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【記念日掌編】空中遊泳
モッちゃんは痩せた。モチモチだからモッちゃんなのに、ガリガリになっちゃった。でも俺はそんなこの子も好きで、モチモチのときよりも愛くるしいくらいなんだけれど、モッちゃんにもやっぱり悩みはあって、だからってことかは俺には分からないんだけれど食欲とか気力とかが本人曰く「抜け落ちた〜」、にへらと笑ったほっぺは骨が浮いて深い笑窪に沈んでいるんだけれど、どんなにモッちゃんが痩せても俺にとってはやっぱりモチモチのモッちゃんのままそこにいてくれている。おっぱいはモチモチのときからぺったんこだから痩せてもぺったんこで、なのに柔くて安心するくらいあったかいままだ。
「ね、でーとしよっ」て笑うんだ。笑っててさ。
俺はこの顔に弱い。モッちゃんのおなかを枕にしてて頭を逸らすと、上からこうやって覗き込まれて、その顔があんまりにも優しくて、なんだか泣きたくなっちゃったから起き上がってその頭を胸にぎゅっと抱きしめて、え、なになに、苦しいよう、なんてきゃっきゃはしゃいでるけどおかまいなしにじゃれあってたら、髪からお日様の匂いがした。実家で昔飼ってた猫がひなたぼっこしてたときの匂いだった。汗だくのままふたり抱き合って風呂にも入らずに寝ちゃったから、ほんとはきっと垢とか皮脂の酸っぱいけれどくせになる臭いふんぷんなんだろうけれど、どうしてだろう、なんだか爽やかで気持ちいい。死にそうなくらい疲れてたからかな。でも俺よりもっと疲れ果ててるひとたちでこの世はいっぱいなのに。
「…なさけねーや」っておもわずこぼすと、モッちゃんはもぞもぞして胸から抜けでて上目遣いに見てくる。鼻の奥がつんとした。
「んー? なにがー?」
「なんでもねー。ひとりごとだよ、ひ・と・り・ご・と」
「へへ、ふたりだから、ふ・た・り・ご・と。お腹空いたねー、どっか行きたい」
モッちゃんとならどこでもいいよ。パルコ行こうよ、草津で温泉入ろうよ、ドバイ旅行しようよ。
「あー。なんだか頭ンなかが溶けてるみたい。どこでもいいよ」
「デートだよ?」
「ゲーセン行こうよ。UFOキャッチャーで欲しくもねーラジコン狙って金溶かしてさ、ファミレス行って無駄に時間過ごして、ツタヤでつまんなそうな青春モノ借りて、ゴミだあこの映画って愚痴んの」
「最悪じゃん?」
そうモッちゃんはけらけら笑う。俺もつられてかかかって笑った。
「おもろいっしょ」
「さいこっちょーよ。ねー、服見たいんだよねー。ユニクロがコラボしたじゃん? あれかわいくて欲しいのよー。そんでね、そんでね、本屋行って新刊入ってないかチェックして」
「目当てのなくてもなんか買うじゃん」
「買う、お金使うの気持ちいいもん、後んなってかっとけばよかったーってなりたくないし。あ、そーだ! 観光しようよ、東京観光!」
「え、いまさら?」
「だってしたことないし」
「言われてみれば俺もそうかも」
「で、美術館いってさ、よくわかんないけどなんとなくすごいやつ見てみたい」
「じゃ、俺モッちゃんのとなりで腕組んで、ふごふごよくわかんないけどなんか知ってる風のこと言うわ」
「やつ〜」
モッちゃんは笑いながら洗面所に駆けてって俺はひとりになる。とたとたという擬音語のつきそうな走り方と小ぶりなかわいいおしりをみてたらなんだかムラムラしてきたけれど、それよりこの腕や胸や顔に触れていた温もりがエアコンの風で冷まされていくのが怖くて、なんだかたまらないくらい心細くなり、モッちゃん!って俺もいっしょに駆けて行きたくなっちゃったんだけど我慢して、不思議なことで、いつから俺こんな弱くなったんだっけ、いつもモッちゃんといっしょにいないと不安で胸が苦しいなんてやばいよな、バイトなんてせいぜい実働七時間しか働いてないのにすんごい疲れて、帰ってくるなりモッちゃんにむしゃぶりつくなんて依存症だよ、モッちゃん依存症、バイトしてるときとモッちゃんといるときとは天と地ほども違う俺をみたらきっとモッちゃんも俺を嫌うんだろうな、レジ打つときに指先が痺れて小銭落としてぺこぺこ謝ってさ、それからしばらく床しかみれなくなってる彼氏なんてほんと甲斐性ないな、と思っていたら急に腹が鳴った。腹減ってたんだ、俺。
ファミレスは死ぬほど混んでたけれど予約表に名前を書いてしまったからどうにも引っ込みがつかなくなり、モッちゃんとずいずいずっころばしとかしりとりとかで遊んでたらたぶん三十分くらい経ってから呼ばれ、モッちゃんはメニューのカロリーの高そうな米以外のものを大量に注文して、若い兄ちゃんのバイトは長々と復唱して分かりやすいくらいに引いてたんだけれどモッちゃんはどこ吹く風って態度、でも俺にはモッちゃんが内心そのバイトの反応に傷付いているのを知っていた。なんてことないような小さな反応がゆっくりと心を壊すということは身を以て知っていた。さっきまであんなに素で楽しんでいたのに。
「虫よかったねー。きもかわ!って感じ」
「モッちゃん女の子なのに珍しいよね。逆に俺が帰りたくなったくらい」
「や、目の前でカサカサしてんのはむりよ、ぜってえー無理。ケースの中の標本だから大丈夫なの」
「むつかしい」
えへへって笑ってモッちゃんは担いできたでかいリュックから二リットルのペットボトルを二本取り出す。合わせて俺もリュックから二本取り出してモっちゃんに渡す。「ありがとー」って笑うモッちゃんもかわいい。視界いっぱいに歯車が回り始めた。こんなにいい子にばかりどうして神様は辛い思いをさせるんだろう、どうしてそうまで苦しめるんだろう。感情のうえを走り回るモルモットを一匹一匹手で握り潰していくみたいに優しさが死んでいく。助けて、やめて、痛いって叫んでいる声を嘲るみたいにゆっくりと殺されていく。
モッちゃんはまだ残ってるかな、全部つくりものなのかな。
「けーちゃん指きれいだよね」
「急?」
「ピアノ弾いてる女の子みたい」
「女々しいってか」
「うらやましいのよー」
「モッちゃんの手もかわいいじゃん、ピアノ弾いてる女の子の手みたい」
「へへ。女の子の手みたいでしょー」
「俺は付け根のとこ赤くなっちゃうし、下手くそだからちょっと硬くもなってんだよね」
「へたっぴだなーけーちゃん。コツがあんのよー」
「どんな?」
「最後にいっぱい水飲んで、それから腕ごと飲みこむ感じ」
「それ俺微妙だったんだよね。のどちんこ触るほうが出やすくて」
「じゃ、こんど触ってあげる」
「ちんこ?」
どうせたたないのに?
ふにゃふにゃで気持ち悪いだけでしょ?
そんな自虐を冗談で言おうとして、辞めた。モッちゃんはそういう系のおちゃらけを俺がすると傷つく。そんなことを言わせてるのは自分に原因があるんだって思い込むから。自分の力不足、魅力が足りないせいだって。ぜんぜんそんなことないのに、むしろモッちゃんのおかげでたたなくても出るようにはなったんだよ、すごく感謝してるんだよ、こんな面倒な男といっしょにいてくれてありがとう、でもどうやったらそれをそのまま伝えられるんだろう。心が折れて死にそうな気持ちの中で笑ってるモッちゃんに向かって。あまりにも強い劣等感のせいでお礼すら暗く捉えてしまう彼女に。言葉にしないと伝わらない。下手に伝えようとして傷つけるくらいなら伝えようと思わないほうが正解なのかな。まとまった考え方ができない。
「だいじょうぶ? ひと多くてこわいよね。名前書いちゃったからむりにはいっちゃってごめんね?」そうモッちゃんは笑う。楽しそうに悲しさを蓋って。
「おたがいさまでしょ。さっさと食って、さっさと出よう」
「いろんなひとがいるね」
店内を見回す。子連れ、老人、カップル、サラリーマン、OL、学生、子供、店員、外人、泣く赤子。表情のないひと、楽しそうに話すひと、忙しいひと、タイピングしてるひと。みんな自分が世界で一番苦労してると思ってる。他人を思いやって親切にしてるときも、自分のほうが疲れているけど他人に優しくしてあげられてるっていう優越感にほくそ笑んで悦にいっている。ほんとうに善良なひとはいないんだろうか?
「ムイシュキンは無条件で善良なひとをテーマにしたキャラっていうじゃん」
「うん」
「そんなやつふつーに考えてどこにもいないから、社会から隔絶された精神病患者的なひとなら当てはまりそうとかって」
「あいついいやつだよねー、てかあの本のキャラみんな好きよ」
「モッちゃんはムイシュキンっぽい」
「え? えへへー照れるよー。んじゃけーちゃんは誰かな? 誰だと思う?」
「俺かー」
「大庭葉蔵?」
「むりむり」
「マカール老?」
「冗談でしょ」
「リュウ!」
「限りなく透明に近いブルーだ?」
「気障すぎ! 似合わな!」
「村上春樹っぽいでしょ」
「いけすかねー、そういう系」
「ガーニャとか」
「あー」
言ってて虚しくなる。俺はどれにも程遠い。学も金も無いし。
「星を食べるって曲あったよね」
「たま?」
「そう」
「どんな歌詞だっけ」
「化石の取れそな場所でー、星空がきれいでー、僕は君のー首をー、そと絞めたーくなるーうー、ってやつ」
「あ、じーさんの」
「そうそう」
「けーちゃんっぽいね」
「でしょ。俺的にはあれがいちばん近いかなあ。なんかそういうのわかる気がする」
「ね、それ、めっちゃ痛いこと言ってる」そう笑う。
生きていて恥ずかしく思います。自堕落で毎日なんにもやる気がありません。ぎりぎり合格した滑り止めの大学では人間関係がうまくいかずにずっと休んでいます。日銭を稼ぐために働いているスーパーのバイトも辛くて何度も仮病で休んでしまいクビになりました。次にラーメン屋のバイトをしましたが研修で複数の店舗をまわると言われてバックレてしまいました。今はチェーン店の古着屋で働いています。廃棄になる店頭には出せない服を勝手に盗んでネットで売って生活費の足しにしています。締め作業をするときにたまに小銭を盗みます。高校までの友達とは疎遠になりました。みんなちゃんと生きているのに俺はどうしようもない毎日を送っていることが情けなくて誰にも連絡できませんし、する勇気も起きません。親に連絡もできません。大学に行っていないことがバレるのが恐ろしいです。叱られるのも失望されるのも悲しませるのも辛いからです。
人が怖いです。顔を見て話せないので、暗い部屋でブルーライトの画面を煌々と光らせているのを眺めて目を悪くして、相手の相好を認識できないようにすることで対処していましたが、最近は漠然とした他人そのものに恐怖を覚えます。無表情、無言だと叱られているように思います。笑っていると見下されているように思います。声が怖いです。真っ当な批判をされると頭痛と吐き気を覚えます。指先が痺れてきます。なので毎日バイト前に酒を飲むようにしています。業務用の安くて大容量の焼酎を水道水で薄めて飲んでいます。アパートに帰ってきてからも酒を飲みます。モッちゃんが仕事でいないときは大量に酒を飲んで気絶するようにしています。寂しさと情けなさを少しでも緩和しないと死にたくなります。死にたくはありません。痛いのも苦しいのも怖くて耐えられません。
でもそんなことは誰しも毎日感じていることです。俺だけが特別辛いのではありません。みんなはもっと深い悩みを持っています。みんな平気か、上手に平気なフリができます。習得しています。努力しています。みんな耐えています。なのに俺には耐えられそうもありません。平気な格好も装えません。強がれません。人前だとパニックになり喉が渇くのですが、水を大量に飲むと落ち着くような気がします。だから外出するときは水をたくさん携帯するようにしています。でもたくさん飲むと今度は腹が苦しくなるので吐くようにしています。そして口を濯いでから、また少しだけ水を飲みます。少しだけだと嘔吐した際の焼けるような喉の渇きに我慢ができず、また大量に飲んでしまい吐くことを繰り返す場合もあります。涙が出ます。
「うん、俺も言っててちょっと思った」
なんとなくむしゃくしゃしたのでモッちゃんに猫騙しをした。ぺちんって柏手。モッちゃんはぜんぜん驚いていないのに驚いているみたいに目を丸く見開く。
「びっくりしたー」
「よかった」
「よくないよくない」笑ってる。
「他のお客さんに迷惑だよー」
「誰も気にしてないよ」
「そだね」笑ってる。なにも感情を込めずに笑って。
「ドラマチックなこと言っていい?」
「え、なに?」
「帰って色々して夜になったらさ、近所の川辺に行ってさ」
「うん」
「私の目にうつる星を見せてあげようか」
大きくひらいた目に。
「うん?」
ぼくの背中の空の。
「けーちゃん、好き」
星がたくさんうつって。
「うん、俺も」
それはきれいだな。
「ねー、それどーゆー意味?」
「なにが?」
「けーちゃんがけーちゃんのこと好きってこと? じゃなくてモッちゃんのこと好きってこと?」
「それはもちろん」
「もちろん?」
星の無い夜空のような真っ黒な闇に包まれていると安心します。外向けに貼っていた壁がゆっくりと溶けてゆき、気持ちの悪い中身が気持ちの悪いままあふれてゆくのを促されているように感じるからです。木陰の中に、さらに深い暗所を見つけたみたいに。
「もちろんでしょ」
「なにがもちろんなのよー、わかんないよー」
笑う。俺もつられて笑っている。嬉しいから、楽しいから、虚しいから。モッちゃんは相手がそのときにかけて欲しがっている言葉を見つけるのが天才的にうまい。モッちゃん依存症は治せそうにない。
注文したメニューが届き始めた。店員が並べるのを真顔で大人しくしている。感情が読めない顔で。たくさん陳列されてゆく料理の出来に嬉しそうに顔を綻ばせて、頑張って運んでくる店員の労をねぎらおうとは絶対にしない。デートの日にそんな気兼ねはいっさいしない。食べ終わったら戻してしまうし。それでもちゃんと「いただきます」と「ごちそうさまでした」って声を出すのがモッちゃんで、だから、今夜はゆっくりお休み。
夜になったらレジャーシートを持って出かけよう。星の綺麗な空の下。今日のごはん美味しかったねーとか、美術館の虫の展示良かったねーとか、たわいもないことを話しながら、なんの脈絡もなくゆっくり首を絞めたい。ぱくぱくする口が夜空の天の川を食べているみたいで、そのうち、モッちゃんの目にうつる俺の目からも星が落ちて、それをぱくって食べて。美味しそうに食べてさ。
それから手を離して口の中に指を入れるんだ。のどちんこにさわるように。でもモッちゃんはそれより腕ごと飲むようにするのがいいって言っていた。だから腕を恐る恐る突っ込む。
モッちゃんはいつものように星を吐いてくれるかな。その星は綺麗かな。俺にはそれが怖くて怖くて仕方がない。
【石丸】