見出し画像

自作短編小説(無題)

◇第一章◇
 もう二月だというのに、やけに暖かい。昨日まで気温は十度をきっていたためダウンジャケットを着てきたが、今は汗ばんでしまう程だ。そんなことを考えながら、市川朱里は自身の住む駅から数駅先の二子玉川駅にある喫茶店へと向かっていた。既に駅には着いているものの、指定された喫茶店までは徒歩十五分程かかるとマップに出てきたため、汗ばみながら歩いているのである。
 父である仁村一誠から連絡があったのは、二日前の木曜日であった。父子家庭で育ち、朱里が結婚してからも連絡を頻繁にしていたため、父からメッセージがあるのはさして不思議なことではなかった。

『こんばんは。明後日の土曜日、予定が無ければ会いたいんだけど、大丈夫かな?』

 普通の誘い文句である。ただ、朱里は少し不安に思っていた。ほぼ毎週のようにメッセージのやり取りをしていた朱里と一誠であったが、年明けの挨拶を直接交わしてから急に途絶えたのだ。いつも父からメッセージが始まり、言葉はおかしいが生存確認(と言っても『寒いけど元気?』だとか『先週〇〇へ行ってきたよ』など、ありきたりなやり取りである)のようなものを数ラリー行うような形である。それが、ここ一か月、何も連絡が無かったのである。一度だけこちらから連絡はしたが、『今忙しくてなかなかメッセージが返せない。ごめんね。』とだけ送られてきたため、今までそっとしておいていたのだ。
 その父からの突然の連絡。しかも会いたいという。何か大事な話でもあるのかもしれない、と不安に思ってしまう。メッセージからは何も読み取れず、考えすぎなことを祈るばかりである。

 朱里は幼い頃から父子家庭で、母のことをほとんど知らない。離婚したらしい、というくらいの認識である。朱里がそこまで母について執着しないのは、父が何不自由なく、大切に朱里を育ててくれたからに他ならない。優しく、仕事も出来て、若々しい見た目をしている父を、朱里は誇りに思っていた。だから「こんなお父さんと離婚するなんて、お母さんは見る目がなかったんだ!」とすら思ってしまう。朱里が大学に進学し、一人暮らしを始めてからは、子育てで満足に楽しめていなかった趣味を謳歌していた。特に酒が好きであったため、一人でバーを飲み歩いたりしていたようだ。朱里も何度か連れて行ってもらったことがある。ここ一年くらいはお気に入りのバーができたようで、そこにかなりのペースで通っていると楽しそうに話していた。

 ぼんやりと父のことを考えながら歩いていると、『左方向、目的地です』とマップから指示があった。いつの間に十五分も歩いていたのか。角を左に曲がると、住宅街の中にひっそりと趣のある喫茶店が現れた。約束の十四時まではまだ五分あるが、父のことだ、もう着いているだろう。ゆっくり喫茶店の扉を開けると、昔ながらのエプロンを着た女性が出迎えてくれた。
「待ち合わせなんですけど…」
「お待ちしておりました。奥のお席にいらっしゃいますので、ご案内いたします」
 店内は外観よりも広く感じた。せいぜいカウンターとテーブル席が四つくらいかな?と思っていたが、店の奥にテーブル席が想像の倍くらいあった。一番奥の席を見やると、約一か月ぶりの父がそこにいた。少し疲れて見えるのは、気のせいだろうか。何やら考え事をしているようで、こちらに気づく気配はない。
 女性店員がテーブル脇に立ってようやく父が顔をあげた。うん、やはり疲れた顔をしている。
「ごめん、お待たせ」
「いや、全然待ってないよ。急に呼んですまなかったね」
 そう言って父は柔らかく笑った。

 珈琲とケーキの注文を済ませて、朱里はダウンジャケットを脱ぐ。
「最近忙しそうだったから心配したよ、なんか顔も疲れてるし」
「ああ、すまない…」
 返事の歯切れも悪い。やはり何か重要な話をしたがっているのかもしれない。
「で、なんで呼んだの?」
「あっ、ええと、そうだな…。注文の品が来てからでもいいかな?」
「うん、まあいいけど」
 やはり元気もなければ歯切れも悪い。本当に心配になってきた。
「そういえば年始にもらったお菓子、ありがとう。美味しかったよ。どこで買ったんだっけ?」
 朱里は適当に話を振ることにした。
「ああ、あれか。美味しかったようで良かった。あれは家の近所の店だよ」
「あ、そっか、最近お店が出来たんだっけ?いいな~、うちの近所意外とあんまりそういうお店なくて」
「たしかにあんまりないな、あの辺は」
「でしょ?あ、そういえば、最近アビスには行ってるの?」
 アビスとは、父がここ一年程通っているバーである。父の家(というか実家だが)から一駅先の溝の口駅にあり、終電を過ぎても歩いて帰れるからと父が嬉しそうに話していた。
 しかし、アビスの名前を出すと、父は露骨に焦ったような表情をした。
「どうかした?」
 あえて何でもない風に聞いてみる。
「あ、いや、なんでもない。最近は行けてないな…」
 曖昧に父は笑った。
 珈琲とケーキが運ばれてきた。これから「何か」を話される。

 咳払いをして、改まって父が話を始める。
「母さんと俺が離婚した話はしたことがあるよね?」
「うん、詳しくは知らないけど」
「離婚の理由までは話してなかったと思うんだけど」
 父はそこで一呼吸置いた。朱里も生唾を飲み込む。
「実はね、俺は同性愛者なんだ」
「………え?」
「だから、俺は同性愛者で、男性が好きなんだ。恋愛対象としてね」
「え、ああ、なる、ほど…?」
 想像の斜め上の告白をされ、上手い返答が出来なかった。父が同性愛者?同性愛者の存在は、今のご時世もちろん朱里は知っているし、大学時代の友人にもバイセクシャルと公表している者もいた。だから、これといった偏見は持っていない。ただ、だからと言って、この告白をすんなり飲みこむことが出来ず、曖昧な返答をしてしまった。
「驚かせてしまってすまない。急にこんなこと言われても、混乱すると思う。朱里が同性愛者に対してどう思っているかは分からないけど、ずっと、言うのが怖かったんだ…」
 父はそう言って俯いた。
「いや、まあ、驚きはしてるけど、別に偏見とか、そういうのもないし…」
 何と言うのが正解なのか分からず、はっきりとした言葉が出てこない。しかし、少し暗い顔をしている父を見て、なんとか明るく振舞おうとする。
「とりあえず、言ってくれてありがとう、お父さん。ごめん、なんて言ったらいいのか分からないけど、どんなセクシュアリティであっても、私にとって大事なお父さんってことには変わりないから、そこは安心してほしいな」
 父はパッと顔をあげると「そうか、良かった」と安堵の表情を見せた。
「いつから、自分は同性愛者だ、っていう自覚があったの?」
 なるべく言葉を選んで問いを投げる。
「そうだな…具体的にいつ、というのはなくて…。たぶん、中高生くらいの時からうっすら、『自分は女性を好きになれない』って思ったんだ」
「じゃあなんで、お母さんと結婚したの?」
「それは…」
 父は言い淀んだ。何か言いづらい事情でもあるのだろう。
「無理に言わなくてもいいけど」
「あ、いや、ううん、言いづらいってわけじゃないんだ。そうだな、まずは俺が若い頃の話をしようか。その頃は、今ほど同性愛者とか、セクシャルマイノリティの理解が進んでいなかったんだ。なんとなくイメージはつくかな?」
「まあ、今でも偏見持ってる人がいるくらいだし、昔は特にそうかもね」
「昔とは言っても、たかだか二十年とか三十年とか前の話だけどね」
 話しているうちに落ち着いてきたのか、父は珈琲にようやく口を付けた。
「俺の中学校の同級生…男だったんだけど、三年生の時に一個下の後輩男子に告白をした噂が広がってね。彼はそこから酷いいじめにあった。俺もその時は『男が男を好きになるなんて変だな』と思ってしまっていたんだけど…。でもそれと同時に、女子に全く興味を持てない自分に違和感があったし、恋愛もののドラマや映画を観ても、全く感情移入できなかった。でも…」
また、父の言葉が止まる。
「でも?」
「…でも、高校に進学して、はじめて好きな人ができたんだ。その時は、人を恋愛対象として好きになるのが初めてで、自分の気持ちの正体が分からなかったんだけど、思い返すと恋だったんだと思う」
「それが、男子だったってこと?」
「ああ。当時の親友とも呼べる奴で、ほとんど毎日一緒にいた。そいつは俺のこと、ただの友達としか思ってなかったと思うけど、俺は、なんというか…独占欲とか、そういうのを感じるようになってしまったんだ。まあ結局、別々の大学に進学したから、そこからはほとんど会ってないんだけど」
「ふうん、なるほどね」
 何がなるほどなのか分からないが、とりあえず相槌を打つ。手つかずだったチーズケーキを口に運び、朱里は少し考える。父が同性愛者で、学生の頃からなんとなく自覚をしていたことは分かった。きっと、自身のセクシャリティを飲み込むのに苦労があっただろうとも想像がつく。
「それで、大学に進学した時、周りには彼女がいるのに、自分は一度も彼女が出来たことがないことに、焦ってしまったんだ。周りはどんどん先に進んでいるのに、自分は同性を意識してしまって、女性と恋愛するイメージが湧かなかった。中高生の頃に告白をしてくれた子もいたんだけどね。どうしても女性を好きになることができなかったんだ。そんな時、恵美…朱里のお母さんと出会ったんだ」
「お母さんとお父さんが出会ったのは、大学時代ってこと?」
「ああ」
 朱里は母の名前すら知らなかったので、変な心地がした。恵美というのか。母は、どんな人だったのだろうか。
「学部とか、サークルが一緒だったの?」
「いや、アルバイト先が一緒だったんだ」
「へえ、何のアルバイト?」
「ホテルの清掃だよ」
「ホテルの清掃?意外だね。お父さんイケメンだし人当りもいいから、人前に立つ感じのアルバイトかと思ったのに」
 朱里は思ったことを正直に伝える。実際、父は人から好かれやすい、人当りのいい男前で、ホテルの清掃という裏方のイメージがあまりつかなかった。
「ありがとう、イケメンって言ってくれて。まあでもとにかく、恵美とはそこで出会ったんだ」
 父は話を遮って、珈琲に付属していたミルクをカップに注ぎ入れる。朱里はそれを見て、『私もそろそろ味変しようかな』と思い、父に続いてシロップを入れる。
「最初は全然仲良くなかったんだけど、たまたま取った授業で席が隣になって、アルバイトの人だな~って。僕から話しかけて、そこから仲良くなったんだ。恵美は、何というか、友達が極端に少なくてね。性格が悪いとかではないんだけど、とっつきにくいというか、独特というか…。顔もキツめだったし、口下手だったし」
「散々な言われようだね」
「でも、美人ではあったと思う」
 何が「でも」なのか。首を傾げながら珈琲をすする。シロップを入れすぎた、甘い。
「まあ近寄りがたい美人って感じだった。でも、俺とは結構、彼女なりに話してくれていたと思う。恵美とはいろんな話をした。恵美と話していく中で、彼女は急に俺に言ったんだ。『私、実は女の子が好きなの』って」
「え、お母さんも、同性愛者だったってこと?」
 偶然にも、同性愛者同士が友人として仲良くなったのだ。もしかしたら、カミングアウトをしていないだけで、この世には同性愛者が朱里が思っている以上にたくさんいるのかもしれない。
「まあ、そうなるね。東京の大学に俺たちは通っていたんだけど、恵美は地方から上京してきたんだ。話を聞くと、高校の時に、彼女が同性愛者だという噂が広まってしまって、故郷から逃げるように上京してきたみたいだった」
 やはり数十年前までは、同性愛者というのは迫害の対象だったのだ。現在でもまだそういった風潮が拭えないのに、当時はどのような目を向けられていたのだろうか。
「恵美がそう言ってくれたおかげで、俺も彼女に伝えたんだ、女性のことが恋愛対象として見られないかもしれないことを。彼女は驚いていたけど、優しく受け止めてくれた。恵美となら、俺は俺らしく生きられるかもしれない、そう思った。そこで彼女は、俺にある提案をしたんだ」
「提案?」
「ああ。その提案っていうのは『二人がパートナーになること』だった。恵美の提案は、世間は同性愛者に厳しいから、二人でカップルのフリをして、世間に溶け込もうというものだった。俺はすぐに賛成した。本当は、愛する男性のパートナーができるのが理想なのかもしれないけど、きっと今の世間はそれを許さない。だから、自分たちが同性愛者であることを世間に隠しながら、互いが互いらしくいられる相手と過ごした方が、一人で抱えるよりずっといいと思った。だから俺たちはカップルを装い、結婚もした」
「結婚までする必要はあったの?」
「今でこそ独身は珍しくないけど、以前は独身のことを憐れんだり、それこそ非難したりする人も多かったからね。世間の厳しい目から守る、という目的の為にパートナーになったんだから、そういった非難も避けたかった」
「そっか…」
 二人が結婚したことには納得がいった。だが、そうなるともう一つ気になることがある。
「それなら、なんで私が産まれたの?あんまりこういう話は親子でしたくないけど…その…そもそも男女の仲じゃないなら子供が産まれることもないんじゃない?」
 なるべく言葉を選んだ。要は、お互い同性愛者なのになぜ性行為が生じたのか、ということが疑問なのだ。
「ああ、それは…恵美が、途中から豹変したんだ。『やっぱり私は男の人が好き!』と急に言い始めた」
「は?」
どういうことだ、彼女は同性愛者ではなかったのか。
「彼女が言うには『性は流動的なものだから仕方ない』とかなんとか…。とにかく、恵美は結婚後、俺を恋愛として好きだと言い始めた」
「何それ…」
「人のセクシャリティをどうこう言うつもりは俺にはない。でも、やっぱり混乱したよ。約束と違うじゃないか、ってね」
 母の提案では、お互い性的マイノリティとして支えあいながら、世間に溶け込もうというものではなかったのか。これでは、父は裏切りにあったようなものだ。
「なんですぐに離婚しなかったの?」
「そう思うよね、恵美からの提案内容も意味を成さなくなったし。でも、やっぱり彼女に対する、恋愛とは違う情があった。だから、彼女を放っておけなかったんだ。そこで産まれたのが、朱里だよ」
「そう、なんだ…」
 朱里は考え込んでしまった。父が可哀そう、というのはもちろんあるが、私は父にとって、望まれなかった、無理やり作らされた子供なのではないか、と思ってしまったのだ。そんな朱里の表情を察知したのか、父は朱里をまっすぐ見つめてこう言った。
「朱里、ごめんね。朱里が今思ってることはなんとなく分かるよ。だからこそ、お母さんである恵美のことを伝えるか悩んだし、伝え方もどうしたらいいか分からなかった。自己満足の為に伝えたと思われても仕方ないと思ってる。でも、俺は朱里のことは大切な娘だと思っているし、それが揺らいだことは一度もない。俺と同じような目には絶対にあわせないとも思って…」
 父はそこで口を噤んだ。今『俺と同じような目には絶対に合わせない』と確かに言った。一体どういう意味なのだろうか。
「いや、ごめん、とにかく朱里は、俺にとって本当に大切な存在なんだ。それだけは、分かってほしい」
 父は私に頭を下げる。今まで父の愛情を一身に受けて育ってきたのだ。父のことはもちろん好きだし、きっと今後も変わらない。たしかに、父の話を聞いて混乱したし、落ち込む気持ちがないとは言えない。でも、それが父を許さない理由にはならない。
「お父さん、謝らないで。たしかに、うん…驚くことばっかりだし、ショックな部分もあるけど、私、お父さんに大切に育ててもらったから今生きてるし、お父さんには感謝してるんだよ、ありがとう。だから、顔上げて」
 顔をあげた父は、今まで見たことのない表情をしていた。泣いているような、安堵で笑っているような、そんな表情だった。
「ありがとう、朱里。ありがとう…」
 父はカバンからハンカチを取り出し、滲んだ目に押し当てた。父は、ずっと、葛藤していたのだ。そして今日、私に伝えようと意を決してくれた。娘を傷つけ、嫌われてしまうかもしれない、その恐怖と闘いながら、話してくれたのだ。
 今思うと、朱里は父のことを全く知らない。祖父母の顔を見たことがないし、交友関係もよく分かっていない。母のことだって、今日父が話してくれなければ知らなかったことだ。
「私、お父さんのこと、全然知らなかったね」
「え?ああ、俺が話してこなかったからな…」
 伏し目がちにそう答える。
「だって私、おじいちゃんおばあちゃんに会ったことないでしょ?そもそも生きてるの?」
「えっ」
 父は明らかに狼狽えた。触れられたくないことでも聞いてしまったのだろうか。
「たぶん前も聞いたことあると思うんだけど、ちゃんと答えてもらってないような気がしてね。この際、いろいろ話してよ」
 朱里は身を乗り出す。父について受け入れる準備は、今までの話を通して出来ているつもりだった。
「ああ、うん、そうだな…。実は、俺も分からないんだ」
「分からない?」
「うん、そう。俺の家は母子家庭だったから、そもそも父親の顔を俺は知らないし、母親とも大学進学して家を出たきり連絡を取ったことがないから、今どこでどうしているのかも分からない」
「え、一回も連絡してないの?」
「ああ」
「なんで?」
「ううん…仲があんまり良くなかったんだよ、俺と母親は」
「ふうん…」
 他にも何か事情がありそうだったが、あんまり突っ込んだことを聞いて父の傷を抉り過ぎるのも嫌だなと思い、朱里はそこで引き下がった。
「それより、朱里にもう一つ、言いたいことがあって…」
「え、まだあるの?」
「ああ…これこそ落ち着いて聞いてほしいんだけど…」
 今までの話以上に大切な話なのだろうか。朱里は身構える。
「俺、恋人ができたんだ」
「え、こ、恋人?」
「ああ、この年になって恋人っていうのも、ちょっと気恥しいんだけど…」
 父は恥ずかしそうに下を向いた。
「その、恋人って、つまり同性の?」
「ああ」
「えええ」
 素直にめでたいという気持ちと、これまた想像の斜め上の告白に少々狼狽えてしまう。
「え、なんて言えばいい?とりあえずおめでとう?」
「ああ、あ、ありがとう…」
「その…お相手の名前とかは、あんまり聞かない方がいい…?」
「な、名前?」
 いや、まず聞くのはそこではないか。では何から聞けばいい?馴れ初めか?それとも写真とか見せてもらった方がいいのか?朱里は頭を悩ませる。
「名前は潮っていうんだ。ええと、写真あったかな…」
「ちなみにどこで出会ったの?」
「ああ、アビスだよ」
「アビス?あのバーで?お客さん?」
「いや、店員だよ」
「店員?バーテンダー?」
「いや、アルバイトって言ってたよ」
「アルバイト?ちなみに何歳くらい?」
「たしか、二十一歳って言ってたような…」
「二十一歳!?」
 思わず大声を出してしまった。周囲の客の視線が、朱里に集まる。いつの間にか、喫茶店はほぼ満席になっていた。いや、そんなことより、二十一歳の男性が、父の恋人?一体どうなっているんだ?朱里より年下ではないか。
「そんなに大きな声出さないでくれ」
「いや、だって、二十一歳って、何歳差よ」
「大体二十五歳差だね」
「親子じゃん」
「まあそう言わないでくれよ…だから落ち着いて聞いてほしいって言ったじゃないか…」
「ごめん、でも、落ち着けないよ…」
「あ、写真あった、この人なんだけど…」
 朱里は父の写真フォルダを覗き込む。そこには、バーの店外でピースをする父と、学生のような風貌の、色白の細身の男性が立っていた。
「へえ、結構イケメンだね。…じゃないよ!本当に大丈夫?お父さんが幸せならそれでいいけど、その子に騙されたりしてない?」
 朱里は本気で心配していた。もしかしたら父は、若い男性の金の無心にされているかもしれない、財布だと思われているかもしれない。そう思えてならなかった。
「ごめん、やっぱり心配になるよね。でも、大丈夫だよ」
 父は優しく笑った。

◇第二章◇
 朱里はあれから、しばらく考え込んでいた。あれというのは、まぎれもなく、父の告白についてである。正直、母の話は吹き飛んでいる。考えているのは、父の恋人の話だ。父によると、付き合い始めたのは先月で、その関係で忙しくしていたとのことだった。というのも、一緒に暮らすために引っ越したそうなのだ。ということは、私の実家は移動し(と言っても、最寄りの駅は変わらないそうだが)、実家=父とその恋人が住む家になった、ということだ。普通こういう時、娘に一言相談しないか?いやでも、父の事情を考えると、やはり込み入った話になるから、簡単に娘に相談できなかったのだと思う。それでも…。
 ううん、と唸っていると、夫である臣が寝室から起きてきた。日曜日で二人とも用事がないため、遅めの起床だ。
「朱里ちゃん、おはよう。どうしたの、朝から唸って」
「あ、おはよう。いやあ、ううん、なんでもない…」
「朱里ちゃん、ここ一週間くらい変だよ」
 臣は冷蔵庫から水を取り出し、コップに入れる。朱里の分も入れてくれたようで、コップを二つ持って椅子に座った。たしかに、父の告白を聞いた先週の土曜日から、ずっとこの調子である自覚はある。夫とはいえ、臣に話すのは気が引けて、まだ父との話を伝えられずにいた。
「この前出掛けた時、やっぱりなんかあった?たしか、一誠さんと会うって言ってたよね?」
「うん…」
「俺、朱里ちゃんが心配だよ。一誠さんのことは俺も好きだし、信頼してるけど、なんか深刻な話でもあったんじゃないかって…」
「臣君…」
これ以上、夫を変に心配させたくない。そう思い、朱里は意を決して、臣に先日の話を簡潔に伝えた。
「…なるほどね、話してくれてありがとう。たしかにそれは…なんか考え込んじゃうね」
 臣は顎に手を当て、先ほどの朱里のようにううんと唸った。
「だよねえ。まあ、お父さんがいいなら、変に口出すことでもないかなと思うけど、それでもなんだかなあって」
「実家?にも行きづらくなるもんね。俺、どんな顔してお邪魔したらいいんだろう…」
「ね…」
「朱里ちゃんは、その、潮君?には会ったの?」
「ううん、会ってない。お父さんに提案されたけど、なんか気まずくて…」
「そうだよね…」

 暫く沈黙が流れた。臣も、言葉が見つからないのだろう。
「ていうか、俺詳しくないんだけど、同性カップルで部屋とか借りるの、大変じゃないのかな?」
「ああ、それは大変だったみたいだよ。結構不動産で断られたって言ってた」
「へえ、そうなんだ。でも、潮君は大変な思いをしてまで、一誠さんと一緒にいたいって思ってるってことなのかな」
「そうだといいけど」
 朱里はふう、とため息をついてテレビをつけた。昼のニュースが流れている。
『十日午前十時頃、神奈川県大和市の〇〇公園で、会社員の水嶋和樹さん(五十七歳)が胸に刃物が刺さった状態で発見されました。死因は失血死とみられています。警察は殺人事件として捜査を…』
 ニュースキャスターが原稿を読み上げる。
「大和市か、けっこう近いね」
「たしか、〇〇公園って、中央林間駅の方だったよね?本当に結構近いじゃん。怖いなあ」
 とは言いつつ、こういった事件は、自分たちに無縁のことだと考えてしまうのが人間である。このニュースのことも、きっとすぐに忘れてしまうだろう。

 父の話を臣に伝えてからさらに一週間が経った。父から、連絡がない。朱里は『また忙しいのかな?』程度にしか思っていなかったが、一旦こちらからメッセージを送ってみることにした。
 朝に送ったメッセージの既読が、夕方になってもつかない。朱里はおかしいと思った。忙しくても既読はつくし、忙しいなら『忙しい』と返信があるはずである。父に教えてもらった家に行ってみようか悩んでいると、臣が家に帰ってきた。
「ただいま。朱里ちゃん、なんか、朱里ちゃん宛に手紙が届いてたよ」
「私宛?」
「うん、差出人のところに名前はないけど…」
 臣から封筒を受け取ると、そこには『市川朱里様』と書かれていた。父、一誠の字で。
「お父さん…?」
 朱里は嫌な予感がして、すぐさま封筒を開けた。分厚い便箋にびっしりと文字が書かれている。

 手紙を読み終えると、朱里はその場に崩れ落ちた。

◇第三章◇
 朱里へ

 突然の手紙、ごめんなさい。驚いたよね。最近は朱里を驚かせてばかりだ。本当に申し訳ないと思ってる。朱里には、本当のことを話したい。でも、直接言う勇気が出なくて手紙にしました。
 まずは、また、僕の昔話からするね。この前、朱里に祖父母(僕の父親母親)について聞かれたね。その時ははっきりと答えられなくてごめん。僕の父親についてほとんど何も知らないのは本当だよ。ただ、僕と母親は仲が悪いと言ったけど、少し事実とは異なる。僕は、母親から虐待を受けていたんだ。幼い頃からずっと。最初は暴力・暴言だけだったけど、僕が小学校高学年くらいになると、性的暴行もするようになっていった。誰かに助けを求めればよかったのかもしれないけど、僕の思考は、完全に母親に支配されていた。母親には、逆らえなかった。女性への苦手意識も、これが原因かもしれないね。母親よりも力が強くなっても、母親に絶対的な力があると、頭に刷り込まれていた。どうしてだろうね、潜在的に「この人には勝てない」と思ってしまっていたんだ。母親からは逃げられない、一生母親の言いなりだと思っていた。
 でも、高校生になって親友ができて、いろんなことを教えてもらった。世界の広さを知った。僕は親友に、人生で初めて恋をした。自由になりたい、自分の手で未来を創りたい、親友のおかげでそう思えた。

 そうして僕は、母親を殺した。警察には自殺と判断されて、僕は自由になった。

 僕は自由になりたかった。それだけだった。母親を殺したことに、後悔はない。でも、僕はまだ本当の意味で幸せにはなれなかった。朱里の母親の恵美については、この間話した通りだよ。恵美には裏切られた。でもそのおかげで、朱里と出会えた。朱里は大切な大切な、僕の娘だ。
 僕は母親に虐待されていた。母親が憎かった。僕の枷になっていた母親が、本当に憎かった。僕は、朱里には親のせいで苦労してほしくない、朱里の人生を守りたい、大切な我が子のことを絶対に傷つけない、そう誓った。
 結局、恵美の変貌ぶりに耐えられなくて、僕らは離婚した。恵美のことが信用できなくなっていた僕は、朱里のことを任せられなくて、朱里を引き取った。僕なりに、朱里を精一杯育てようと思った。この前朱里が「育ててくれてありがとう」と言ってくれて、僕は本当に嬉しかった。こちらこそ、ありがとう。

 朱里が結婚してからは、やりたいことを好きにやろうと思った(朱里が足枷になっているわけではないよ、安心して)。バーに通うようになったのも、その一環だ。いろんなバーを巡っているうちに、アビスにたどり着いた。そして、潮と出会った。潮はおとなしいけど、バーの客との会話を大切にする、そんな子だった。僕とも楽しそうに話をしてくれて、いつの間にか、「この子ともっと一緒に過ごしたい」と思うようになった。でも、僕の同性愛を押し付けたくなくて、ただ少し世話を焼くおじさん、くらいになれればいいなと思ってたんだ。だけど、近づいてきたのは、潮の方からだった。潮からご飯に誘われたときは本当に驚いた。でも、浮足立たないように、勘違いしないようにと思った。潮と話す時間は夢のようだった。青春を取り戻しているようだった。潮の大学の話、朱里の話、お酒の話…いろんなことを話した。「一誠さんにはなんでも話せる」そう言われて、年甲斐もなく舞い上がってしまった。
 ある日、潮からこんな相談をされた。父親に幼い頃から虐待されている、と。僕は憤慨した。心の底から、虐待をする潮の父親が許せなかった。潮は泣きそうになりながら、僕に事実を一生懸命話してくれた。僕は潮を守りたいと思った。虐待の辛さを、きっと誰よりも知っている僕なら、潮を守るとこができると思ったんだ。
 その日から、僕らは付き合うことになった。そして、潮を守るため、一緒に住むことにした。そのまま元の家に住むのも視野には入れていたけど、潮からの提案もあって、心機一転新しい家に住むことにした。それが忙しくて、なかなか連絡できなくてごめんね。
 潮との生活は幸せだった。しばらくは、平穏だったんだ。それなのに。潮の父親が、僕らの新居の前で待ち伏せしていたんだ。その時は僕がいたから追い払うことができたけど、今後潮に危険が迫ってしまう。僕と潮は考えた。そして、決めたんだ。潮の父親を殺すことに。僕の母親のように、虐待をした人間に生きる資格はない。僕の頭はそれでいっぱいになった。
 最近、大和市で殺人事件があったのは、ニュースで見たかな?公園で、水嶋和樹という男が殺されたニュースだ。あれは、僕がやった。水嶋和樹は、潮の父親だ。僕が殺したんだ。でも、僕には後悔はない。潮を傷つける人間はこの世にいらないのだから。
 
 潮との平穏な生活を再び取り戻した。潮と話す中で、僕は潮のことをもっと知りたくなった。何か昔の写真はないかと聞くと、少ないけれど見せてくれた。その中の一枚に、見覚えのある女性が写っていた。この女性は?と聞くと、潮の母親だという。幼い頃に離婚して、ほとんど母親の記憶はないと言っていた。そして、潮は母親の連れ子だとも話してくれた。
 僕は、写真に写った女性を、思い出した。思い出してしまった。僕は、もう、どうしていいか分からなくて、潮の制止の声を振り切って、勢いのままに家を飛び出してしまった。写真の女性は、どう見ても恵美だった。潮は、恵美の連れ子。年齢や離婚時期を考えても、父親は、僕でしかあり得ない。潮の本当の父親は、僕だ。僕は、実の子供に恋をして、実の子供を虐待の危険にさらしてしまった。僕のせいで潮は、虐待された。僕が恵美と別れなければこんなことには。僕のせいだ。僕は恵美との性交渉を好まなかった。でも、離婚直前に一度だけ、せがまれて流されてしまったことがある。きっと、その時だ。その時に潮が…。
 僕は、どうしたらいいんだろう。人を二人も殺して、実の子供に恋をして、虐待まで受けさせてしまって。本当にこの世にいらないのは、僕自身だ。僕は、いらない。僕なんて死んでしまえばいい。

 ごめんね朱里。愛しているよ。

 お父さんより

◇第四章◇
 水嶋潮は煙草に火をつけ吸い込み、遠くを見つめてふうっと煙を吐いた。三月のベランダはまだ寒い。裸足にサンダルでは足が冷える。
 潮は仁村一誠に感謝していた。「自分を愛してくれたから」ではない。「父親を殺してくれたから」である。父親である水嶋和樹から虐待を受けていた潮は、父親を憎んでいた。殺したいと思っていた。でも、ひょろっとした力のない潮では、父親には敵わない。
 それなら「誰かに殺してもらえば」いいのだ。そう思いついた時、真っ先に頭に浮かんだのは、アルバイト先の常連である仁村一誠だった。彼は自分を好いている、その自信があった。彼を利用しよう。そう思った。
 思ったより簡単に一誠と仲を深めることができた。このまま仲を深めて、同情させて、復讐の片棒を担いでもらうのだ。わざと自身の居場所を父に仄めかして、父と一誠の接点を作り、一誠の殺意を高めようと考えた。一誠は、それにまんまと乗っかった。一誠は潮の想像以上に潮の父親に憤慨し、殺害計画を積極的に練ってくれた。
 計画は、想像以上に上手くいった。計画遂行後、一誠との関係をどうしようか、そこだけがネックだった。潮は同性愛者ではないし、大学に気になる女の子もいた。一誠に何か理由をつけて、別れを告げないと…。そう思っていたが、何故か一誠は勝手に自分で行方を眩ませた。そして、後に自殺したと知らされた。何故急に?人を殺してしまった罪悪感に押し潰されてしまったのだろうか。まあもうどうでもいい。寧ろ好都合だ。この家も自分だけのものになった。家賃は少々高いが、父親の金も入ってきたし、当分は問題ないだろう。
 これからは父親に縛られず、自由に生きていこう。潮は明るい未来に、思いを馳せた。





 最後までお読みいただきありがとうございました。noteに載せるには少し長かったかな…そんなことないか…。
 この作品は、私が初めてちゃんと書いた小説です。小説が大好きで、いつか自分でも書いてみたいと思っていましたが、完成させることができて良かったです。あくまで自己満足なので、あまり完成度は高くないかもしれませんが…。楽しく書くことができたので良しとします。また書けたらいいな。

それでは。

REI

いいなと思ったら応援しよう!