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#01 生きづらさから社会を診る

生きづらさとは非常に抽象的な言葉ですが、本研究所では社会学者、貴戸理恵さんの「個人化した「社会からの漏れ落ち」の痛み」という定義を援用します。この貴戸さんの定義の背景には、ウルリヒ・ベックの「自由裁量が広がるがシステムの矛盾やリスクが直接個人に降りかかる」という近代社会の危険性の指摘である「個人化論」の把握があります。新自由主義という資本主義の原点回帰による先鋭化は社会に大きなリスクを持ち込んでいます。私たちは、連帯の足場を掘り崩され、自由な時間を搾取されることで、創造性や思考までもが奪われているように感じて仕方がありません。例えば、朝早く起きて、満員電車に揺られ、労働を行い、クタクタで帰宅し布団に飛び込む。おまけに、賃金は生活水準を維持するのにギリギリな額。こんな日々の繰り返しの中で、仕事と自宅の往復以外に社会参加をすることは非常に気力を使うことですし、じっくりと社会の問題に目を凝らして考えることのハードルが高まります。誰もがこの競争社会の中で漏れ落ちないようにと、強くなろうと一生懸命です。しかし、そうなってくると、「あの人と私の生きづらさは違う」とか「私はこんなに頑張っているのにあの人は怠けている」とか「私たちではなくあの人たちを助けるのか」という対立と分断が社会に持ち込まれるようになります。本来は、連帯して社会に声を上げられる人たちが、不安から怒り、そして憎しみへと負の感情をぶつけ合うのです。この個人と社会のつながりを取り戻したい。これが本研究所の第一義的なミッションです。第二次フェミニズム運動をリードした言葉に「個人的なことは社会的なこと」というものがあります。個人の問題は政治の問題であるという認識から、声を上げることの重要性を説いた言葉です。私は、社会を政治家目線で斬るのでもなく、評論家ぶるのでもなく、中立的ぶるのでもなく、達観するのでもなく、一市民として声を上げるということを大切にしたいと考えています。自分の足元から社会を捉えて、競争社会を所与とみなして強くなるのではなく、自分の中にある「弱さ」に目を凝らす。その弱さから自分の生きづらさを意識して、生きづらさから社会を診る(=診断する)。そこから社会の治療法を探っていき、治療していく。そうすることで、「自分の生きづらさはあの人の生きづらさでもあり得る」「あの人の生きづらさは自分の生きづらさでもあり得る」という気づきが、個人と社会とのつながりを回復し、同時に既存の社会の枠組みを問い直していくことになるのではないかと思うのです。この模索そのものが、もう政治的なことなのではないでしょうか。

《参考文献》
①貴戸理恵(2022)『生きづらさを聴く:不登校・ひきこもりと当事者のエスノグラフィ』日本評論社
②貴戸理恵(2021)『個人的なことは社会的なこと』青土社
③ウルリヒ・ベック著.東廉・伊東美登里訳(1998)『危険社会:新しい近代への道』法政大学出版局

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