山の男としての一生 #物語

山に帰りたい。山からきた男は言った。彼の故郷は山の奥にある岩壁の下。洞窟のような場所。川のせせらぎも聞こえるそこで、祭儀を行いながら彼は暮らしてきた。

彼に名はない。彼はいつも笑っている。一人で川の中から魚を釣り上げ、嬉しそうにほくそ笑んでいる。

その男は夢の中で、自分が川をたどって、下流の世界、拓けた明るい世界へと歩いていく様子をみた

彼は不安も感じたが、少しばかりの昼飯を担ぎ、初めて、いや本当は初めてではないはずだが、記憶の限りでは初めて、自分の足で川を下まで歩いていった。

男は道中で蟹を見た。赤い蟹。
そのあと鳥を見た。黒っぽい緑っぽい、中肉中背といったらいいか、それくらいの大きさの鳥がとんだ。いや、本当はもう少し小さかったかもしれない

男は迷った。日が暮れた。宿に帰ろう。我が宿へ。男は近くに洞窟を見つけると、その中で焚き火を始めた。

もうしばらく髪を切っていない。髭もそっていない。

体は貧相で、体は泣いてばかりいる。

彼の眼球が鋭く光った。彼が目で捉えたのは、洞窟の天井から垂れるしずくだった。キラキラ光るしずく。下の岩に垂れる
 
 

山が泣いていた。山の女神が。

男は言った。どうかおしずまりください。

あなたの悩みをお聞きしましょう。

白い服に、薄い青色の長い髪、そして両目をつぶった山の女神は言う。

あなたには、心の奥底の、汚れた情熱が求めるままに動き、舞いたい。そういう暴走への憧れがありますね?

私は、あなたが自分の気持ちを抑え込み、森の中でただ生きようと苦労している様子を見るのが悲しいのです。あなたという人間を、ふさわしくない場所に留めてしまっている事実がたまらなく悲しいのです。

あなたは貧相になってしまった。大人しくて、生き残るのに十分な力しか発揮できなくなってしまった。

それは生まれてからの必然ではないのです。

この洞窟をもっと奥へ奥へと進んでいきなさい。あなたは、新しくとも新しくない世界に出会うでしょう。

私の涙が地を穿つ前に早くお行き。

男は、その眼球で驚きをあらわしながら、こくんとうなづいた。

男は歩き出した。

洞窟を抜けると、そこに広がるのは、来たのと同じ森、そしてきれいな花畑、そして荒廃した荒れ地、それら全てが重なって見える、様々に様子を変える、「世界」。

男は目をつぶった。

男は、荒廃した荒れ地を選んだ。

山の女神は元居た場所で男の様子を感じていた。少しの間、驚きの表情を浮かべたあと、行くが良いわと心の中でつぶやいて、霧となって消えた。洞窟の天井からしたたっていた水は、もう地は穿たない


男は荒れ地を歩く、男が歩いた後ろには、荒れ地と花畑の境界線が揺らめく。どちらの顔ももつ「世界」へとその本性を表す。

男は途中にあった大きな丸太、倒木に腰掛けた。

男の口が開いた。

穏やかな目で、奏でるように言葉を紡いだ。

あぁ神よ、私は今日この日に至るまで、なんという勘違いをしていたのでしょうか

男は大声で笑った。

 

男は言う

この目に映る世界が全てだと思っていた。でも目を潰れば、いや目で見ようとしなければ、こんなにも美しい世界が広がっているではありませんか

私には、あらやる色、音、存在が聞こえます。未だかつてない彩りの中で、自分は生きています

感謝します。この地に生んでくださったことを。

私には、人々のもとに帰る時がきたようです

そして女神の声が響く

王の気構えを携えて、あなたのお城におゆきなさい。そして、皆と混ざって宴を催し、したたか平和を司るのです


分かりました。私は海に行きます、いや、どこにもいきません。ここに人々はいます。

いや、もとの森にいきます

いや、人々が住む街に

すいません、わかりません。どこに帰ったらいいのか。

 

轟くのは雷鳴。雨が突然ふりだした。

元居た洞窟まで走って逃げ込んだ。

一目散に走って、山の女神がいるところまで走ってきた。

雨がふっていても、森は自分の縄張りだ。知っている安心感がある。知っている安心感の場所に戻る手もあるし、そこからさらにもっと戻って、戻って戻って、棲家を通り越して、山の向こう側まで抜けていく手もある。

選択するべき場面だった。

女神はいないと思ったが、再びその姿を表した。

時が戻る。男の体から過去が立ちあがる。過去へと高速の回帰が始まった。

映像が遠のく。地球からでて、宇宙から地球を眺めている。

「あの惑星にいこう」

そう思ったのも束の間で、魂の目に映る映像は地球に接近し、エネルギーの流れとして地球を動き回る。そのあとは、山々を抜け、街を抜け、森を抜け、川を抜け、丘より少しだけ高い空のただ中で、山の女神の眼球となった。

眼球として洞窟を飛ぶ、洞窟をさきほどの「世界」の方へ抜ける。

倒木の丸太に 腰掛けていた男のもとへいく。

そして、成った。
男の目である。男の眼球である。
戻ったのだ。

 
感謝します。この地に生んでくださったことを。 

眼球はエネルギーを極限まで凝縮している。

エネルギーは爆発的に飛ぶ。時は止まる。眼のあったところは、爆散し、ガラスのような飛沫が舞い散る。屈強な男がオレンジの果実を片手で握りつぶしたときのように眼球が一瞬で爆発、ガラスのような虹色の小片がはじけ散ったのだった


 

 

 

 

あなたはいま暗い映画館にいる。そこの座席に座りながら、目が飛散している画がスローモーションで流れる。画面に映るシーンはそこでゆっくりと止まる。

黒いシルクハットの男がスクリーンの脇から登場し、舞台正面まで歩いてきて止まった。こちらを向いて口を開く。

さぁ、お話はここまでです!この男は何をやったのか。なぜ時はごちゃまぜになったのか。なぜ最後に目は飛散したのか。この映画の謎は現実の体に持ち帰ってください。重なる夢の世界はきっとあなたのすぐ脇に。

また会いましょう。みなさんごきげんよう!

 

 

(終)



2020年8月上旬

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ReiStott
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