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視線の檻  part1       【見られているのは、あなたか、それとも……】


第1章: 新生活の始まり


 エントランスの自動ドアが開いた瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。それが冷房の風だとわかっていながら、私は無意識に肩をすくめた。大理石の床は鏡のように輝き、天井のライトが白く反射している。こんなに綺麗な場所なのに、胸の奥に針のような違和感が刺さっているのはなぜだろう。


 「すごいだろう、ここ。会社の上司が勧めてくれてね。セキュリティもしっかりしてるし、住むには最高だって」

 後ろから夫の徹が言った。その声はいつも通り穏やかで、満足げだった。私は振り返って、できるだけ明るい笑顔を返す。


 「そうだね……すごく綺麗だね」


 口にした言葉はおそらく正しい。でも、胸の中の重たい感覚はどうしても消えなかった。


 エレベーターの扉が閉まり、私たち二人だけがその狭い空間に閉じ込められる。15階のボタンを押した徹が私に微笑みかける。その笑顔は、これから始まる新生活に期待しているようで、楽しそうだった。


 だが、私はふと目を逸らした。エレベーター内の大きな鏡に映る自分の顔が、妙に青白く見えたからだ。疲れているのだろう。慣れない引っ越し作業が、心にも体にも負担をかけている。それはわかっている。わかっているのに、胸の奥でざわつく感覚が、じっとりと広がっていく。


 「沙織、大丈夫か?」

 徹が少し心配そうに聞いた。私は慌てて首を振る。


 「うん、ちょっと疲れただけだよ。大丈夫」


 そう答えたが、言葉とは裏腹に視線が宙を泳ぐ。エレベーターの壁、床、天井。どこを見てもただの無機質な空間のはずなのに、なぜか、ここに私たち以外の「誰か」がいるような気がしてならなかった。


 部屋に足を踏み入れた瞬間、私は一歩をためらった。


 「入らないの?」


 徹の軽い問いかけに、私は小さく笑ってから足を進めた。白い壁、無傷のフローリング、天井まで届く大きな窓。部屋のどこを見ても、新築そのものの輝きがあった。それなのに、空間そのものが重たく感じられる。まるで見えない膜が張られていて、その中に私が入り込んでしまったような――そんな感覚だった。


 「広いだろう? 窓も大きいし、明るいし、いい部屋だよな」

 徹の声が弾んでいる。彼が窓の外の景色を指差している間も、私は言いようのない圧迫感に襲われていた。


 部屋が「見ている」。その考えが頭をよぎったとき、私は思わず頭を振った。


 「どうかした?」

 「ううん、なんでもないよ」


 私は無理に笑顔を作り、窓辺に立つ徹に歩み寄った。ガラスの向こうには、整然と並んだビル群と遠くの山々が見える。言葉にするなら「理想的な景色」だった。けれど、その景色すら私にはどこか冷たく、不自然に思えた。


 荷物の整理が始まると、気が紛れた。段ボールを開けて中身を取り出し、台所やクローゼットに収めていく作業は単調で、無心になれる。だが、部屋の奥に行くたび、私は背中に視線を感じた。


 最初は窓の外を気にしていた。もしかしたら、向かいのビルから誰かが見ているのではないかと思ったのだ。でも窓ガラスには、ただ私の顔がぼんやりと映るだけだった。


 その日は寝室のカーテンを取り付けるため、脚立に乗っていた。窓の外には何もない。ただ昼間の明るい景色が広がっている。それなのに、私はふと振り返った。


 「……誰もいない」


 そう呟くと、心臓が早鐘を打つように鼓動し始めた。誰かがいると思い込んだわけではない。ただ、その瞬間、確かに「見られている」気がした。背中から、いや、空間そのものから――。


 夕方になり、リビングで徹と休んでいるときも、私は落ち着かなかった。窓の外には茜色の空が広がり、遠くで小さな飛行機が飛んでいる。徹は「夜景が楽しみだな」と話しかけてきたが、その言葉が耳に入ってこない。


 視線の端で、何かが動いたような気がした。


 振り向いても、そこにはただの壁があるだけだ。いや、壁が「見ている」ように感じる。


 「沙織、大丈夫?」

 徹の声に、私は無意識に手を握りしめていたことに気づいた。


 「うん、大丈夫。ただ……疲れてるのかも」


 徹は「無理しなくていいよ」と微笑んだ。それがいつも通りの優しい笑顔だったのに、なぜか私は寒気を覚えた。彼が立ち上がり、キッチンへ向かう後ろ姿を見ながら、私はリビングの大きな窓を見つめ続けた。


 そのガラスに、私の後ろに「誰か」が立っている気がしてならなかった。




第2章: 見知らぬ影


 夜、リビングの窓の前に立ち尽くしながら、私は外の景色を見下ろしていた。15階から見える夜景は美しい。街の光が規則正しく並び、暗闇の中で点滅する車のライトがまるで星座のように瞬いている。それなのに――どうしてだろう。この静けさが恐ろしい。


 無数の光が目に入るはずなのに、その中で「見えない何か」が視界に割り込んでくるような気がする。どれほど目を凝らしても、そこには何もないはずなのに。


 窓ガラスに映る私の顔はどこか曇って見えた。自分が自分でないような違和感。


 「沙織、もう寝ないと。明日も早いだろ?」


 徹の声が背後から聞こえた。彼の柔らかな声に、私は一瞬だけ現実に引き戻される。振り返ると、彼が笑顔で手を差し伸べている。その顔を見ると、何もかもが普通で、私の感じている不安など幻想でしかないように思える。


 「そうだね……寝ようか」


 私はカーテンを閉める。けれど、その瞬間、窓の向こうに何かが動いた気がして、体が硬直した。


 気のせい――そう思いたかった。だが、ほんの一瞬だけでも、確かにそこに「人影」があった気がした。


 寝室に入って布団に入ると、徹はすぐに静かな寝息を立て始めた。夫のそうした姿を見ると、少しだけ安心する。彼がそばにいる。それだけで恐怖は軽減されるはずだった。けれど、天井を見上げた瞬間、何かがずしりと胸の上にのしかかってきた。


 暗闇の中、私は耳を澄ませた。


 ――カサッ。


 微かな音が聞こえた。それは風の音ではない。マンションの外でもない。この部屋のどこかから聞こえてくる音だった。


 「……なに?」


 囁くように言葉が漏れた。隣で寝ている徹を起こしたかったが、どうしても声が出ない。体が石のように硬直して動かない。音は廊下の奥から聞こえてくるようだった。


 布団を握りしめながら、私は目をぎゅっと閉じた。音が少しずつ近づいてくる。廊下を誰かが歩くような音。


 「……徹?」


 小声で夫を呼んだが、返事はない。ただ隣で変わらず寝息を立てているだけだ。その事実が、恐怖を一層膨らませた。


 足音が止まった。その音があまりにも突然消えたせいで、私の心臓はますます速く打ち始めた。聞こえないのがかえって怖い。今、その「何か」がどこにいるのか全くわからない。


 暗闇の中、私は目を閉じたまま朝を迎えた。


 翌朝、リビングに入ると、違和感を覚えた。


 テーブルの上に置いていた花瓶が、昨夜の位置と微妙に違う気がした。数センチ。ほんの少しだけだ。だが、それが私の神経を逆なでするには十分だった。


 「徹、これ……動かした?」


 私は夫に尋ねた。彼はキッチンでコーヒーを淹れながら振り返り、不思議そうな顔をした。


 「花瓶? いや、触ってないよ。なんで?」


 「……いや、なんでもない」


 その言葉は、嘘だった。何でもないはずがない。でも、これ以上彼に何かを尋ねても無駄だと思った。徹は何も知らない。徹が動かしていないなら、いったい誰が――いや、私の思い込みだ。きっと昨夜、疲れた私が自分で位置を変えたのだ。


 「沙織、大丈夫か? 最近ちょっと神経質すぎるんじゃないか?」


 夫は軽い口調で言った。それが私の中で何かを引き裂いた。


 「神経質ってどういうこと? 私がおかしいって言いたいの?」


 言葉が尖っていた。自分でも驚くほど攻撃的な声だった。夫は少し困ったように笑い、「いや、そういう意味じゃないよ。ただ疲れてるんだろうなって」と優しく答えた。


 彼が悪いわけではない。それはわかっている。けれど、その瞬間、私の中で沸き起こった苛立ちはどうにもならなかった。


 その日の午後、私はリビングの窓をぼんやりと眺めていた。窓の外は明るく晴れていて、風に揺れる木々が平和そうに見える。それでも、私の胸の中には鉛のような重さが残っていた。


 ふと、隣のマンションの窓に目を向けた。


 そこに立っている影を見たとき、私は息を呑んだ。


 はっきりとした人影。それがこちらをじっと見ている。顔は見えないが、その視線は確かに私に向けられているのがわかった。


 体が硬直し、足がすくむ。視線を外せない。何秒、何分経ったかわからない。私はようやく意を決してもう一度見直した。


 そこには何もいなかった。


 「疲れてる……だけだよね……」


 呟いた声が震えていた。私は急いで窓を閉め、カーテンを引いた。カーテン越しにも、視線を感じる気がしてならなかった。



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