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4.眼を見ること

やはりぼくは誰かとコミュニケーションすること自体を無意識的に避けようとしてしまっているのだろうか。

言の葉の裏側

「あなたは無意識にこういう風に思っているのですよ」と告げられて「はい、その通りです」と肯定できる人はいるのだろうか。無意識は自覚できないからこそ無意識なのである。

だからホントウに避けようとしているかどうかは、ぼくにも分からない。しかし、ひとつだけ確かに言えることがあるとするならば、コミュニケーションに苦手意識を持っているということだ。いつからか覚えていないが、ぼくは相手の目を見ることができなくなったし、ホントウに言いたいこと、相手に伝えたいことを言おうとすると、言葉が喉に引っかかり、途端に声が出なくなってしまうことが増えた。誤解しないでほしいのだが、相手に苦手意識があるというわけでは決してない。あくまでも「コミュニケーションを取ること」に苦手意識があるのだ。

キャラメルボックスの劇作家、成井豊先生の『100万年ピクニック』にもこんな風なキャラクターがいたことを思い出す。彼は――彼女だったかもしれない――他人の眼が怖くて常にサングラスをかけていた。目を見て話せない、あるいは話さないというのは、やはり大きな断絶線が走っているように思う。

人によっては、それはあまりにも飛躍しすぎだ、と思われる方もいるかもしれないが、ぼくにとって「会話を交わすこと」は究極的に「その人と暮らすこと」なのである。なぜなら、人間とは絶対に一人で生きることはできないからである。しかしなにも「その人と暮らすこと」がそのまま「同じ屋根の下で暮らすこと」を意味するのではない。それは広い意味で――緩やかな意味で、と言った方が感覚的には近いかもれない――一緒に生活をしていることを指す。だから、そこには親しい友人や職場や学校、部活動といった場所で毎日のように顔を合わす人も含まれる。つまり「その人と暮らすこと」とは、自分の人間関係を大きく占めるような人たちと共に過ごす「生活」そのものを指している。

ぼくの好きな音楽家のひとりに星野源さんがいる。彼が書く歌詞に注目すると、素朴な生活への憧れのようなものを感じることがある。この記事でこと細かく歌詞の引用はしないが、一緒に話すこと、一緒に食べること、そして一緒に踊ること、に重きを置いているように感じるのである。作家たるもの――いやたとえぼくが作家でなかったとしても――ホントウは自分の言葉で語るべきなのだが、まだぼくには自分の言葉を見つけられないでいる。しかし、彼の歌詞に惹かれていることもまた事実なのだ。

コミュニケーションを避け、上っ面だけの甘い言葉を並べても、いすれそのコーティングは溶けてしまう。だとすれば、いびつな形でもいいから言葉を紡いで、丁寧に線を繋いでいくことが、コミュニケーションの倫理ではないだろうか。来たるべき別れまで、できるだけ暮らしていたい。願わくばずっと、目を見て話していたい。



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