見出し画像

心に残ることば_9(普通じゃないから美しい)

今回は本からの引用ではなく、映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』から心に残ることばを紹介します。

I was on a train that went through a city that wouldn’t exist if it wasn’t for you. I bought a ticket from a man who would likely be dead if it wasn’t for you. I read up on my work… a whole field of scientific inquiry that only exists because of you. Now, if you wish you could have been normal… I can promise you I do not. The world is an infinitely better place precisely because you weren’t.

今朝、私は戦争で消滅したかもしれない街から電車に乗ってここへ来た。戦争で死んでいたかもしれない男から切符を買ったの。すべて、あなたが救ったのよ。あなたが普通を望んだって、私はお断りよ。あなたが普通じゃないから、世界はこんなにも美しい。

『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』

第二次世界大戦時、世界最強の暗号として知られ、解読不可能と言われたドイツ軍の暗号<エニグマ>に挑んだ、天才数学者アラン・チューリングの実話に基づく物語。
主人公たちが暗号解読を目指すスリリングな展開はもちろんのこと、数学者アラン・チューリングの人間像に深く切り込んだ内容で、私の大好きな作品です。

私はここで映画の要約や解説をしようとは思いません。
ご興味を持たれた方は、ぜひ映画をご視聴いただければと思います。とてもお勧めです!

それにしても、力強く、美しいことばです。
輝かしい業績とは裏腹に、マイノリティであるがゆえに多くの苦難を味わうことになる天才数学者のアラン・チューリング。
このことばは、映画の終盤に、失意のなかで「僕も普通になりたかった」とつぶやくアラン(ベネディクト・カンバーバッチ)に対して、彼の理解者であるジョーン(キーラ・ナイトレイ)が告げたものです。

画像1

"普通"ではないこと、マイノリティであることによって、社会から過酷な迫害を受けたアランだからこそ、それに耐えかねて「普通になりたかった」と吐露するわけですが、彼にそう言わせるほどに、社会というものは個人に対して"普通"を強要する存在だと言えるでしょう。

彼の生きた時代(20世紀前半)と比べて、現代は様々なマイノリティに対して理解が進みつつあることは確かだと思います。
しかし、表面上は理解や受容が進んでいるとはいえ、その内実においては、いまだにマイノリティへの排他的かつ不寛容な精神が根強く蔓延っているように思えてなりません。
それは、学校でのいじめや、会社でのハラスメント行為が一向に減る様子がないことからも明らかではないでしょうか。

このような状況を踏まえると、社会や組織が、その構成員に対して"普通"を強要するという基本的な構図は、現代においてもなんら変わっていないようにも思えます。

それにしても、"普通"であることは、そんなにも大切なことなのでしょうか。
精神科医で著作家でもある泉谷閑示氏は、「より多くの人が信奉しているファンタジーが「現実」とか「普通」などと特別扱いをされているに過ぎない」(『「普通がいい」という病』)と指摘されていますが、もしそうだとしたら、自分をその"ファンタジー"に無理に嵌め込むことにどれほどの価値があるのか、私には大いに疑わしいのです。

先日、「わがまま(われのまま)」について、ヘルマン・ヘッセのことばを題材に書いたのですが、この論点とも重なる話です。
個人の「わがまま(われのまま)」を受け入れない世間は、すなわち、個人に"普通"を強要する世間であることに他なりません。

ここからは私自身の話になりますが、私が読書を好むようになったのは、「周囲の人間とあまり話が合わないから」という理由によるものでした。
そもそも"普通"がよく分かりませんでした。

周囲の人間に無理に付き合うよりも、本の世界の方が、楽しいこと、学べること、心に響いてくる内容がたくさん書いてあるということに、あるとき気付いたのです。
なにしろ本の世界は、自由にものを考え、"普通"に捉われない人たちの宝庫ですから。

私はアラン・チューリングのような天才的なマイノリティではないけれど、自分と周囲との感覚のズレを感じて、苦しい思いをしてきたことは多々あります。
それでも、今から思えば、そのような周囲とのズレを感じる自分自身の"アンテナ"に自覚的であったからこそ、その違和感を抱える苦しみのなかで、読書に出会えたとも言えるように思います。

ただし、そうは言っても、日々仕事と生活に追い立てられるように生きていると、いつのまにかその"アンテナ"も鈍くなっていくような気がします。

かつて私は、就職して働くことになったときにこう考えていました。
これからは仕事に追われて読書をする時間も取れなくなり、生活を顧みることもなくなり、ただ仕事に従事するだけの日々を過ごすことになっていくのではないか、と。

それが嫌でたまらず、また不安でもありました。
「人生なんてこんなものだ」と達観したような顔をして、自分にとって大切なものを忘れて生きていくようになるのが恐かったのです。
学生の時はたくさん本を読んでいたのに、社会人になってからは実用書以外は全く読まなくなる、そんな生き方に違和感を感じていました。

そんな思いがあったからこそ、いまでも生活の合間を縫って、本を読んだり考えたりする時間を確保し、周囲の感覚との"ズレ"を"ズレ"として認識できるだけの感性を守ろうと意識している、ということは言えるのかもしれません。
それは、日々の生活に押し流されないための、知らずしらず"普通"に染まってしまわないための、ささやかな抵抗とも言えるでしょう。

いつもながら、竜頭蛇尾に終わる感が否めないですが、そんなことを考えながら、私は時間をみつけては本を読んでいます。

【参考】『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』
➢字幕の翻訳はこちらを参考にさせていただきました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?