映画「アマデウス」に見る音楽家としての天才と凡庸の末路
昔、「アマデウス」という映画を見て天才という存在を改めて認識した。
天才という言葉はよく使うし、よく聞くが、この世に本当の天才は存在するのだろうかと疑問に思っていた。私の周りにも勉強がめちゃくちゃできる人もいたし、スポーツや芸術において人並外れた技術や感性を発揮する人もいた。けれど、彼らは明らかに努力をしていることを私は知っていた。
成功をイメージして、そのために何をしなきゃいけないかを整理して、時間や段階を考慮の上、持続的に、必要なことができるまで鍛錬する。
書きながら失笑してしまう、お前がやってみろと言われそうだ。
残念ながらそれは誰にでもできることではないのだ。
「アマデウス」は1984年に当時の舞台劇が映画化されたもので、真面目で紳士で音楽愛に溢れていたオーストリアの宮廷作曲家サリエリが天才モーッァルトと出会い、人生の歯車が狂っていく残酷なストーリーであった。
特にモーツァルトは、無作法で、軽薄で、下品で、周囲からも軽蔑されるのだが、その音楽は聡明であり、比類なき美しさは一般大衆を魅了してしまうのだった。信仰心のあついサリエリはモーツァルトの音楽に神のご加護を感じるほど心酔するのだが、同時にふしだらなモーツァルトにこのような才能を与えた神を拒み、モーツァルトを憎む。つまりサリエリは音楽的にはどうにもこうにもモーツァルトにかなわなかったということだ。
モーツァルトの音楽が素晴らしことは改めて言うまでもない。私もクラシックではモーツァルトの曲を好んでよく聞く。彼の残された譜面には書き直しがないことも有名な話。頭に次々と浮かんでくる音楽が、いじる必要のない完成されたものであったと言うことか。やはり天才肌の作曲家であった。
また彼の下品な手紙やいかれた逸話も結構残っているから、彼の音楽とのギャップが大きく、それは彼の優れた才能を益々光り輝かせてしまう。
人生をかけて真面目に音楽と向き合ってきたサリエリが、軽蔑すべき大っ嫌いなモーツァルトの曲に圧倒される姿は、本当に気の毒でならない。
「アマデウス」は1830年のプーシキンの戯曲「モーツァルトとサリエリ」が元になったと言う。そんな昔から引き合いに出されていたのだ。
サリエリの音楽は知らないが、天才の引き立て役として有名になってしまった彼に心よりお悔やみ申し上げる。
音楽の才能がない私が、こんな天才に出くわしたら、逃げるしかない。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 2月29日(木)】