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心に残ることば_8(わがままという美徳)

まずはテーマとなる「わがまま」について、私の心に残ったヘルマン・ヘッセのことばを引用してみたいと思います。

ひとつの美徳がある。
私が非常に愛している唯一の美徳である。
その名を「わがまま」という。
私たちが書物で読んだり、先生のお説教のなかで聞かされたりするあの非常にたくさんの美徳の中で、わがままほど私が高く評価できるものはほかにない。
けれどそれでも人類が考え出した数多くの美徳のすべてを、ただひとつの名前で総括することができよう。すなわち「服従」である。
問題はただ、誰に服従するかにある、つまり「わがまま」も服従である。けれどもわがまま以外のすべての、非常に愛され、称賛されている美徳は、人間によってつくられた法律への服従である。
唯一わがままだけが、これら人間のつくった法律を無視するのである。
わがままな者は、人間のつくったものではない法律に、唯一の、無条件に神聖な法律に、自分自身の中にある法律に、「我」の「心」のままに従うのである。

とにかくこのわがままという言葉を文字通りに解釈してみようではないか!
一体「わがまま」とは何を意味するのであろうか?
われのままの心をもつことであろう。

ヘルマン・ヘッセ著、岡田朝雄訳『わがままこそ最高の美徳』草思社、p.116


「わがまま(Eigensinn)」を評して、ヘッセは「最高の美徳」だと書きました。
ヘッセが、その天稟の才や強い資質ゆえに、少年時代に多くの苦しみをなめたことは、彼の『車輪の下』、『デミアン』、『荒野のおおかみ』、『知と愛』などの諸作品に色濃く反映されています。
小さいときから我が強く、非行少年とレッテルを貼られ、神学校をわずか半年で退学となったヘッセです。
そうした「わがまま」な態度を大人たちがどれほど押しつぶそうと骨折ったか、それは想像に難くありません。
それでもヘッセはくじけなかったのです。

一般に、ヘッセの作品には、穏やかな人間の生き方を描いた作品が多いと解されることが多いようです。
一面ではその通りだとしても、上に挙げた諸作品からは、穏やかで優しい資質だけでなく、彼の強靭で頑固でわがままな自我を私は感じます。

さて、ヘッセの言う「わがまま」について考えてみたいと思います。
日常的に使われる「わがまま」という言葉ですが、これほど人から諫められ、忌み嫌われ、非難の的となるものも珍しい。
ヘッセの時代も、私たちの生きる現代も、古今を問わず、洋の東西を問わず、「わがままはいけません」と大人たちは口酸っぱく説いてきたし、今も変わらず説いています。

この固定観念を、ヘッセは根底から覆してみせました。
彼は「わがまま」を、何らの夾雑物も含まれない、去勢されていない、純粋な「われのまま」であり、これほど人間にとって自然で美しい徳目はないのだと考えました。

また、哲学者ニーチェは『ツァラトゥストラ』のなかで、「自分自身に服従することができない者は、他者から命令されるということである。これが生あるものの天性である」と書いていますが、これはまさに至言だと私は思うのです。
「自分自身に服従する」というのは「わがまま」であることと同義です。

私は、ヘッセの言う「自分自身の中にある法律に、「我」の「心」のままに従う」こと、そして「われのままの心をもつこと」を、人間として生きるうえで、とても大切な姿勢だと考えています。

もちろん、ここで言う「わがまま」というのは、勝手気ままで乱脈な衝動的行為を指すものではありません。
「自覚の上でなされる必然性」とでも表現できるかもしれません。
自身の内的な秩序、もしくはルールの存在を自覚し、これに従う在り方のことです。
自身の「心」の「神聖なる秩序」に従う生き方のことです。

私はこの文章を書きながら、例えば、幼いころに周囲に馴染めず、既成のルールに従わず、学校でも先生から目を付けられるような、いわゆる「問題児」と称されるような人を思い浮かべます。
つまり、ヘッセと同じような子供時代を送った人です。
そこにはもちろん様々な背景があるのでしょうが、そんな人に、私はヘッセがいうところの「わがまま(われのまま)」を見る思いがします。

周囲からは否定的な扱いを受けざるを得ない「問題児」に、私はむしろ我の心に従順であろうとする資質の強さを感じることがあります。
自分自身に対する誠実さを貫こうとするとき、そこに周囲との軋轢が生じることは避けられませんし、それによって自らも苦しむことになるでしょう。

というのも、柔軟で繊細な心情をもつ人は、鋭く敏感な個性ゆえに、それを「わがまま」であり矯正すべきものと断じる大人たちや、付和雷同を良しとする周囲の人間たちによって、攻撃の対象とされがちだからです。
それでもなお、我を通すところに私は強さを感じるのです。

もとより、「非行」や「問題行動」それ自体が讃えられるべきものでないことは言うまでもありません。
しかし、その行動の背景に「わがまま(われのまま)」が存在する場合には、むしろそれは低俗な規律や紋切り型のルールに屈しないだけの精神の気高さを表すものと言えないでしょうか。
それこそが、ヘッセが「最高の美徳」と表現するものではないでしょうか。

「人間はまず人間社会のためにではなくて、自分自身のためにあるのだ。そして各人が自己自身のために最良のあり方で存在するとき、人間社会のためにもまた最良の存在となる」とは、シュティフターが『晩夏』の中で語ったことばですが、人間の存在が最良のものであるとき、その中心には「自分自身」、すなわち「わがまま(われのまま)」があると私は考えます。

もう少し続きを考えているのですが、まだうまくまとまらないので、ここで一旦筆をおくことにします。
続きはまたの機会に!

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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