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【エッセイ】VHS段階/忘れ者の日記7

思い出せるぎりぎりの記憶、日付けが記された大量のVHS、掠れた映像、それは平成の画質そのもの、叩けば直るでしょう?

人生は選択の連続。無限にも思える100通りの可能性、その中から選び取られたたった一つの選択、打ち捨てられた99の可能性……。その最初に位置するのは、名前ね。しかも、これだけは自分で決められない、物心ついたときには、すでに当たり前のものとして持たされているもの。打ち捨てられたもう一つの名前、わたしは最初「ソラ」になる予定だった。どんな漢字だったかは聞かされていない、イヤ、聞いたかもしれないけれど、覚えていない。

子供は鏡に映った自分の姿を自己イメージとして取り込むらしい。それは1歳6ヶ月頃から始まる、自分と鏡像の間で繰り広げられるバトルでもある。

思い出せるぎりぎりの鏡像体験は、もっと幼い頃のわたしが写っているVHSだった。わたしの両親はそれを頻繁に観ていた。「あの頃は可愛かったなあ」などと懐かしむ両親に、わたしは子供ながらに不快感を覚えたような気がする。その瞬間、わたしの影はVHSのテープに巻き取られ、記録され、奪われてしまった。今となっては再生できる機械もないのだけれど。

そんなわけで、わたしは呪われてしまった。すでに干支を二回りしているわたしの人生は、自分の分身、それも自分の「理想の」分身を探すことが目標設定になっていた。デフォルトの設定がすでにそうなっていた。

理想の自分なんてよく分からないというのがホントウのところなんだ。掠れた記憶の中に確かに存在している、愛している人が愛していた自分によく似た自分ではない者。大好きだけれど、大嫌いなわたしの分身ーーソラーー。ぎゅっと抱き締め、耳元で愛の言葉を囁きながら、手には短剣を隠し持っている。ソラを刺せば、わたしがソラの代わりになれる。そしたら、わたしはどこへ行くの? わたしがソラになったとき、目の前で血を流して倒れているこの子は誰?

ここまで書いて、これは萩尾望都先生の『半身』のストーリーと同じだと気がついた。妹を体から切り離したら、栄養失調で痩せこけていた姉は肉付きが良くなっていき、反対に妹は痩せていく。鏡に写った姉の姿はかつての妹の姿にそっくりだった。それに気づいた姉は、痩せ衰えて死んでいく「自分」を傍らに発見するのだった。

演劇部に入ったのも偶然ではないように思えてくる。「何にでもなれる」という舞台への淡い期待があったのかもしれない。とはいっても、その期待も1年ほどで崩れてしまうのだけれど。「性別」という越えられない壁。この断崖絶壁を登ろうとしていたら、足を踏み外して、地面へ向かって真っ逆さま。ハンプティ・ダンプティのように心も身体もバラバラになってしまった。イヤ、どうせバラバラになるのだったらフォスフォフィライトみたいなのがいいかもしれない。だってハンプティ・ダンプティは二度と元には戻れないから。

萩尾望都先生も市川春子先生も、何となく、性別というものを越えたキャラクターを書くように思える。吸血鬼や宝石といった永遠の命を持つ存在は死なない代わりに愛を必要としない。愛がなくても生きられるはずだけれど、なぜ諦めきれないんだろう。

男かも女かも分からない、自分であり自分でない者、それを愛することは無性生殖に似ているのかもしれない。

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