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1.ケンカもできない

先日、演劇部の引退公演を終えて丸5年経ったと聞いた。そこから受験勉強して大学で勉強して、今は大学院生になっている。この5年間(長いのか短いのかよくわからない)に、ぼくはどれだけ演劇に関わってこれただろうか、と考えてしまった。

ぼくは「やれることはやった」と思っている。だから後悔とかそういうものは全くない。あるいはそう思いたいだけかもしれない。今となっては、演劇との繋がりはほとんどなくなっていると言っても差し支えない。そのくらい、擦り切れたか細い糸なのだ。

でも未だに「劇作家」と自称している。その理由は「演劇を「続ける」から「やめない」という考え方へのシフト」という記事で書いた通りだ。いや、もしかしたら「やめ(ているということを認めたく)ない」の間違いかもしれない。あるいはこの否認こそが、ぼくと演劇を繋げる蜘蛛の糸なのかもしれない。

演劇しかないと思っている。同時に演劇はもういいとも思っている。引力と斥力がちょうど釣り合ってどこにも行けずに同じところをぐるぐると回っている。

作家は幸せになってはいけないと思っている。同時に幸せになりたいとも思っている。人には人の地獄があるが、一家に一台阿弥陀様がいるとは限らない。

ガンダダはブレーメンにたどり着けるのだろうか。糸を独り占めしようとして地獄へ真っ逆さまに落ちていったガンダダと小さな共同体を作ってみんなで新天地を目指した音楽隊は明らかに対照的だ。

結局、音楽隊もブレーメンには辿り着かなかった。しかしたまたま見つけた中古のお家でシェアハウスをする。言ってみれば「足るを知る」、あるいは「小さな幸せ」。ぼくにとっての小さな幸せとはなんだろうか、とぼくの中のカンパネルラが独りごちる。

最近、新しい作品を全然書けていない。戯曲を書き始めて5年目になるが、こんなに間隔が空いたのは始めてだ。以前はプロットが湧き水のように溢れ、次から次へと新作を書けたものだが、今年に入ってからは1本も書けていない。(『カルぺ・ディエム』は昨年末に書いたものだ。)今年に入ってからは、半ば強迫的に『光の速さで生きて』をリライトしているのみであるし、今はそれすらも手をつけられていない。

リライトしているということは、作品が満足のいく出来ではなかったーーいや、正確に言えばもっと面白くできるという確信があったーーからで、正直なところ、こんなことになるとは思ってもみなかった。なんとも言えない浮遊感。地面に足が届かない。考えてみればそれもそのはず、蜘蛛の糸をよじ登っている最中であった。

ぼくは1人で極楽へ行こうとしているのに、「作家は幸せになってはいけない」と心のどこかで思っている。もはや「引力」という名の呪いである。この呪いを解かない限り、ぼくはもう何も書けないと思う。つまり目指すべきなのは極楽ではなく、ブレーメンなのだ。ロボットと幽霊と宇宙人とお笑い芸人を連れてブレーメンを目指すほか方法はない。

たまに、ぼくの言ったことの「意味」はちゃんと伝わっているのだろうか、と不安になる。もし伝わっていなかったら、ぼくは相手にとってただの記号以下の存在ーーもしかすると、それは相手にとってぼくは存在していないーーということを意味しているのかもしれない。どうなんですか? ぼくのことどう思ってますか? と確かめたい。以前、地理学者の記事でも書いたが、ぼくは「すべてを知りたい」のだ。

「知りたい」は「知られたい」であるし、「信じたい」は「信じられたい」であるし、「愛したい」は「愛されたい」である。結局のところ、能動は受動へ、受動は能動へと移り変わる。こうやって、ときに人間関係という糸を巻き、人間関係という糸に巻かれながら、過去に喪ってしまったかもしれない何かを求めて、糸巻遊びに興じるしかない。

「距離感」はーー特にコロナ以降ーーぼくにとって重要な問題である。「ソーシャルディスタンス」ーーもはや死語であるが、これも1つの呪いであることには変わりないーーは心の距離感に直結する。線を不法にーー不当に?ーー飛び越えることは許されない(という強迫観念)。

しかしコミュニケーションとはこの線をときに踏み越えることでもあると思う。さもなければ、人は友情を育むことも、恋愛も、そしてケンカすらも満足にできない。

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