日本史における84年の奈良時代⑤藤原氏を再興させた冷血漢 藤原仲麻呂
奈良時代の重要なキーマン女帝孝謙天皇が即位すると、藤原四兄弟の武智麻呂の次男、藤原仲麻呂が参議から大納言に大躍進。孝謙の母であり叔母でもある光明皇后の後ろ盾もあった。仲麻呂もかなりの切れ者なのだが、聖武天皇の第二皇子安積親王の暗殺や政敵橘諸兄の失脚など黒い噂がいろいろある。752年に東大寺の大仏開眼供養が盛大に開催されると、その日から孝謙天皇は内裏でなく仲麻呂の私邸に入り浸る。意味が分からない。
聖武上皇が崩御すると、仲麻呂は自分の亡くなったの息子の嫁と大炊王を結婚させて自宅に囲い込み、彼を皇太子にすげかえた。彼は後に淳仁天皇となる。いやはやお見事な計略、藤原氏久々の復活なのだが、これには周囲も黙っていない。橘諸兄の子、橘奈良麻呂が反乱を企て仲麻呂の命を狙うが、あえなく密告により計画が露見。400人を超える逮捕者が出る一大スキャンダルとなり、多くが拷問により獄死する。仲麻呂は反対勢力を一掃して、政権のトップに立つ。758年に孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位すると、もう誰も仲麻呂を止められない、彼は天皇の父でもあるのだ。
仲麻呂は藤原恵美押勝と改名し恵美家印の所持を許された。この印が曲者なのだ。当時は太政官の合議によって決められた事柄が最終的に天皇の命令として文章で下るが、この印が押されれば合議の同意なく役所や軍に通達できるというものなのだ。貨幣の鋳造まで可能だった。天皇家をも揺るがしかねないほど仲麻呂の権力は極まった。しかし歴史は面白いもので絶大なる権力を得た者たちはどうしても驕ってしまうのだ。恵美家の増長は他の藤原氏からも反感を買うようになる。仲麻呂は皇族以外では初の太政大臣になるのだが、ここで後ろ盾であった光明皇后が亡くなる。
藤原不比等が宮子、光明子と二人の娘を天皇の奥方にすることで藤原家の繁栄の基礎を築いた。不比等の死後は皇族の長屋王が実権を握る。不比等の息子達藤原四兄弟が長屋王を排除し政権を奪取する。天然痘で倒れた四兄弟の後に実権を握るのが皇族系の橘諸兄。そして孝謙天皇、光明皇后の後ろ盾を得て藤原四兄弟の長男の息子藤原仲麻呂が頂点に立つ。
奈良時代は藤原氏と皇族系との激しい政権争いの時代でもあった。
そして奈良時代の一大事、道鏡の事件で時代が変わる。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 10月25日(金)】