6.夢、語尾、視線
夢の中でケンカしてしまった。いや正確にはケンカになる直前だった。きっと昨日あんな記事を書いたからだろう。
夢の中でその人は泣いていた。なぜ泣いているか分からなかったので、ぼくは話しかけて理由を聞こうとした。すると、その人は「私の気持ちなんて分かるわけがない!」と大きな声を出した。そこでぼくは「これは夢だ」と確信した。その人がそんなことを言うわけないと思ったからだ。
どうやったか分からないが、気合いで目を覚ますことができた。見慣れた自分の部屋。スマホを確認すると午前3時半だった。ぼくは息を整えるため、起き上がり、水を飲んだ。トイレへ行き、また布団に潜った。しかし目が完全に冴えてしまっていてなかなか寝付けなかった。5時に目覚ましをセットしていたので、いっそこのまま起きていようか、と思った。しかしそうすると4時間しか寝ていないことになるので、なんとかもう1時間と30分寝ようと思った。寝るのに15分くらい掛かって、次に目を覚ました時は6時半だった。
一連の記事(メモ書き?)を書き始めて間もないのに、すでに変な夢を2回も見ている。「ケンカもできない」というのはあくまでも比喩であって、ホントウにケンカをしたいわけではない。一人で閉じこもっていたら、何もできないぞと自分に言い聞かせたかっただけなのに。
倫理的なコミュニケーションなんてくそくらえだ、と思ってしまう。ケンカをしてしまったら元も子もない。往々にして人間関係というものは「今の関係性」が一番楽しいものだ。糸がほつれて切れてしまったらどうしようという不安は誰にでもある。
どうして不安になるのだろう。それは意味の不確定性によるものだと思われる。つまり相手の一挙手一投足に様々な意味があると勝手に推測してしまうからだ。これがポジティブな解釈であれば、脳内お花畑の妄想が広がるし、ネガティブなものなら脳内自分反省会が開催される。
ちょっとした身振り手振り、ふとした言葉に意味があると思いたい、あるいは思ってしまうーーある種の病気に近いものーー。相手の語尾や視線が気になって仕方ない「解釈の病」、そこには自分の存在はただの「記号」、あるいはそれ以下ではないかという「意味の欠如」とは真逆の「意味の過剰」が存在している。
ところで、夢の中のあの人はどうして「私の気持ちなんて分かるわけがない!」と言ったのだろう。「自分の気持ちをわかってもらえない」と思うということは、「相手の気持ちが分からない」ということの裏返しではないか。おそらく、相手も「解釈の病」に罹っていたと思われるーーもちろん、これはぼくの「妄想」に過ぎないがーー。つまり、夢の中では、自分の一挙手一投足も曖昧であったということだ。
これは夢の中の話であるが、現実ではそうではないとなぜ言えるのだろうか。もちろん、この「手紙」には「意味の過剰」が存在しているため、そのまま受け取ることはできない。しかし、語尾や視線の多義性、その意味の決定不可能性、つまり曖昧性は相手の一挙手一投足だけでなく、ーー相手にとって自分が固有名詞として働いていることを前提としているがーーぼくの一挙手一投足にも当てはまると考えた方が自然だろう。
「距離感」の問題は「意味」という迷路に入り込んでしまった。
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