メイクの哲学、顔の哲学
極端なナチュラリストが増えた。それは「ナチュラル」とは言い難い近代及び現代においては当然のことであり、またそうあらなければならないんだろう。例えば環境のこと…自然は支配されるべきもの、という近代西洋思想への反省。人は環境を破壊し、また人も破壊した環境に破壊される。それを学んでからの、手を加える、ということへの、嫌悪。
ノーメイク、という言葉も、手を加えることへの嫌悪というトレンドから出てきたものだと思う。ナチュラルメイク。
ノーメイク論者の考えるナチュラルとは一体なにか?
私たちにとってメイクってなにか、
そもそも顔って何なのか?
ノーメイクの美徳
ノーメイクが良とされるようになったのって、いつからなんだろう?「自然の美」「本来の美」人それぞれ自身の美しさをもっているからそれを隠す厚化粧はナンセンス。そんな風潮がわりと最近もある気がする。しかし、この論理が前提としている「ノーメイク」=「自然」
「自然」=「美」
は、果たして現代の風潮がそうしているようにいつでも成り立つのだろうか。
顔とは?
顔とは私たちにとって処理可能ではない。
誰だったか、偉い人の言葉。
そもそも顔って何かを考えるときに、大きく役に立ちそうな言葉だ。
私たちはいつから、自分の顔をコントロールしたり、変えたり出来るものとして見るようになったんだろう?多分そんなに一方的に私たちが支配できるようなものではないのだ。例えば、顔を何らかの手段で変えたとする。そうすると、自分の心持ちや、周囲の自分に対する見方(それがよいことであれ悪いことであれ!)も変わるものだと思う。よくも悪くも、私たちは自分の顔から少なからず影響を受け、また影響を及ぼすというのを繰り返しているのだと思う。自分の思っていなかった作用を及ぼしうるという、そういった意味で、顔は本当に心から自分のものとは言えない。処理可能でなく、また悪影響も及ぼしうる以上、私たちは顔のことをよく知る必要がある。またそれが私たちをいい方向に導くようにアクションをとる必要がある(笑うなど)。それらの中には無意識に行われていることも多いと思う。
ではそんな「他者としての」自分の顔に、善悪という価値観を付加させるのは、果たして出来うるのか。生きている以上私たちは顔を使わなければならない。環境に適した行為を生産する上で、顔は必要不可欠な武器だ。メイクをして(少なくとも自分のものでない)顔を少しでもよくみせることは、現代となっては生命にとって賢明な判断なのだ。
ではなぜナチュラリズム
※個人の見解を含む 一意見として読んでくれれば嬉しい
思うに、ナチュラリストたちも、化粧をすることが完全に悪だとは思っていない。ただ、手を加えることへの恐怖が、手を加えないことへの快楽にいつの間にか転換してしまったのだ。これは大きな履き違えだ。本来集中すべきは、手を加えることへの恐怖であって、それをしないことによる快楽を得るという所ではない。今、毛を剃らない、肉を全く食べない、添加物を全くとらない、ルールを全く気にしない(個性尊重という名目)などの極端なナチュラリズムが幅を利かせているが、全く同じ原理で動いているのだと思う。彼らは実生活に関わる気がない。「しないこと」の快楽に溺れ、行きすぎているように見える
矛盾
つまりは手を加えることが悪いことだと分かっていながら利便さをどこまでも求めてしまう自分たち自身の心理的な逃避の場としてのノーメイクは、本質的に矛盾を繰り返している。そんな見せかけは、ほんとの解決ではない。まあ皆はそんなこと考えずただ流行りの「ノーメイク」メイクをしてるだけかもしれない。矛盾への対抗意識はナチュラルメイクとなって世の女性達の顔に現れる。面白いことに皆無意識的にやっている。げに、メイクとは時代の考えをモロに写すのであるなぁ。
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