紛失に関してはかなり厳しく見られていた。

そこで僕はちゃんとロッカーの鍵を無くした。鍵類は常に伸びるチェーンにつけて、ポケットに入れているので、どこかでそれが外れて落ちたんだと思う。クラスの1人が鍵をなくすと連帯責任でクラス全員で探すことになる。夜も昼もみんなで探したがなかった。僕はもう諦めていて、ないものはないのになんでそこまで探すのかなと思っていた。この頃から警察は向いていないと少しずつ感じていた。まあといっても、僕以外でももっとヤバいものを無くしている生徒もいたりするので、そこまで大ごとではなかったが、警察学校唯一の失態だった。

警察辞めようかなと思い始めた

そんなこんなで警察学校に入校して4ヶ月くらい経って、僕の心に変化があった。「警察官向いてないんじゃね?」というものだ。

なんでそんなことを思ったのかというと、キツイとか、厳しいとかでは全くない。色んな授業を受けていく中で、周りの友達は、白バイに乗りたいや刑事になりたい、と希望を持っていたが、特にやりたいことが見つからなかった。

そういえば、警察学校で初めて制服を着た時も、みんな鏡の前で嬉しそうに何度も見ていたが、僕は全くそんなこと思わず、むしろダサいなこの服と思っていた。そういう性格の違いもあって、警察官という仕事に自分が向いていないなと思い始めた。正直、警察官の進路が決まった後に、自己啓発本やビジネス書が好きで読んでいく中で、普通の会社員や起業家に憧れを持っていたのもあった。

そこで公衆電話で母親に電話をし、辞めたいと言ったが、もう少し頑張ってみてと言われ、次の週末に神奈川まで会いに来てくれるといってくれた。結局何か時間がうまく合わずに会ってないが、自分の中でもとりあえず現場に出てみないとわからないよなと思い、頑張ることにした。

そして現場へ

警察学校を無事卒業して、現場に出ることに。配属は鶴見警察署、神奈川県の警察署にランダムに配属されるのだが、その中でもA署B署C署と忙しい順で分かれていて、鶴見はA署つまり忙しい警察署だった。

神奈川出身の人達は実家から通えるところに配属になり、県外の人は本当にランダムだった。三崎とか小田原とかじゃなくて本当に良かったと思っていた。また県外組は最初は基本寮生活で、決められた寮に入寮する。僕が入った寮がかなりひどく、廃墟みたいなところだった。風呂とトイレは共用で、ボットん便所だった。和室の8畳くらい(無駄に広い)で押し入れがついているだけ、基本2人部屋で知らない先輩と同じスペースで寝るのだが、人数の関係で僕は1人部屋だった。先輩と同じ部屋の人は喫煙をする先輩でマジで大変そうだった。

現場では交番勤務で、交通整備や事件事故の処理、巡回連絡を行う。鶴見署は忙しく、僕が配置になった交番は駅前の交番だったのでコロナ前だったこともあり、夜中には通報が必ず入った。警察官は基本夜仮眠を取れるのだが、忙しい交番だと通報が入って寝られない。僕の交番もそうだった。今でも覚えているのが台風の日だけ唯一ちゃんと朝まで寝られたのだ。警察官の仕事は嫌いではなかった。何か人と仕事をすること自体が好きだったし、普通に生活していたら出会わない人と対面したり、非日常感が楽しくもあった。


警察官辞めた

僕は大体2年から3年くらいで警察官を辞めた。理由は警察官で働く先輩方を見て、自分の将来が見えてしまったからだ。もちろん部署によって仕事は異なってはくるが、僕から見えたのは『休日のために働く』姿だった。公務員は多いと思うが、プライベートと仕事は分けて考えて、休日のために仕事をしてプライベートで幸せを築く人が多いように感じた。それがどうこうではないが、自分は仕事で幸せを感じたいなと思ったし、仕事が我慢の時間として捉えることができずに、10年後も20年後もこうやって仕事を割り切って頑張るのか、と思って改めて警察官という仕事が自分には合わないなと感じた。

ただそうは思っていながらも次がないと辞めるわけにはいかないので、自分の頭の中で非常勤の教員でまずはやってみるか、群馬に帰って適当に仕事探すか、ラグビーのコーチもいいな、とかぼやっと考えていた程度だった。なぜなら未来が見えたことに嫌な思いはしたが、仕事内容自体が嫌とか人間関係がとかではなかったので、とりあえず仕事は続けていた。そんな中、ある出来事があった。

前提として、警察学校の教官は全員警察官で、会社でいう部署が違うだけだ。しかも警察官は年に2回の異動がある(もちろん異動しない人もいるが組織としてある)ので警察学校を卒業して現場に就いたら警察学校の教官が上司としていたという人もいたりする。

そして僕の鶴見警察署にも僕が現場に拝命して次の異動の時期に警察学校の教官が課長として就任した。その教官は直接的に関わったわけではないので、顔見知りくらいだった。

その課長と僕が警察学校の時の担任教官が仲良いらしく、警察学校の時から辞めたいと言ってた僕を心配してか、担任教官から課長に連絡がいったらしい。そしてその課長からではなく、係長(課長の一個下のひと)から呼び出されて、そのことを話しされた。そこで僕もうまく誤魔化せば良かったが、そうですね、ちょっと教員やろうかどうしようか悩んでいてと言ってしまった。

そこから上司の僕をみる目が変わり、現場に呼ばれる際にも僕以外が呼ばれるようになったし、明らかに避けられているのを感じた。挨拶をしても返さない先輩もいた。そして最後課長に呼ばれ、話をされたが、僕は嘘はつけないので、正直に今の自分の気持ちを話したら、3当直くらい休んで考えてこいと言われた。3当直というと泊まり勤務も含まれてになるので10日間くらいだ。僕はそんなに休んだら多分行きたくなくなるし、現場で変な噂が広まって仕事しづらくなることがわかっていたので断ったが、結局押されて休暇を取ることになった。

そこで僕も色々考えた、実家に帰って両親とも相談をしたが、結局次の仕事が決まるまで頑張って、決まったら辞めようと話して実家を後にした。そして10日ぶりに仕事に行き、朝礼前に係長に続けることを伝え(別に辞めるといってないけど元々)朝礼に参加した。

ただその朝礼後課長に呼び出され、本当に続けるのか?いいのか?と執拗に迫られた。多分異動時期と重なっていたので、僕が残るといって何ヶ月後に辞めるとなったら人員が足りなくなるので上としても都合が悪かったのだろう。その時に、こんな自分たちの組織しか大事にしない人の下で働きたくないなと思い、じゃあやめますといった。

辞めるといってからはスピードがかなり早く、午前中に交番に忘れ物がないか確認し荷物をまとめて寮に帰った。2日後くらいに係長が寮に来て、制服や貸与品の回収をしてくれて、その2日後くらいに本社で面談をして終了した。これで警察官人2年間半が終了した。

ここで学んだとことして、結局人って自分が一番大事だし、人生は自分で切り開かないと結局誰も助けてくれない。自分の人生をよくしようとしている人たちの集合体が人類なんだなと強く感じた。そこから人を疑うようになったし、簡単に人を信じなくなった。ドライ性格が出来上がったのだ。

ただ警察官人生を振り返ると感謝しかない。大学を卒業してから、あんなに学生をする人生なんてない。勉強をして運動をしてテストをして、第二の青春だった。現場の経験も貴重なもので、僕なんて人生に110番をしたことが1回もなかったけど、鶴見警察署管轄エリアだけでも1日60件くらい110番がある。普通に生活していたら出会えない人と関わったし、警察組織の凄さを思い知れた。

最後辞める時の話だけを切り取られると嫌なイメージになるかも知れないが、それ以外は楽しいことばかりだった。警察学校の時から給料はもらえたしボーナスも1ヶ月分くらいかな?もらえた。新卒1年目からボーナスも50万円くらい入るし、3交代制なので1日休むだけで3連休になる。同期同士でも仲良く休みの日に遊んだり、楽しかった。ただ自分が警察官という国を背負う組織に合わなかったと言うだけだ。心からいい時間だったと振り返っても思う。

警察学校卒業式時の両親との写真

人生迷走期

何もスキルも資格もない脳筋24歳

次も決まらずに結局警察官を辞めてしまった。一応転職活動は警察官の時にもしていたが、公務員から転職できる先は限られていて結局入りたいと思う会社には出会ってなかった。入りたいと思った会社に関しては面接で落ちたり、書類の時点でダメだった。確かに、ラグビーしかしてこなく、まともに就職活動をしていないゴリラが入れる会社なんてそんなにないよなとも思う。

そこでやりたいことを探すための時間を作ろうと考えた。そのためには時間とお金が必要で、不動産の管理のアルバイトや物流の倉庫管理のアルバイトをしながら土日と空き時間で見つけようと思った。そこで色んな副業を試してみた。ブログやYouTubeやラグビーのコーチやトレーナーなどなど、可能性があるものはとりあえずやってみた。
ラグビーのコーチに関しては母校である日体大の監督に話をつけて何回から練習に行ってみたが、そこまで熱中ができなかったのが正直なとこだ。プレイヤーとしてやる分には好きだったが、教えるのはまた別で、あまり得意でもなかったし好きでもなかったのだ。トレーナーはまずトレーナーになるための資格勉強をしようと思い、平日の19時から22時くらいまでのセミナーに参加をして勉強しながら、自分もコンテストに出ようと思い、ベストボディジャパンを目指して筋トレ&減量をしていた。トレーナーもラグビーのコーチと同じで、筋トレを趣味でやるのはいいけど、大会に出るほど好きじゃないし、なんなら好きなものを爆食するために筋トレで消費カロリーを増やしているのもあって、本気になれなかった。また、トレーナーとして仕事をしている人たちはインフルエンサーだったり、コンテストで1位をとって有名になったり、そこに自分が参入して勝てる熱量を持っていなかったので断念した。

残ったのがYouTubeとブログだ。ブログは収益構造が理解できないのと、Twitterやティックトック、YouTubeが主流になってきている現代でそこまで熱いと思えなかったので、途中でやめた。最後に残ったのがYouTubeだ。

迷走している時の写真

警察官辞めたch


YouTubeでは最初は自分の筋トレのルーティン動画や大食いなど適当にやっていたが再生数は500件くらい、チャンネル登録者数も100人くらいだった。ブログを勉強していた時にもそうだったが、こう言う発信する系は自分が熱量持って発信できるコンテンツか?そしてみんなが興味あるか?事実で語られるか?が大事になってくる。そうなると自分にあるのは警察官を辞めたというコンテンツがあることに気づいた。そこでルーティン動画をやりながら警察官を辞めた時の話をしたところかなり再生数が伸びた。需要があったのだ。そこから「警察官辞めたch」になり一世を風靡した。

また、警察官のチャンネル系は試験勉強や暴露系のチャンネルがほとんどで伸びているチャンネルはなかった。動画を見てくれる層が多ければ多いほど見られると思い、警察官を辞めた人に人生を聞けば、そもそも警察官自体に興味がある人が多いし(警察24時という番組があるくらい)警察官になりたい人、警察官を辞めたい人、全ての人に刺さるなと思い、人生を聞く動画をあげ続けた。

そんなこんなでアルバイトしながら副業をしている中で、知人からゴーストレストランをしないか?と誘われた

飲食店開業

ゴーストレストランというキッチンだけ間借りをして配達員に配達をしてもらう初期投資を抑えて飲食店開業ができるシステムで、コロナをきっかけに需要が伸びている業界でもあったので、面白そうだし、特にやりたい仕事も見つかってないし、やってみた。

キッチンは神楽坂という新宿のエリアに借りてやることになった。ただ物件だけ決まり他はまだ何も決まっていない状態、商品をどうするか考えた。僕と知人で共通してあったのが筋トレが好きということだったり健康志向であること、なので完全栄養食のメキシコ料理ブリトーでやろうと決まった。ただ作り方も何も知らない状態、知人は会社経営等をしているので、僕が有名なブリトーチェーン店に潜入アルバイトとして作り方や材料を真似するために2ヶ月くらい働いた。そこで材料から作り方、仕込みの仕方、全て学んで持ち帰ってきた。

オープン当初は大学ラグビー部が大量注文をしてくれたり、知り合いが来てくれたり、とても忙しかった。イベントに大量に持って行くこともあったので、朝5時から仕込みをして持って行くこともあった。その時初めて自分が作った商品を買ってくれる人がいて売上になり、利益になる。この体験がとても楽しかったのだ。

ただなぜ飲食店をやめたのかというと2つほど理由がある。一つは、売り上げるを作る楽しさを知ったのだが、小さなキッチンになるので1日の最高売り上げも3万円ほど、もっと大きな金額を動かしたいなと思っていた。2つ目は元々興味があった営業職に最終チャレンジとしてやってみようかなと思ったことだ。警察官を辞めた後、転職活動で受けていた会社は営業の会社が多かった、だが一番行きたかった不動産の会社は面接で落ち、行きたくないけどずっと誘われていた保険の営業は手法が合わないと思い辞めた。気付いたら26歳が近づいていて、チャレンジするなら今しかないなと思い、営業職での転職活動をスタートさせた。

どこも受からない転職活動

転職活動をスタートさせたはいいものの、やはり合格率は低かった。まだ警察官を辞めた頃よりも人生を話せるようにはなっていたので、受かる会社も出てきていたが、自分の最終キャリアとしては選べない会社もあったり、やはり行きたいなと思った会社は面接で落ちてしまっていた。

ただ人材系の会社で一社内定が出たところがあり、転職活動に疲れていたこともあってそこの会社にしようかなと思っていた。会社としては結構大きく、人材紹介や派遣の会社で、僕が内定が出たのが人材派遣の部署だった。そこの部長さんはとても優しく、最終面接でも物腰の柔らかい人で好印象だった。ただ会社見学に行った時に、多分僕が行こうとしている部署は窓際な部署で端に追いやられている感じがしたのと、僕が元々志望していたのが人材紹介の営業だったので、紹介の部署に行きたいとその会社に打診したところ、人材紹介の部署の部長さんと面談をすることになったのだが、その人は結構年齢もいっていて、頑固そうな人だった。ズームで面接をしたのだが、言葉までは覚えていないが、とても偉そうで、このキャリアで雇ってやるだけマシだと思うよ的なことを言われて腹が立って内定を辞退した。僕は働く人を大事にしているので、こんな人とは仕事できないなと思いまた転職活動をスタートさせた。

現職との出会いから今に至る

株式会社For A-career(現職)との出会い

2周目の転職活動ということもあり、体力が疲弊していたのと貯金も底をつきそうだったので、1回目の転職活動よりも入社のハードルは下がっていたと思う。もうこんな自分を雇ってくれる会社があるならどこでもいいやと思っていた。そこで出会ったのが今の会社だ。

2回目の転職活動でも軸は変わらず営業で成り上がるために会社を探していた。そこで内定がもらえたのが今の会社だ。とにかく商材等は関係なく、職場の雰囲気で決めた。決め手は事業部長との最終面接での話し方、端的さ、営業マンだあと思ったのと、会社を見学した際に若い方が多く平均年齢も25歳で明るかったのだ。

そうして営業マン1年目のキャリアがスタートした。

入社して2ヶ月で社員旅行があり、その時に社長と撮った写真

入社3日目で辞めようと思った

入社してすぐにテレアポが始まった。サービス資料だったり動画だったりは入社前に送られてきていたので少しは把握していたが、1日目からテレアポでアウト返しとかもできずに、周りの先輩に聞きながら見よう見まねでテレアポをしていた。

初日で3、4アポくらい獲得をできたが、ずっと電話するだけ、なんかつまんないなーとぼんやり思っていて、3日目の帰りの電車のホームでやめようかなって思っていた。実はネットで早期離職とか、次に響くか?とか調べているくらいちゃんとやめようと思っていた。

だけど、ここで逃げたらまた俺何もなくなっちゃうし、どうせ辞めるなら3ヶ月くらい頑張って成果が出ないでクビになったらでいいじゃん。今辞めたらもう終わりだけど、もし3ヶ月やったら成果を出す未来の可能性もあるからそれに賭けようと思い、だったらとにかく後悔しないようにできる限りの努力はして、頑張ってみようと思った。

最初の3ヶ月間は全く成果出ず

入社して3ヶ月間は全く成果が出なかった。僕が入社したのが5月で、ちょうどその年から新卒採用を弊社がしていたのでほぼ新卒と同期(4つ違い)でスタートした、むしろ新卒たちは1ヶ月間テレアポ研修をしていたので自分は遅れてのスタートだった。

最初は全く受注できずに悔しい日々が続いた。ただ僕は入社した時から自分が営業を簡単にできるとは思っていなかったし、そこまで期待していなかったこともあって、そこまで悔しいという感情よりもコツコツやるしかないなと思っていた。

だた行動量は誰よりも追っていたし、今のメンバーと比較すると比にならないくらいコミットしていた。でも逆に未達の時に上司に相談行った時に、こんなにアポとってて商談しててなんで受注にならないんだろうな〜と怒られる事はなかった。

着々とやるべきことをひたすらやっていた。業務時間中はひたすら架電をしアポを取る。休み時間には他の人の成約した動画を見ながらランチをし、終業後はロープレや商談FBを依頼し、通勤や筋トレ中に先輩の動画を聞き流ししていた。誰よりも量をやっていただけだった。そこに自信はあったし新卒の子達に受注を先越されていたが、後で余裕で抜かすと信じ切っていた。それくらい自分がやっていた行動量に自信があったし、誰よりも努力をしていた。

跳ねた瞬間

1ヶ月目と2ヶ月目3ヶ月目0受注。4ヶ月目7件受注、5ヶ月目8件受注、といきなり跳ねた。要因としては特にないというのが答えだ。なぜなら凡事徹底で当たり前のことをひたすらやり続けたら受注ができるようになったからだ。というと終わってしまうので、ちゃんと振り返ると2つある。

1つは、何度も言うがやはり量だ。上記でもあるようなルーティンをひたすらやり続けること、成果が出る出ない関係なくやり続ける。そしてできている人の真似をすること。これを自分の感情やマインドや周りの環境など全く気にせずに機械的にやり続けたこと、それによって顧客との接触機会が必然的に増え経験値が積み上がったこと。

2つ目はスタンスを変えた。元々は我々のサービスはこんなこともできて、あんなこともできる、〇〇さんにぴったりですよ!買ってください!というお願いするスタンスだった。だが売れている営業マンのスタイルは、押し売りはせず、ちゃんと相手に向き合って、最適な提案をし、選ぶのはあくまでお客様であるという余裕を持ったスタンスだった。その動画を見たときに、これでいいんだと思ってスタンスを変えた気がする。

1つ目の方が重要で、とにかく凡事徹底したことによって受注ができるようになったのだと思う。

ちなみに7件受注をした月はコロナになり1週間くらいリモートワークになったが、変わらず300架電を自宅でしながら7件受注した。結構すごいと思う。

メンバーとリーダーの違い

そして安定的に受注を続けて入社から4ヶ月後にリーダーに抜擢された。リーダーの時期が一番しんどかった気がするほど難易度が高かった。メンバーでは自分が成功するための努力を自分でして修正して試行錯誤をしていたが、リーダーになるとメンバーを見ながら自分も数字を上げなければいけない状況で、もちろんメンバーは1人立ちをしていないからメンバーな訳で、個人数字を達成することは珍しい。

そうなると自分が自分の予算以上の数字を上げないと達成はできないのだ。さらに育成もしなければいけない。部下になったメンバーは同じくらいに入社した人で年齢も近い。自分の心を鬼にしてメンバーの未来のために魂を削っていた印象だ。だがその分達成した時の達成感は1人よりもその倍あった。自分で受注をしていなかったメンバーができるようになると嬉しいし、みんなで目標を達成すると楽しかった。

ベンチャー企業はいいよね

僕はこの会社でちゃんとした会社に入ったのは初めてで、ベンチャー企業しか経験していないけど、ベンチャーは最高だ思う。僕と同年代の同期はある程度大きな会社に入っていて、ちょうど今年から課長になりメンバーを3人くらい見ながらクロージングしたりしているらしい。新卒から5年目だ。僕は入社5ヶ月目からその仕事をしている。もちろん営業の色や商材によって変わるとは思うが、このスピード感がいいと思う。あとは苦悩を経験できたことだ。仲間が辞めたり、新卒が30人配属されたり、新規事業の立ち上げをしたり、色んな出会いがあり、色んな経験をした。おそらくベンチャー企業じゃないと味わえないようなことを味わえたし、新卒から3年くらい無駄にしてしまった僕からするとワープした気分だ。改めてベンチャーに入って良かったと思う。

今後のキャリアビジョン

とにかく目の前のことを一生懸命やって成長してきた脳筋の僕からするとキャリアビジョンなんか存在しない。ただ方向性として「かっこいい漢」でい続けるという生き様はある。

自分の能力を最大限発揮できる場所で、人類に貢献しながら、営業で自己実現をし、かっこいい人生を送る。それが僕の使命だ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!!

とりあえず作ってみた人生マンダラチャート


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