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虎とダリア①
あらすじ
孤独な高校生・八神虎と、財閥令嬢である西園寺雫が偶然の出会いを重ねる中で、互いの心の孤独に触れ合い、絆を深めていく物語。自由を求める雫と、彼女を守りたいと願う虎の関係は、彼女の家族による圧力で引き裂かれそうになるが、二人はそれぞれの方法で困難に立ち向かう。
雫は父に自らの意志をぶつけ、虎は仲間たちと共に彼女を守るために行動を起こす。数々の試練を乗り越えた二人は、自分たちの人生を取り戻し、新たな未来へ歩き出す。ダリアの花が象徴するのは、どんな逆境にも屈しない彼らの強さと希望だ。
第一章:交差する視線
冬の朝は鋭い刃物のように冷たい。透明な氷の膜が街路樹の枝を覆い、車のフロントガラスには白く霜が広がっている。人々は吐く息を白い煙に変え、肩をすぼめながら歩いていく。そんな喧騒の中、八神虎は駅のホームに一人立っていた。
彼の存在は周囲から少し浮いている。学ランの第二ボタンは取れかけ、ポケットは深く手を沈めすぎて生地が擦り切れていた。目には宿るはずのない冷たい光があり、その奥底には、誰にも触れられたくない暗いものが潜んでいる。
虎は足元に広がる線路をじっと見つめていた。何を考えているのかは分からない。ただ、遠くへ行きたい。どこでもいいから、この街から、息が詰まりそうな現実から逃げたかった。けれど、列車が近づく轟音にも足を動かそうとはしない。その行動にはいつも最後の一歩が欠けていた。
「……どいてくれませんか?」
ふいに声がした。
虎が振り返ると、そこに立っていたのは、一人の少女だった。黒髪の端が風で揺れている。彼女の藍色のコートには一つの埃すらなく、完璧に整えられた外見には、彼が嫌う「正しさ」が凝縮されていた。だが、虎の目を引いたのは、そんな表面的なことではなかった。
瞳だった。
まっすぐで揺るぎない光を放つ瞳が、虎の奥底に潜む何かを見透かそうとしている。その目に突き刺された瞬間、虎は自分が小さな水たまりに過ぎないのだと気付かされた。
「……なんだよ。別に邪魔してねぇだろ」
彼は低い声で答えた。わざと不機嫌そうに見せたのは、ほんの些細な意地だった。
「邪魔かどうかは、他の方が判断することです」
少女は眉一つ動かさずに返す。その声は冷たさの中にも微かな熱を孕んでいる。彼女の口調に苛立つべきなのに、虎は反応しない自分に驚いた。
「……わかったよ」
仕方なく身を引くと、彼女は静かに頷いてホームの端へ向かった。その後ろ姿は、まるで異国の彫刻家が磨き上げた彫像のようだった。電車が滑り込む音が響く。虎はただその光景を見つめ続けていた。
少女が車内に消えると、ふっと冷たい風が吹き抜けた。手にしていた缶コーヒーの温かさが急に頼りなく感じる。虎は一口飲んだ。どこか苦い。彼女が放つ一瞬の気配が、頭の中に棘のように刺さり、抜け落ちない。
心臓の奥に小さな波紋が広がる――彼はまだ、その意味を理解していなかった。
第二章:再会する不安
冬の日差しが陰った午後、八神虎はいつものように目的もなく歩いていた。友人と呼べる何人かと駅前の喫煙所でたむろしていたが、なんとなく一人になりたくて、気付けば喧騒を避けるように足を運んでいた。喧嘩や小競り合いの絶えない仲間たちとの時間も、時折息苦しくなる。
そのとき、鮮やかな色が視界の端をよぎった。学校の近くにある古びた公園の奥。葉の落ちた樹々の下にひっそりと咲いていたのは、ダリアだった。朱や黄、橙の鮮やかな花弁が冷たい風に揺れ、どこか場違いな生命力を放っている。
虎はその花に引き寄せられるように、静かに歩み寄った。ふと目を上げると、そこに彼女がいた。
駅のホームで出会った少女――あの刺すような瞳を持つ少女だ。
彼女は花壇の前に立ち、咲き乱れるダリアをじっと見つめている。その姿はまるでその場に溶け込み、花の精霊が人の形を取ったかのようだった。虎はその光景を目にした瞬間、何か取り返しのつかないことが起きるような予感を覚えた。
「……また会ったな」
気付けば声をかけていた。声は、普段の冷たさを失っていた。
少女は振り返る。風に揺れる髪が彼女の頬にかかり、どこか優美な影を作った。彼女は微かに驚いた表情を見せたが、すぐに小さな笑みを浮かべた。
「本当に偶然ですね」
「……偶然だよ。あんたを探してたわけじゃねぇ」
そう言いながらも、自分でも驚くほど声が上擦っていることに気付いた。彼女はその様子を特に気にする素振りもなく、静かに花を見つめたまま言葉を継いだ。
「ダリアは、どんな環境でも咲き続ける花なんです。知っていましたか?」
彼女の声は柔らかく、しかしどこか張り詰めている。虎は何も言えず、彼女の横顔を見つめた。その顔には、彼が普段接するどの人間にも見られない気高さと寂しさが同時に宿っていた。
「……俺にはよく分からねぇな」
「そうですか。けれど、私はこの花が好きです」
虎は彼女の言葉を聞きながら、ただ風に揺れるダリアを見つめた。その瞬間、彼女と同じ景色を共有していることに気付き、不思議な気分になった。
そして、その奇妙な感覚が――彼女との「再会」以上に、虎の胸に残り続けた。