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私の昭和歌謡史:歌は世につれ、世は歌につれ(1970年代)

■ 青春まっ只中の’70年代

1970年(昭和45年)に高校生となった年に大阪万博が開催され、1972年(昭和47年)には沖縄が返還された。田中角栄が「今太閤」として一気に日本のトップに駆け上がった後、1974年(昭和49年)に政界を大きく揺るがした「ロッキード事件」が起こっている。後半になると、高度経済成長が一段落し、低経済成長へと移行する。山陽新幹線は開通したが、マイカーブームが到来し、鉄道離れが加速していった…

60年代後半から若者の間で広まってきたフォークソングも、70年代に入るとプロテスタント的な色合いはだんだん薄まってきて、主語が「自分」や「私」の世界が中心となり、それに洒落たアレンジが加えられて、「ニューミュージック」へと変貌していった。

アイドル歌手に対する憧れはいつの時代も共通しているが、特に70年代は百花繚乱といえる時代であり、アイドル歌謡曲として位置づけられる「御三家(脚注3)」は「新御三家(脚注4)」へ、「三人娘(脚注5)」は「新三人娘(脚注6)」や「中三トリオ(脚注7)」へ引き継がれていった。

「演説歌」が起源とされ、艶歌や怨歌といった当て字も使われていた演歌も、この時代になると「演歌(脚注8)」に統一され、広く歌われるようになったが、歌詞の意味を深く知るにはまだ若すぎたようである。

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私の70年代は、高校1年から大学6年に相当するが、カセットテープレコーダーの思い出と共に始まる……

① 「ソニー」のカセットテープレコーダー

高2の春、それまで貯めてきた小遣いをはたいて、念願だった「ソニー」のラジオ付きカセットテープレコーダーを買うことができた。歩きながら録音しても音がぶれないというアンチローリングメカ?なる機能が付いた当時の最新鋭機器だった。高校生にしては高価な代物だったが、自宅の勉強部屋から、浪人時代の福岡のアパートを経て、テレビが部屋に置かれるまでの約十年間、いつも傍に置いてあったので、十分にお釣りがくる「宝物」となった。

学生の身分なので自由に使えるお金は限られており、しかもカセットテープそのものが安くはなかったので、120分録音用のテープにそれこそ好きな歌手の曲を何度も吹き込んだものである。曲の頭出し機能がなかったので、色々な曲が混じりあっている。英語の勉強も兼ねて、サイモンとガーファンクルを始めとする洋楽に凝っていた高校生当時が懐かしく思い出される。(写真1)

写真1:初めてのカセットテープ(左)  
写真2:LPレコードからの録音テープ(右)

大学に入って二年目、家庭教師をしていた女子高生から、布施明のLPレコード「シクラメンのかほりから」(’75) が録音されたテープをもらった。(写真2)その年に発表され、レコード大賞などを総なめにした「シクラメンのかほり」を含むこのLPレコードは全曲が小椋佳によるものである。「あなたのために」や「街角に来ると」を始めとして、全て名曲だったと記憶していた。今回再び聞いてみたところ、やはりどれも実にいい。このLPを高校生の彼女がよく選んだなと思ったが、考えてみれば、自分も高校時代に、小椋佳の初期の名作アルバムである「彷徨」(’72) と出会ったので、納得した。

 ② 北山修さんとの思い出

本棚に、北山修のエッセイ集「戦争を知らない子供たち」(写真3)と「さすらい人の子守歌」(写真4)がある。それぞれ第54刷、第12版とあるので、ベストセラーだったのは間違いない。

写真3:「戦争を知らない子供たち」 (左) 
写真4:「さすらい人の子守歌」(右)

関西フォークブームの火付け役となった「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバーで、「初恋の人に似ている」(’70)「あの素晴らしい愛をもう一度」(’71)「さらば恋人」(’71)などの作詞でも有名である。しかも、現役の医大生でディスクジョッキーもしていて、若者のカリスマ的存在だった。

ユーモアを交えて当時の社会世評を少し変わった切り口で書き綴られている ~ 「知っていても知らないふりをするのが大人なら、私は知らないのに知ったかぶりをしたい。まじめだが非良心的なのが大人なら、私はふまじめだが良心的でありたい…」 ~ 兄貴分の立ち位置で主張する彼にいつのまにか心酔していったのかもしれない。

今から数年前、JR中央線のとある駅前交差点で信号待ちをしていた所、反対側に立っておられる白髪の紳士が目に留まった。こちらに渡ってこられるのを待って再度確認したところ、やはり「北山修氏」だった。思い切って「北山先生ですか?昔から憧れていました」と興奮気味に伝えたところ、会釈をされて足早に去って行かれた。別の場所への移動を急いでおられたのだろう。もう少し話ができたらとも思ったが、いい思い出になったのは間違いない。

③ 見知らぬ土地のレコード店にて

1973年(昭和48年)、福岡で一人暮らしを始めて間もない頃の事である。九州一の繁華街「天神」の近くにある予備校と西の端に位置する「姪浜」の下宿との往復に慣れてきたので、少し寄り道をして大きなデパートに入ってみることにした。特に目当てもなく興味本位であったのは勿論である。足の向くまま、レコード店に入ったところ、「朝倉理恵」というアイドル歌手が「あの場所から」(’73) のレコードをセールスしている場面に出くわした。私が直に見た初めての芸能人 ― レコードジャケットからそのまま飛び出してきたような衣装の、小柄だがとても綺麗な人が目の前にいる ― にビックリした。

大学生や社会人であれば、積極的にサイン入りのレコードを買って握手したのだろうが、浪人生という身の上故に足が一歩も前に出なかった19歳の苦い思い出である。

彼女の名前をネットで検索してみると、懐かしい曲がヒットした。「目覚めた時には晴れていた」(’71) ― この曲は、1971年に浅丘ルリ子と石坂浩二が共演(のちに結婚)した「2丁目3番地」というテレビドラマの主題歌として使われていた。土曜日の夜に放送されていたのでよく覚えている。当時は、伝説のフォークグループ赤い鳥が歌っていた。隠れた名作で多くの歌手が歌っていたのだが、彼女も歌っていたようである。

以上の曲はyou tube で聴ける。昔のあやふやな記憶も簡単に思い出せる便利な世の中になったものだ。

④ 共に歩いた青春 

南沙織は小柳ルミ子、天地真理と共に「新三人娘(脚注6)」と称されたアイドルである。生まれた年だけでなく生まれ月も私と同じなので、デビュー当初から勝手に親近感を持っていた。「17才」(’71) はまさに私たちが17歳の時のデビュー曲で、それからほぼ3~4か月ごとに出される曲は、同世代の女の子の気持ちをうまく捉えたものであった。(当時は、そんなことは分かるはずもなく…)

二十歳に近づくにつれ、それまでの明るい曲調から、次第に大人びた静かな曲調に変わっていったのは当然であるが、自分の浪人生活が後半になった頃に発表された「色づく街(’73/08/21発売)」と「ひとかけらの純情(’73/12/05発売)」は、これからの明るい光が依然として見えてこない自分の暗い心情にマッチしていて、いまだに忘れることができない唄となっている。

大学生になると、自分を取り巻く世界は一気に広がっていった。1975年(昭和50年)、大学二年生の夏休みには、ユースホステルを利用した初めての北海道旅行に友人と三人で参加した。道内に点在しているユースホステルをバスで乗り繋いで旅するバスツアーなので、始めは見ず知らずであった同行者たちも、あっという間に打ち解けてくる。車中、あるいはユースホステルでの食後の集いには、北海道各地の名物ユースホステルに伝わっている曲を皆で歌うのが常となった。手元に残されていたツアーの冊子を見ると、「旅の終わり」、「時計台の鐘の鳴る街」、「岩尾別旅情」(いずれも’70年代だが正確な年は不詳)などが掲載されていた。1週間足らずの旅行であったが、未だにしっかり覚えているのは、「天の時(タイミング)」「地の利(未知の土地)」「人の和」全てがそろった旅であったからに他ならない。

70年代の歌手で同世代といえば、太田裕美とキャンディーズを外すわけにはいかない。

キャンディーズは、1973年(昭和48年)のデビューであるが、1975年の「年下の男の子」のヒットから、アイドル歌手の仲間入りを果たすも、1978年4月には惜しまれつつ引退となった。初期の明るい曲よりも、引退前の頃の20代半ばの歌の方が気に入っている。素敵にハモれるアイドルグループはそうはいない。三人三様に可愛くて、「誰が一押しか?」とあえて問われたら、スーちゃんか?

キャンディーズと一緒にスクールメイツに在籍していた太田裕美は、「木綿のハンカチーフ」が代表曲で1976年(昭和51年)の大ヒット曲になった時、アイドル歌謡とフォークソングの中間に位置つけられていたようで、確かに立ち位置は微妙だった。少し甘えた声であるが透明感のある声と曲のイメージがよくマッチしている。令和2年に初めてコンサートで聴いたが、40年以上たっても変わっていないのはさすがであった。

⑤ 「サンスイ」のレコードプレーヤー

医学部の専門課程(三年生)に入ると、同級生の家の二階が学生向きのアパートに改築されたとの情報が入った。そこへの入居を勧められ、ようやく小ぎれいな部屋に落ち着くことができた。

ハードな講義や部活動に明け暮れる毎日だからこそ、安らぎが欲しいと思っていた所、大学の生協で「サンスイ」のレコードプレーヤーがバーゲンセールとして安く売られていることを知った。そこで、仲のいい友人と一緒に思い切って購入することにした。(写真5)これまであまり縁がなかった「クラシック」や「ジャズ」のレコードを手に入れたりして、少し背伸びをして大人のサウンドにも手を出した。LPレコードに入っている曲でペドロ・アンド・カプリシャスの「陽かげりの街」(’75) やダウンタウン・ブギウギ・バンドの「涙のシークレット・ラブ」(’76) などをたまに聞くと、24歳にもなったのにまだ学生だった頃のほろ苦い思い出が蘇る。

 写真5:サンスイのレコードプレーヤー

こうして、学生最後の年を迎えるわけであるが、1979年(昭和54年)にサーカスが歌った「アメリカン・フィーリング」は、アメリカ大陸をとても身近なものに感じさせてくれ、大学卒業後に広がる新たな世界を予感させてくれるようだった。

脚注3:「御三家」:既出
橋 幸夫、舟木一夫、西郷輝彦

脚注4:「新御三家」:
野口五郎「青いリンゴ」(’71)
郷ひろみ「男の子女の子」(’72)
西城秀樹「恋する季節」(’72)

脚注5:「三人娘」:
中尾ミエ「可愛いベイビー」(’62)
園 まり「逢いたくて逢いたくて」(’66)
伊東ゆかり「小指の思い出」(’67)

脚注6:「新三人娘」:
小柳ルミ子「私の城下町」(’71) 
天地真理「水色の恋」(’71)
南 沙織「17才」(’71)

脚注7:「中三トリオ」:
森 昌子「せんせい」(’72)
桜田淳子「天使も夢みる」(’73)
山口百恵「としごろ」(’73)

脚注8:「演歌」:
水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」)(’68)
藤 圭子「圭子の夢は夜開く」)(’70)
八代亜紀「舟歌」(’79)



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