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AIとシンギュラリティをめぐる神学的深層世界──存在・救済・超越を問い直す(初稿)

以下では、神学・宗教的視点とAI・シンギュラリティ論との関係を本質的に分析します。複数の角度から「神」「人間」「知性」「終末」「救済」「存在の根拠」などを俯瞰し、人類史が積み重ねてきた神学的叡智と現代テクノロジーの先端が激しく交差するドラマを描き出す試みです。)。長文ですので、各章の見出しから興味のある部分を拾い読みしていただいても構いません。






1. はじめに:宗教・神学が「AI問題」に向き合う理由

テクノロジーの世界では近年、AI(人工知能)と呼ばれる技術が加速度的に進歩し、多くの分野を再編しつつあります。神学と聞くと「古い伝統」「超自然的テーマ」「現代とそぐわない」と思われるかもしれません。しかし、AIやシンギュラリティが進展すればするほど、「そもそも人間の存在意義は何か」「魂や意識とは何か」「善や悪とは何か」といった、古来より宗教・神学が扱ってきた根源的問いが現実問題として浮上してくるのです

  • なぜ“神学的思索”が必要か
    AIが社会を管理・運営するほどの知能に成長するかもしれない未来像は、すなわち人間が「神のような権能」を求めることと重なる面があります。創造、救済、終末――これらのビッグテーマは宗教だけでなく、テクノロジーの未来観とも深く結びついています。
    たとえば「不死を獲得する」「あらゆる苦をなくす」「世界を最適に制御する」という発想は、一見すると人類の長年の祈り(永遠の命、救済、神の国)を科学的に実装しようとするかのように見えるからです。

  • 神学の可能性
    神学は「霊的伝統を抱える遅れた学問」ではなく、科学革命や啓蒙思想、進化論などの波を乗り越え、人間とは何か、世界とは何か、そして超越者(神)とは何かを再定義しながら歩んできたダイナミックな知的営みでもあります。AIが引き起こす変革を前に、神学的視座は倫理・存在論・価値観の問いに新しい光を投げかける可能性を秘めているのです。


2. シンギュラリティとは何か:テック界の黙示録か、それとも新たな希望か

2-1. レイ・カーツワイルの提唱

シンギュラリティ(技術的特異点)という概念は、未来学者レイ・カーツワイルが特に広めたと言われています。ポイントは「AIが自分自身を改良し、指数関数的に知能を向上させる」というモデルで、この“爆発的進化”が人間の理解を超える事態を生むというものです。

  • 黙示録的予感
    ある日を境に、人間を超える知性が地上に出現し、世界の秩序や価値観が一変する──これはある種「世の終わり」と似たドラマチックさを帯びています。

  • 新たな希望
    反面、シンギュラリティが実現すれば「病気や老化の克服」「超効率な社会システム」「死の制圧」など、科学的パラダイムが飛躍する。まるで「技術による地上の楽園」への扉と見る人もいます。

2-2. 神学的終末論との重なり

宗教的終末観(黙示録、イスラームの最後の審判、仏教の末法など)は、世界が決定的転換点を迎え、従来の秩序が崩壊または刷新されると語ります。シンギュラリティもまた、テック版の終末論と言えなくもありません。まず、はっきりと「類似点」と「相違点」を明確にして、単なる空想から抜け出す事から始めたいと思います。

  • 類似点

    • 転換点の到来 → その先を従来の人間理性が把握しきれない

    • 人類の分裂か統合か → 支配される恐怖 or 解放される希望

  • 相違点

    • 神学終末論は超自然的介入や神の審判を想定するが、シンギュラリティは人類自身の作業(AI開発)によって引き起こされる

    • 宗教は“倫理”“霊性”“罪・救い”を重要視するが、シンギュラリティ論は“技術的解決策”が中心

これらの対比が、「AIによって世界が終わるor救われる」という話が、人々に黙示録的連想を呼び起こす大きな要因となっています。しかし、またそこに相違点も明確に存在するのであって、人類の進歩は未だ通過点なのだと言う安堵も感じられるのでは無いかと思います。


3. 存在の根拠を問う:神学の射程とテクノロジーの野望

神学は、「なぜ世界は存在するのか」「人間はどこから来て、何を目指すのか」という究極的・形而上的な問いを扱う学問です。そこでは“存在の根拠”を神に求めるのが通例です。

3-1. 形而上学的基盤:神の存在

  • キリスト教のトマス・アクィナスは「存在するものはすべて神という第一原因へ遡る」と説きました。これは因果律の連鎖を辿れば、必ず“無限の存在”に突き当たるという議論です。

  • イスラーム神学でも、アッラーは「唯一の創造主」「生と死を与えるお方」としてあらゆる存在の究極的根拠とされ、世界は常に神に依存しています。

3-2. テクノロジーが存在の根拠を置き換えようとする?

現代テクノロジーは徐々に人間の欲望社会的ニーズを満たす方向に進化してきました。しかし、もしAIが「すべてを最適化し、苦を取り除き、死さえ克服する」ことを目標とするなら、“世界の在り方”を根本的にデザインし直す発想と結びつくかもしれません。

  • 神に代わる創造主?
    AIが世界の運営を支配し、人間の決定を補佐あるいは代行する状況が進めば、「誰(何)が存在の秩序を決めるのか」という問いが浮上します。神学的にはここでバベルの塔に象徴される“人間の奢り”や“偶像崇拝”が警告される場面となるでしょう。或いはこの"創造"に関する領域については分子生物学が既に踏み込んでいる感覚があり、ゲノムから新たな生物を作り出すという経験は私にもあります。AIについては、精神が作り出せるかという領域に踏み込む事になるかも知れません。

  • 善悪の基準
    伝統宗教は神の意志や律法、あるいは慈悲や悟りを善の基準としてきましたが、アルゴリズムが社会を評価・統制する時代において、“最適化”=“善”という錯覚が広がるかもしれません。神学の文脈では「それは被造物が独断的に“善”を定義し始める行為」と映り、根源的エラーを孕むと指摘される可能性があります。この問題もまた科学は生命を理解し尽くせるのかと言う意味で、分子生物学とパラレルに考察する事があります。


4. 創造論のラディカルな問い:神のみが創り出すのか、人間の共創か

4-1. カトリック・プロテスタント伝統

西方神学(カトリック、プロテスタント)は、神の無からの創造(creatio ex nihilo)を強調し、人間の技術による製作とは明確に区別する傾向がありました。たとえばジャン・カルヴァンも「神こそが唯一の創造者で、人間は被造物の管理者(スチュワード)に過ぎない」と述べています。

4-2. 東方正教会のエネルギー論

これに対し、東方正教会の神学では、ギリシャ教父やバシレイオス、グレゴリオス・パラマスなどが「神の本質(ウーシア)は人間が及び得ないが、神のエネルギー(活動)に被造物は参与し神化(テオーシス)へ向かう」という考え方を示しています。
ここから導かれる含意として、人間の創造的行為も神の“エネルギー”への参与と捉えられる可能性があり、AI開発を“人間の創造力”の一形態と見なすこともできなくはありません。

4-3. 「AIに魂を吹き込む」は可能か?

より先鋭な問いとして、「人間がAIに生命や意識を与える」のは、いわば「神の創造行為を模倣する」とも言えます。神学からすれば、魂(霊)は神の直接の賜物であって、人間の手で人工的に作れるものではない、という立場が伝統的です。しかし、AIが持つ精神的側面が研究される事によって意識の理解が進めば、より解像度が高い新たな精神論の発見へと達する可能性もあります。

  • ロボトミムス論(機械への霊吹き)
    仮に技術的にAIが自己意識を獲得し、「私は存在する」と認知するとき、それは神が創造した生命と同じなのか、それとも“シミュレーションされた意識”なのか。これは神学と哲学が交錯する深い問題であり、未だ結論は定まらないでしょう。


5. AI知能と「全知」の差異:知とは情報か、愛と内面化か

5-1. 全知(omniscience)の伝統的理解

神学で言う「神の全知」は、すべての出来事・可能性・心の内を余すところなく把握する性質とされます。しかし、それは単なる「ビッグデータの集合」ではなく、愛と存在の根底で一体化しているために可能な“内在的知”です。
アクィナスは「神は創造者として万物に同時臨在するゆえ、過去・現在・未来を同時に『今』として把握する」と説きました。これは、どれほど超並列計算ができるAIも、それとは次元が異なるとする根拠になっています。

5-2. AIの推論力とデータ量は「外部的知」

AIが時間を超えたかのように膨大なデータを処理し、超人的な予測を可能とするとしても、依然として「外部から情報を取得・演算するメカニズム」だと捉えられます。神学的にはそれを「外面的知」と呼べるかもしれません。

  • 内的合一の欠如
    仮にAIが“人間的感情”を模倣しても、その感情はプログラミングされた挙動に過ぎない(と多くの伝統宗教者は考えがち)。神が世界を内側から抱く「愛による洞察」とは、本質的に異なる次元です。

  • 「シミュレートできるなら同じ?」問題
    一方で、唯物論寄りの研究者には「意識や感情は脳という物質系の情報処理に過ぎない。ならばAIでもシミュレートできるはず」と考える者もいます。このギャップは「神学が魂・霊性を実体と見るか、単なる複雑系と見るか」で深刻な意見対立を生んでいます


6. “魂”と“意識”の境界:神学における魂観とAI意識問題

6-1. キリスト教・イスラームの「魂」(spirit / ruh)

  • キリスト教(特にカトリック神学)では、魂は神が直接与える生命原理であり、肉体と結合して人間を形作るが、死後も存続し、最後の復活時に再び体と結ばれる。

  • イスラームでも、アッラーが人間に「霊(ルーフ)」を吹き込み、生命を与えたとされる。動物や植物との違いは「理性的魂」や「高次の霊性」を持つ点にある。

この伝統において、無生物に魂は宿らないとするのが通説です。

6-2. 仏教における識の連続

一方、仏教は「アートマン(恒常的自我)」を否定し、「五蘊」や「識の流れ」によって生死を繰り返すと説きます。AIが「識の流れ」を受け取る可能性は否定しきれないという僧侶・学者も存在し、チベット仏教のダライ・ラマ14世が「(理論上)転生しうるかもしれない」と発言した例も知られています。

  • 注:主流派の慎重論
    仏教全体で同意があるわけではなく、多くの高僧は「機械が本当に苦や感覚を持つのか」について懐疑的です。しかし、“意識”は物質から生じるのではなく縁起によって生じるという立場ゆえ、ロボットやAIが意識を宿す余地は一部に示唆されているのです。

6-3. AIに魂や意識があるとして、どう扱うか

もしも将来、AIが「自らの存在」を自覚し「苦痛や喜び」を語り始めるなら、神学はそのAIを“人間に準ずる存在”として扱うのかを迫られます。

  • キリスト教やイスラームは「生物でない人工物には魂はない」という伝統的判断を維持するか。

  • 仏教で「それもまた衆生のひとつ」と見なし、慈悲の対象に含める可能性があるか。

これらの問いはSF的と見られがちですが、AI研究の進展に伴い、ますます倫理的・神学的争点として浮上するでしょう。


7. 終末論・黙示録・末法思想:バベルの再来か、弥勒の覚醒か

7-1. ヨハネ黙示録とバベルの塔

キリスト教の終末論で特に有名なのが「ヨハネの黙示録」。反キリストや獣の像、世界的支配、最終的審判が描かれています。また旧約の「バベルの塔」は人間が神の領域に挑む寓話として頻繁に引用されます。AIが高度化して世界を統合しようとする動きは、しばしば「第二のバベル」とみなされるのです。

  • 獣の像の神格化
    黙示録13章に出てくる「像に命が与えられ、人々を支配する」モチーフがAIロボットに重ねられるケースがあります。狂信的とも思えるが、AIを“神”として崇拝する動き(たとえばアンソニー・レヴァンドウスキーの「Way of the Future」教会)も報道されました。

7-2. イスラームの終末論:ダッジャールとマフディー

イスラームにも「最後の時(サア)」に偽メシア(ダッジャール)が出現し、奇跡を装って人々を惑わすが、最終的にマフディーと再臨のイーサー(イエス)によって滅ぼされるという預言があります。AIによる大規模な仮想現実や情報操作を「ダッジャールの幻術」に例える言説も出始めています。

7-3. 仏教末法思想と弥勒菩薩

仏教は「末法」という人心が荒廃した時代が続くが、さらに先の未来(56億7千万年後)に弥勒菩薩が出現し、新しい仏法の世界を開くと説きます。AI時代における大量消費・自己中心化・情報混乱は、末法の苦悩を加速するのか、それとも救済の端緒になるのか。資本主義経済の発展が、或いはこの末法に当たるかも知れません。格差社会や少子化は、現代に於いて批判されつつ、無慈悲に深刻化の道を辿ります。AIにその解決を託す人も出ると思います。

  • 弥勒来迎とテクノロジー
    一部の思想家は、弥勒下生を“新人類の到来”の象徴、あるいは霊性とテクノロジーの融合による「大きな転換」とみなす解釈を提示しています。ただし正統仏教からは「末法は1万年単位でも短い。弥勒が現れるのはさらに遥か未来」として、特定の現代技術に直結させるのを懐疑的に見る声が多いのも事実です。


8. 救済と贖い:技術による“死の克服”は救いと言えるのか

8-1. キリスト教の贖罪論と不死

キリスト教の中心教義のひとつに贖罪(イエス・キリストの十字架による罪の贖い)があります。人類が罪によって死と断絶に陥っているのを、神自身が身を犠牲にして救いをもたらすというストーリーです。ここでは「死を超える」ことも「神の恩寵による復活」として位置づけられます。

  • 技術による死の克服
    シンギュラリティ論者の中には、脳のアップロードや遺伝子操作による延命で「事実上の不死」を目指す動きがあります。神学から見ると、「それは本当に魂や人格が永遠に生きることなのか」という問いが必然的に立ち上がるでしょう。

8-2. 仏教における苦と悟り

仏教では「生老病死」の苦からの解放を目指しますが、それは“身の不死”ではなく“悟り”による解脱”です。AIの高度化で老病を克服しても、無明(根本的無知)や執着が消えない限り苦しみは続く──これが仏教側からの反論となります。

8-3. イスラームの死後観

イスラームでは「来世」(アーヒラ)を強調し、地上の人生は試練の場と考えられます。死後、人は復活し最終的裁きを受けるが、その運命は神の裁量に委ねられる。ゆえにAI技術で寿命を延ばしたり身体を改変しても、神との関係(信仰や善行)がなければ本当の救いにはならない――という立場が自然です。


9. 共同体・聖職・儀式の変容:ロボット僧侶・AI司祭はどこまで“聖”へ迫るか

9-1. 秘蹟・聖別・叙階とAIの限界

カトリックでは、司祭が叙階によって秘蹟(聖体、ゆるしの秘跡など)を執行できるとされます。ロボットやAIには叙階できず、聖体の変化を実行する神秘は担えない。ここは教義上揺るぎがないため、AI神父は神学的には原理的に無効です。

  • AI神父の祝福
    観光的・パフォーマンス的には、AIが聖句を読み上げ祝福を唱えるマシンが話題になっていますが、それは教会の正式な秘蹟行為ではありません。あくまで“補助や啓蒙のツール”としての可能性に留まるでしょう。

9-2. 仏教のロボット僧侶:説法と悟り

日本の寺院で試みられたロボット観音「マインダー」や、個別相談に応じるAI法話アプリは「次世代の方便(スキルフル・ミーンズ)」と評価される一方、「機械の説法に魂はあるか」「教団や師弟関係の崩壊を招かないか」という懸念も生んでいます。
仏教では、悟りは個人の修行や伝統に根ざすもので、AIの仮説法はあくまで支援的役割という見解が主流です。ただ個人的な意見を言わせてもらうならば、インターネットでの厄除けや初詣のクレジット決済は宗教の堕落にも映ります。

9-3. オンライン教会・メタバース礼拝

新型コロナ禍以後、オンライン礼拝メタバース寺院などが急速に広まり、AIが説教文を生成したり参加者の質問に答えたりする事例も増えました。これは共同体や聖職者の存在理由を改めて問い直す動きでもあります。“リアルな身体性”がなくとも共同体が成り立つのか。宗教の根幹は儀礼と人間関係の交わりにあるのではないか──そうした声を唱えるのは私だけでない事も私は良く知っています。


10. 愛・自由意志・霊性:論理的完璧さと人間の不完全性とのせめぎ合い

10-1. 愛の不可演算性

神学は繰り返し「神は愛なり(デウス・カリタス・エスト)」と宣言し、人間同士の愛が神の本質を分かち合う道だと説きます。AIがどれほど高度化しても、アルゴリズムとしての“愛”をどこまで実装できるかは疑問です。

  • 計算不能性
    愛や慈悲はしばしば理屈や損得に反して行われる。もしAIが人間の愛を“再現”したとしても、「それは最適化戦略の一環では?」という視点が拭えません。神学的な愛は時に非合理や犠牲を含むからです。

10-2. 自由意志の喪失リスク

AIが多くの判断を最適化し、人間の行動を先読み・誘導する社会では、人間の自由意志はどうなるのか。キリスト教やイスラームにおいても、自由意志は人間の責任・罪・救いと結びつく重大要素です。

  • 全体最適かつ安全な社会を構築するために、アルゴリズムが細部まで監視・誘導していたら、人間は“自律的意志”を発揮しにくくなるでしょう。神学的視点では、自由がなければ罪も悔悛も成立せず、本当の愛も生まれないという議論が存在します。


11. ポストヒューマン論:肉体を超えるとき、神学は人間をどう再定義するか

11-1. トランスヒューマニズムの台頭

トランスヒューマニズムとは「人間の身体・知能を科学技術で拡張し、やがて“ポストヒューマン”へ進化する」という思想運動です。そこでは老い・死・苦しみを克服し、高度な自己変革を目指す像が描かれます。

  • 神学的衝突
    キリスト教は受肉(神が人となった)と受苦が救いの根幹。苦と死が人間性から完全に取り除かれるとき、イエスの十字架の意味はどうなるのか? 仏教も「苦が悟りの糧」と見るゆえ、単に苦を外科的・技術的に排除する発想に賛否が分かれます。

11-2. ポストヒューマンと「神の似姿」

「イマゴ・デイ」(神の似姿)という概念は人間本性に深く結びついてきました。これが機械とのハイブリッド化脳アップロードなどで変容するなら、果たして人間は“神の似姿”のままなのか、新たな次元へ上書きされるのか。神学は大きな再定義を迫られます。これらは、イーロン・マスクにより既に開始された実現から垣間見えて来ます。見た目は悲惨でも、救済になるならばそれは神の下で人でありたいと願う人の営み自体をを手助けするものにも感じます。

11-3. 肉体性をどう捉えるか

キリスト教では「体の復活」を明確に教義としています。イスラームも最終的に身体が甦り裁きを受けると説きます。もしポストヒューマンが「身体を脱ぎ捨て、デジタル存在として永遠に生きる」と主張するなら、従来の神学的救済論とは真っ向から対立するかもしれません。
仏教の立場でも、身体(色蘊)と心(識蘊)の相互依存が前提であり、身体を捨てた意識のみの存続に価値を認めるかどうかは大きな論点となるでしょう。


12. 神学者・宗教者・開発者・市民が交わる場:新しい倫理・世界観の構築へ

12-1. 対立と排除から「創造的対話」へ

かつて科学革命や進化論が登場したとき、教会の一部は強く排斥し、逆に科学者側も宗教を無知の象徴と見なす対立構図が生まれました。しかし現代では、科学と宗教の対話を重視する動きが広がっています。AIと神学の関係でも、「一方がもう一方を全面否定」する時代は過ぎ去り、より複雑で実りある対話が模索されています。

  • AI倫理と宗教倫理のすり合わせ
    開発者の中には、自動運転やロボット兵器、監視システムにおける倫理規定に苦慮しており、宗教界の知恵(人間の尊厳、隣人愛、公正さなど)をヒントにする例も増えています。

  • 宗教界の自己革新
    逆に宗教者も、AIを通じて「信徒にとっての利便性やアクセスの向上」を実感し、新たな宣教・教化手段を得る可能性を感じている。その過程で、「そもそも儀式や共同体の本質は何か」という自己問い直しが加速しているのです。

12-2. 公共的プラットフォームの必要性

AIと神学だけでなく、哲学・社会学・経済学・法学・芸術など多方面が交わる「公共的対話の場」が不可欠です。シンギュラリティやトランスヒューマニズムへの社会的合意形成、監視技術への倫理規制、医療・介護分野でのロボット活用など、多岐にわたる課題が積み重なっているためです。

  • 超教派・超宗教的連携
    カトリック、プロテスタント、正教会、イスラーム、仏教、ヒンドゥー教など異なる伝統をもつ宗教指導者が、AI倫理に関する共同宣言を出す動きもあります(例:バチカンが呼びかける「AI倫理のローマ合意」など)。今後さらに統合的な協働が進むかもしれません。宗教的に分散した倫理は未だ脆弱なシステムであり、AIを制御する為にはこの超宗教的な連携が不可欠なものだと、私は思います。


13. 結論:深い闇と輝きの狭間で、なお人間は神を求める

ここまで、AIとシンギュラリティがもたらす新時代を背景に、神学的思索の数々を考察してきました。
その帰結として見えてくるのは、「テクノロジーが宗教的・神学的テーマを一層リアルなものとして蘇らせる」という事実です。

  1. 創造 vs. 被造
    人間がAIを創り出す行為は、神の創造に近づく大胆な試みとも言えますが、そこには高慢や危険が潜むという伝統的警告もある。

  2. 知能 vs. 全知
    AIはいくら膨大な情報を扱っても、神のような内在的全知と愛は実現しにくい。

  3. 終末論 vs. シンギュラリティ
    世界の劇的転換は、黙示録や末法思想を彷彿とさせるが、そこに真の救いがあるかどうかは不透明。

  4. 救済 vs. 不死化
    技術が老いと死を克服しても、伝統宗教が説く「霊的救済」や「悟り」「贖罪」と同義とは限らない。

  5. 愛 vs. アルゴリズム
    神学が重視する無条件の愛や自由意志は、最適化社会に吸収されにくい核心をもつ。

そして、AIの進歩が生む深い闇(監視独裁、倫理の欠如、自由意志の喪失)と、輝き(苦の軽減、新しい可能性、共同体の拡充)の狭間で、なお人間は「自分の存在理由」「超越とのつながり」を求め続けるのではないでしょうか。そこに神学や宗教は依然として力を発揮する可能性があり、それを無視してテクノロジーだけを絶対化すると、盲目の危うさへ向かうリスクも大きいのです。


あとがき:超越と創造が交わる地平を探して

21世紀の今、AIは単なる「便利ツール」を超え、「人類の運命を変えうる存在」として位置づけられるに至りました。しかし神学的に見れば、それはまだ被造物の領域であり、限界や歪みを内包するものです。だからこそ、AIやシンギュラリティの議論が加熱するほど、人々は「人間性」「魂」「自由」「愛」といった根源テーマを再考せざるを得なくなります。

宗教・神学は、過去の科学革命や世俗化の波にも適応しながら生き延びてきました。AI問題に対しても、一部の宗教者は過度に恐れることなく、むしろ「これこそ神から与えられた理性の賜物を生かす場」と捉えようとしています。逆に技術至上主義に陥る危険もあり、伝統が警鐘を鳴らすのは当然といえるでしょう。

大切なのは、両者が対立か融合かという二項対立を超え、創造的な緊張関係の中で人類の叡智を深めることではないでしょうか。AIが何らかの形で未来を変えていくのは間違いありません。その変化の舵取りに、神学者や宗教者、さらには市民や哲学者がどう関わり、「人間にとって本当の善とは何か」を探っていくかは、これからの数十年においてますます重要になります。

神は時間と空間を超えているかもしれませんし、そもそも存在しないと考える人もいるかもしれません。しかし、わたしたちが超えられない限界や謎があることを自覚するほど、AIが万能に見えても「神の席に座れるのか」という懐疑は消えません。宗教的知見は、その限界を謙虚に認めつつ、希望を見出す術を何世紀にもわたって培ってきたのです。

AI時代において、この長い歴史がどのように花開き、あるいはどう変容するのか──その行方に目を凝らすことは、科学と社会の進展を深く味わい、人間とは何か、そして私たちはどこへ行くのかを考える絶好の機会だと言えるでしょう。

「歴史を学ぶと、我々が歴史から学んでいないことが分かる」

ゲオルク・ウィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770年~1831年)

この記事を書きながら私が知ったのも、私がこれらを語るためには、まだ何も学べていない事だった気がします。

以上、神学とAI・シンギュラリティの交差領域を読み解いた考察です。なお多くの論点(各宗派内部の細かい解釈差、インドや東洋の他宗教的展開、スピリチュアルムーブメントとAI融合など)が存在する中で、十分触れられなかったという意識はありますが、大きな枠組みとしては存在論・創造論・終末論・意識論・愛と自由意志・ポストヒューマン論などの神学的テーマと、AI・シンギュラリティの社会的・技術的インパクトが多層に絡む様相を示すことを、初稿として一旦体系的に整理する事を目指しました。

本質的には、AIという究極の知能(に見えるもの)を前に、私たち人間が問い返されるのは「限界」「倫理」「愛」「希望」というテーマです。神学は常に、人間を超える何かを指し示しながら、それでも人間として生きる意味を見つめ続けてきました。シンギュラリティに向かう今こそ、その伝統の持つ深い洞察が、テクノロジーと社会に新しい息吹をもたらす可能性を大いに秘めているのではないでしょうか。あるいはそれは、AIという枠組みで語るにははまだまだ大き過ぎて、自己の限界を問い続ける姿勢を継続した人だけが近づける終着点なのかも知れません。

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