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南極絶景録 ~507日、心の旅~

氷山と列をなすペンギン(2020年12月15日)
振り返る航路(2020年12月17日)
はじめて目にしたオーロラ(2021年2月6日)
太陽柱 (2021年2月14日)
四角くつぶれた太陽(2021年2月28日)
蜃気楼で海氷に映し出された空(2021年4月5日)
リング状のオーロラ(2021年5月12日)
転がる太陽(2021年5月25日)
極夜の昼(2021年7月6日)
1か月半ぶりの太陽(2021年7月17日)
朝焼け(2021年8月2日)
圧巻の渦巻き(2021年8月7日)
夜明け(2021年9月2日)
久々の生物(2021年10月11日)
フローズンバブル(2021年10月12日)
内陸のハロ(2021年12月8日)
氷河を流れる川(2022年1月13日)
夏のオーロラ(2022年2月13日)


プロローグ

僕は、ある時から自然の美しい景色を求めるようになった。はじめはテレビや本だけの世界だったが、大学生の頃から日本や海外の自然を求めて旅をするようになった。アメリカの自然公園を車で横断したり、海に潜ったり、いろんな山にも登った。南米を放浪し、標高5000メートル付近の誰もいない山の中をうろついたり、6000メートルを超える山にも登った。パタゴニアの山を1か月ほどかけて歩いたりもした。

その後、自然に密接に関われる仕事をしたいと思い、気象庁で働き始めた。気象庁は日本各地や、海の上、そして南極でも仕事をするチャンスがあった。どうせなら、仕事でなくてはいけないような離島や、南極に行ってみたい…そんなところで未知の世界に入り、美しい景色を見てみたい、そしてそれを『誰かに伝えたい』と思った。その頃の僕は、気象庁の職員としての仕事の経験は着実に積み重ねていったものの、そういった場所で無理なく生き抜く事ができる心を持っているかに疑問があった。僕は仕事の技術を磨く傍ら、どうしようもなく弱くて不安定な自分の心を少しでも強くしようと心がけた。僕はよく、不安で頭がいっぱいになり独りで考え込む性質があった。必要以上に自分を追い込む癖があった。また、集団というものが苦手だった。人が集まる場所に行くと、居心地の悪さを感じた。いつからか自分が身につけたこの性質を自己認識するとともに、隔絶された地で心理的に無理なく過ごせるような訓練を重ねていった。それは、風に揺れて折れそうになる細い木の根本に土を盛るとともに、支柱を立てるような作業だった。

2020年、僕は南極地域観測隊の隊員となり、南極で越冬できることになった。文明社会からはるか遠く離れた極地で、仕事に取り組む傍ら、大きな自然と対峙しながら過ごそうと思った。そしてその景色を『誰かに伝える』ことにした。僕は10年前に購入したペンタックスの一眼レフカメラに交換用バッテリーを2本、3本のレンズ、三脚、そしてアクションカム1台とiPhone2台をバッグに詰め込んだ。そして、南極という世界に広がる多くの絶景との出会いに期待しつつ、家を後にした。

今は2023年3月。甲府盆地の端の方にある自宅からは、あたりを取り巻く山々が望める。朝は東の空が明らみ西の山々が赤く染まる。夕方になれば西の空が焼けて東の山々が色づく。朝焼けと夕焼けが然るべき時間に現れ、程よい長さを持った昼と夜が毎日現れる。そんな景色を傍目に見ながら、過去に記憶を遡らせてゆく。

これから書き記すのは、僕が第62次南極地域隊員の越冬隊員として、2020年11月に日本を出発してから、2022年3月に帰国するまでの活動の中で、美しい景色を求めながら過ごした、500日を超える期間の個人的な記録である。そこでは、夜中に朝焼けがみられることもあれば、昼間に夕焼けが現れることもあった。1年のうちで太陽の動きがダイナミックに変わり、それとともに僕を取り囲む景色も想定外なほどに多様さをみせた。夏と冬という季節は明確にあったが、春や秋という時期は非常に定義しづらい世界だった。そんな非日常の環境で現れた景色を思い起こしながら、僕が見たもの、感じたことを著していこうと思う。『誰かに伝える』ために。

極地への流れ

きっかけ

幼い頃、遠くに出かけるのがとても苦手だった。自宅ではない場所に行くと、そこに流れている「いつもと何か違う空気」を感じた。そしてその空気の中で活動を楽しむということが、僕にはできなかった。遠足やキャンプに行くと、参加している友達が騒がしく遊んでいる様子を傍で見ながら、僕は居心地の悪さを感じ、「早く帰りたい」という気持ちに取り巻かれた。

一方で、僕の家には父親の購読していたナショナルジオグラフィックの雑誌がたくさん積まれていた。僕はそのページを時折めくり、別世界の写真を見て、地球上にある未知の景色に思いを馳せた。また、自宅のテレビにはよく壮大な風景の広がる自然番組が流れていた。それも、父親のつけていたものだった。僕はそこに自然の世界の厳しさとともに美しさを感じ取った。そして、おそらく無意識的に、目の前にはない世界に憧れを抱くようになっていた。

僕は、いつか見たことのないような美しい景色を自分の目で見て、自らの身体で体験したい…と思う反面、自分はそんなところに行けるような人間ではないだろう…という矛盾した考えを持っていた。それをどうやって解消すべきかはわからなかったが、落ち着くべき方向に波に揺られながら、人生は進んでいくのだろうなと思い、流れに身を委ねた。

中学生の頃、僕はある発作を起こした。それは誰に見られることも知られることもなく、自分の中だけで起きたものだったが、強烈なものだった。その時の僕は試験勉強に追われていた。やらなくてはならない勉強が全く進んでいないことに焦りと苛立ちを感じ、髪の毛を引っ張ったり頭を叩いたりしながら、目の前の勉強に自分を集中させようと追い込んでいた。そんな矢先、ものすごい不安に襲われた。頭から足にかけて、強烈な寒気が走った。血の気が引き、倒れそうになった。心臓がバクバクと鼓動を高めた。手には冷や汗がにじみ出て、一体、何が起こったかわからなかった。その後、僕は自分の持つ「狂気性」に気づき、コントロールを失って社会の中で問題を起こす妄想に取り憑かれ、自分で自分を不安にして苦しんだ。身体のあちこちはこわばり、心臓の鼓動は速くなり、胸の周りがいつも痛くなった。寝られなくなる夜の訪れが最も嫌な時間となった、ウトウトできたとしても、朝起きてスッキリとした目覚めを味わうことができなくなった。朝、目が覚めてからほんの一瞬だけ訪れる頭が空になる時間以外は、渦を深めるネガティブな思考に埋め尽くされ、鬱々とした。この苦痛について、どう表現したらよいのかわからず、誰に相談することもできなかった。「気が狂いそうだ」といったところで、彼かがどうにかしてくれるわけではなかった。「頭がおかしくなった」と言って、精神病棟に入れられてしまうという勝手な妄想をして、それも怖かった。

僕はこの思考の暴走による心の辛さに苦しむ中、少しでも楽になる方法について、自分で見出すしかないものだという結論に至った。真っ暗なトンネルを進むような状態で、明かりを見つけるために1年ほど模索した。これは人生でもっとも辛い時期だった。その間の唯一の心の拠り所として僕は、「未知の世界に広がる美しい景色を見る」という憧れを持ち続けた。駅前の百貨店の一角に、旅行代理店があった。そこには、世界各地への旅行ツアーのパンフレットが無料配布されていた。僕は自分が気に入った写真が入ったものを持ち帰り、それを切り抜いて自分の部屋の壁に貼り合わせ、日々眺め続けた。「いつかこのような景色を見に行くのだ」と思いながら。

追い込みすぎる自分の心を和らげる必要があるという仮説を立てた僕は、浅すぎた呼吸を深め、考えを減らしていった。こだわりも落としていった。その仮説は誤りではなかったようで、徐々に僕の心臓の鼓動は正常な速さへと落ちていった。自分を苦しめていた不必要な思考は制御可能だと言えるレベルにまで活動を弱めた。ただ、辛かったこの経験の中で、僕の方向性は明確になってゆき、自然の世界への憧れは確固たるものになった。

高校に入った僕は、何かを変えなくてはならないと思った。そこで、運動部に入部した。身体を動かすことで、ネガティブな方向に進む思考のベクトルを少しでも小さくできるのではないかと思った。マイナースポーツの運動部に入り、勉強はそっちのけで、とにかく練習に取り組んだ。それまで僕は本格的に運動をしたことがなかった。ただ、また同じような生活をして辛い症状を再発し、鬱々とした日々を過ごすことは避けたかった。練習は理不尽に厳しく、その結果が練習量に伴うことはなかった。思ったように上達もせず、試合に出ても成績は良くなかった。僕はいち運動部員としての辛さを実感した。しかしその一方で、恐れていた思考の暴走による発作からは逃れることができていた。これは過去の自分と比較すると、ずいぶん幸せなことだった。ただ、思ったようなプレーができない自分が悔しく、何とか少しは試合で成績を残したいと思った。弱すぎるのは自分の心だと思い、すぐにあきらめたり投げ出したりする心を律するめに、あれこれ試行錯誤をした。折れそうになる自分の心と闘うのはうんざりするようなときもあったが、高校3年のころ、最後の全国大会で少しだけ勝つことができた。最後の試合を終えて、僕は他の皆と同じように大学受験をすることにした。希望していた大学はその時点ではとても合格できるレベルではなかった。それでも、僕はその運動部で身に着けた精神をそのまま勉強に応用して、残りの時間のすべてを受験勉強に捧げることにした。そして幸い、志望していた大学に合格した。

大学では、興味を持っていた宇宙や自然に関わるために、物理学科に入った。その頃は、宇宙の創生などの壮大なテーマを研究したいと思い、3年間真面目に勉強に取り組んだ。しかし、僕の頭は物理学には向いていないようだった。授業についていくことができず、レポートをすんなりと仕上げることも、ましてや自分の研究を進める未来を見出すことなんてできず、僕の心の調子は別の方向に悪くなった。「一体、自分は何やってるんだろう…」と自己否定することが増えた。それでも、何か自然に関わる研究はしてみたくて、惑星科学という分野の研究室に入り、大学院では隕石の研究に取り組んだ。2年間研究に携わり、数本の論文を発表したりもしたが、無限の宇宙が広がっているはずの実験室の世界をとても狭く感じるようになった。僕の中にはいつも、答えを求めてしまう思考のクセがあった。未知の世界を手探りで探求していくことは自分にとって苦しかった。これでは自然科学の世界で生きていくことは自分には向いていないと判断した。研究の世界で生きていくよりは、もっと外の世界を知ったほうが良いだろうと思った。そして、民間の会社に就職した。

入社した会社で僕が配属された部署では、地球を観測する人工衛星のデータを解析して、そのデータを販売する事業を立ち上げていた。人工衛星の撮影に合わせて日本各地に出張するというとアクティブな仕事をする一方で、ソフトウェアの開発から営業まで行っていた。その中で、僕は全国の気象データを解析するソフトウェアを開発することになった。これは自分でも取り組んでみたい仕事ではあった。しかし、仕事に力を入れすぎてしまう傾向のあった僕は、何か月にもわたり、深夜までパソコンの前でプログラムを書き続け、不規則な生活を繰り返した。そのせいか、心の調子が非常に悪くなりイライラが止まらなくなった。当時、一緒になって進めていた研究の信憑性に疑問を抱いていたこともあり、僕は何かにつけて突っかかるようになった。さらには職場環境や会社体制にまで不満を言うようになり、上司に不満をつらつらと述べつつ自分の意見の正当性をかたくなに主張する、意味のない長いメールを送ることが増えた。これで、職場での人間関係を悪くしてしまった。頭の片隅には、自分の能力不足を認知しながらも、そのフラストレーションが、自分の課題であるのか、それとも組織の課題であるのか見分けがつかなくなっていた。組織にも問題があるということを言ってくれた人はいたが、自分のせいでもあるのは間違いなかった。当然、居心地が悪くなり、別の仕事を探すようになった。当時、気象データを解析して販売していた僕は、この経験が活かせるような、同じような仕事はできないものか…と思った。頭の中に真っ先に思い付いたのは、気象庁だった。その職員募集サイトを見ると、そこには、
「南極で仕事をする機会もあります。」
という文言が書かれていた。

転職

その時は、南極に行くために、気象庁に入ろうと思ったわけではなかった。
僕は自然に密接に関わる仕事がしたかった。当時、新田次郎の小説をよく読んでいたこともあり、自分も同じように富士山などの僻地を経験したのち、自然の厳しさや美しさを『誰かに伝えられる』ような道を歩みたい…と思った。それと同時に、頭の片隅にはいつも、僕が中学生のころに心の拠り所とした美しい自然のイメージに近づけることを期待した。
気象庁は全国転勤があり、日本各地の様々な自然に触れることができる職場であることは職員募集の欄で読んでいた。であれば、いっそのこと辺鄙なところ、誰もが行けないようなところで仕事をして、限られた人しら見られない世界を知ろう。そんな思いがあり、離島勤務や、船の上の仕事などにも興味を持った。そういった中で、南極は勤務地のひとつでもあり、方向性は間違っていないだろう…と思った。

気象庁に入ろうということを決めてから、勉強を始めた。気象庁は国の機関なので、国家公務員試験に合格する必要があった。国家公務員試験には、総合職と一般職の二種類がある。総合職は、ゆくゆく幹部や管理職になるような職種だった。僕はそこそこ名の知れた大学の大学院を卒業した…というつまらないプライドがあり、エリート的なものにあこがれを持っていた。しかし、試験問題を見て愕然とした。ⅠQテストのような試験ばかりで、頭の柔らかくない僕に解けるような代物ではなかった。会社に勤める傍ら、それに合格できるレベルまで勉強に打ち込むのはできなかったので、一般職を受けることにした。

仕事をする傍ら、昼休みは会社のミーティングスペースを陣取り、退社後は当時借りていたアパートの近くのファストフード点で、過去問をひたすら解いた。物理学の区分で受験することにしたので、久々に物理学の演習問題もたくさん解いた。高校や大学の勉強を思い出しながら、こんなこと習ったなぁ…と取り組んでいると、昔の自分よりずっと理解度が増している自分に気づいて勉強が楽しくなった。

すぐに合格する自信はなかったが、無事に1回で一般職の筆記試験に合格した。そして、まず人事院の面接を受けた。面接では軽い雑談のようなやり取りをしただけだった。その後、「官庁訪問」という形で自分の行きたい省庁の話を聞いたり面接を受けたりすることになっていた。国家公務員を目指す多くの人は、複数の省庁を受けるらしいが、僕は気象庁はしか考えていなかったし、他の省庁に大した興味も持っていなかったので、気象庁だけに連絡をした。官庁訪問と聞いていたので、訪問して何かイベントがあるのかと思ったら、ふつうの面接だった。当時、僕は大手町で働いていた。そして当時の気象庁も大手町にあった。面接の日、午前中だけ仕事をしたあと、休みを取って気象庁まで歩いて行った。そこでも、雑談のようなやり取りをしただけで結果を待つことになった。そして翌日、早速「採用させていただきたい」という旨の電話を受け取った。

当時、僕は勤めていた会社の仕事に行き詰まりを覚えていて、公務員試験を受ける傍ら、受からなかった時の保険として異動希望を出していた。そして、幸か不幸か、その異動希望が通ってしまった。暑い夏のある日、空調のよく効いたミーティングルームに呼び出され、希望していた部署への異動が突然言い渡された。新しい部署に異動になったのは、ほぼ転職を決めた後の話だった。全く違う仕事を始めることになったので、新しく仕事を覚える必要があった。でも、もう僕の心はその組織から離れてしまっていた。まだ仕事も覚えておらず、覚える気もなく、手持無沙汰な日々を過ごしていたところ、新しい上司に呼び出された。僕が異動になったあとも頑なに転居していなかったというのもあり、何か察していたのだろうか、
「今後について、どう考えているのか?」
と聞かれた。僕は駆け引きとか、計算とか、隠し事がとても苦手で、嫌いだった。正直に、
「転職しようと考えている。でも仕事は4月からだから、12月までは続けて、ボーナスもらってから辞めたい。」
という旨を話した。
後日、退職日について上司から相談を持ち掛けられた。その内容は、簡潔に言うと、
「やる気がないのなら、早く退職してくれ。」
とのことだった。かなりの抵抗を抱いたものの、僕自身もこれから仕事を新たに覚えようなんて気はなかった。多少の交渉の末、11月で退職することとなった。ボーナスをもらえることなく、僕は会社を去ることに決まった。

退職前、当時僕のことをよく気にかけてくれていた人が、僕を個室に呼び出してくれた。そして、
「お前、それでええんか?交渉ミスったんちゃうか?」
と言ってくれた。僕はもう、どうでもよかった。それよりも早く会社を去って、やりたいことをやろうということを決めていた。

僕は就職してから、登山を始めていた。毎週のように山に出かけ、山登りや岩登りに取り組んでいた。これは会社員生活でストレスを抱えていた僕にとって、とても大切な時間だった。コンピュータの前に向かい作業を始めると、よく頭が締め付けられるように痛くなった。取っても取っても取り切れないバグと戦うごとにその頭痛は激しくなっていった。でも、山に出かけるとその苦痛はいつの間にか和らいでいた。自然の中で活動するたびに頭の中のわだかまりが溶けていくのを実感していた。自然の中に癒やしを見出していた僕は、退職してから、気象庁で仕事を始めるまでの間は、海外の山旅をしようと決めた。

当時借りていたアパートは、東京都内にあり、それなりの家賃を払っていた。しかし、退職すると、会社からの家賃補助はなくなってしまう。どこか安く住めるところはないか?と一緒に仕事をしてお世話になっていた人に相談すると、親戚の家の離れになら住んでもいいぞと言ってくれて、義理で家賃月1万円を渡す約束にして、おばあさんの住んでいる家の離れに居候させてもらえることになった。そして僕の住所は「○○様方」という文言が最後につけられたものとなった。そこにはトイレはあったが、風呂はなかった。暖房もなく、寒かった。でも雨風をしのいで生きるには十分だった。退職後すぐさま友人の車を借りて引っ越しをした僕は、寝袋で寝泊まりしながら、海外旅行の計画を立てていった。またその合間に友達と時間を合わせ、国内の山や岩登りに出かけた。

11月末から、長い旅行に出かけた。まず仲の良かったカナダ人の友達のところに1か月ほど居候させてもらい、カナダの冬山を登ったり歩いたりした。その後、ボリビアに飛んで国内でよく一緒に山を登っていた友人と6553メートルのボリビア最高峰に登った。ついでにウユニ塩湖を見に行ったり、マチュピチュに行ったりもした。そのあと、パタゴニアに飛んで、1か月ほどかけてフィッツロイ周辺やトレースデルパイネを一緒にトレッキングした。すごい岩山、迫力満点の氷河を見て感動した。南米ではスペイン語が全く話せないので苦労はしたし、薄い酸素と道なき道を迷いながら進み続ける辛い登山やトレッキングもあった。体調も悪くなり日本食に飢えたこともあった。ただ、会社員を続けていればできなかったであろう経験ができた。ボーナスをもらえず会社を辞めてしまったことについては、まったく後悔はなかった。

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