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【エッセイ】「何も変わっていない」と言われたい/忘れ者の日記8

 本当はもっと早く書き上げたかったのだけれど、ここ数日間、少し鬱っぽくてなかなか手をつけられなかった。ごめんね。

    こんな風に書き留めて、10日くらい経ってしまった。ここ2週間、自分でもびっくりするくらい忙しいかった。(いろんな所で繰り返している話題だから、もう詳しく書かないけど、もちろん、心を亡くしている。)    だから書けなかった。書きたいことがたくさんあった、ということは覚えているのだけれど、2週間も経つと、それがどんな内容だったのかは、もうほとんど忘れてしまっている。最近見かけなくなったけれど、梨のい・ろ・は・すを飲んだ後みたいな感じになっている。

    思い出せる限りの記憶の断片を繋ぎ合わせて、なんとか話題を再構築してみようと思うのだけれど、多分、今回だけじゃ収まりきらないような気がしている。

 少し前、懐かしい知り合いに会った。わたしはこの人と、コロナウィルスが流行する数カ月前に知り合ったのだけれど、それ以降全く会う機会がなかった。だから、わたしは実に4年ぶりにその人と会ったことになる。わたしの記憶が正しければ、4年前はまだ奈良市内に蔦屋書店は無かったし、大宮通りはあんなにセブンイレブンばかり並んでなかったし、三条通りだって明らかに外国人観光客を当てにしたようなしょうもない店もなかったし、ならまち付近にもオシャレなカフェは少なかった。4年前のわたしはサカナクションを意識したテクノカットだったけれど、今となってはポニーテールだってできちゃう。

 「前に会ったときと印象がずいぶん変わった」というお言葉を、久しぶりに会った人たち全員に言われるのだけれど、髪を伸ばし始めてからまだ会えていない人もいるので、これからも言われ続けるのだと思う。言うまでもなく、その人にも「印象が変わった」と言われたのだけれど、わたしはこういう時の反応にいつも困っているような気がする。変わった方がいいのか、変わらない方がいいのか、悩ましいのである。

    もしわたしのワガママが許されるのであれば、わたしは「変わっていないね」と言われる方が嬉しい。イヤ、どうなんだろう。これは、あまりにも自惚れてるんじゃない?    わたしはすでに自分が綺麗な翅の蝶であることを前提としているのではないか?    自分がただのイモムシという可能性が捨てきれない今、変わらないことは、むしろ、良くないことなんじゃ。イヤ、これもまたおかしい話だね。どうして、成長することがすべからく「良いこと」と言えるのだろう。「成長は悪である、だから変わらないことが善なのだ」と反時代的な倫理を、逆張り的に立ち上げてみるのも、意外と面白いかも。

    話を大きくすると、ろくな事にならないね。問題は「わたしにとって」どうであるのか、という一点なのに。わたしにとって、変わったこと、変わらないことの一番の焦点は、やっぱり演劇との関わり方かもしれない。

    自信を持って「演劇が好きだ」と言えていたあの頃と気後れしてしまう今。演劇のことばかり考えていたあの頃と映画のことばかり考えている今。短編志向だったあの頃と長編志向の今。ラーメンズの影響を受けすぎていたあの頃とシェイクスピアやハイナー・ミュラー、ゲーテやリルケやボードレールやサン=テグジュペリ、三島由紀夫を意識的に読み出した今。他にも挙げようと思えば挙げられるかもしれないけれど、4年前と今では趣味も趣向全く違うように思える。

    でも、わたしは演劇と映画は実はそこまで対立するものではないと思ってるんだ。演劇は一回性の芸術とよく言うけれど、問題はその「一回性」が何度も繰り返されること=再演されることにある。マクベスは再演される度に死ぬ。明日、また明日、また明日と同じ戯曲が再演される。哀れな役者だ。映画にも一回性はあるのだろうか。あるとしたら、それは作品にではなく、観客側にあるのだろう。繰り返し観る夢。その意味は、その都度変わっているかもしれない。

   それでも、わたしは「何も変わっていない」と言われたい。


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