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日本史における約400年の平安時代

 私はこの時代にあまり馴染みがなかった。平安時代のイメージというと貴族と十二単と和歌など雅な印象を持つが、それは皇室や貴族などほんの一部の特権階級の話、多くの人々の暮らしは貧しく厳しいものだったろう。平安の日記や物語、和歌などに実際に残っている世界は雲の上の出来事であったに違いない。

 時代区分では平安時代は都が京都の平安京に移って始まる。そして武士が台頭して平家一門が滅亡し、源頼朝が全国に守護・地頭を設置し、実質的に鎌倉幕府が始まった年に終わる。
 794年の平安京遷都から1185年まで約400年間が平安時代。

 平氏の祖第50代の桓武天皇が奈良の平城京から長岡京、平安京へと都を移した。蝦夷を破り東北地方を平定した坂上田村麻呂が活躍した時代だ。これまでは天皇や皇族が政治の実権を握ってきたが、平安中期になると藤原氏のような貴族が権勢を振るう。皇族でない藤原良房が初めて摂政に就き、源氏の祖となる幼い清和天皇を補佐した。その後もその座は世襲されていく。自分の娘を天皇の后とし生まれた子を即位させ天皇の祖父として、幼い天皇の代わりに政治の実権を握るというものだ。
 摂政とは幼い天皇の代行として政治を行うか、聖徳太子のように女帝の補佐する役職だ。聖徳太子が補佐した女帝は推古天皇で太子の叔母にあたる。太子の父は用明天皇なので、もちろん太子も皇族だ。
 成人した天皇を補佐するのが関白、摂政も関白も令外官であり法律で定められたものではない。

 894年に菅原道真の建議によって遣唐使が廃止される。それまで唐の制度や文化、宗教などを取り入れるため12回以上(20回説など諸説有)派遣されている。推古天皇の時代に遣隋使が3回ほど派遣されたが、隋が滅び遣唐使となった。907年に唐は滅亡し、中国からの商人の渡来もあり、遣唐使は消える。これも日本独自の国風文化を発展させるひとつの要因となる。

 平仮名や片仮名の登場で物語や日記、和歌などの文学が発展し、摂関政治の影響もあり、貴族社会では女性の活躍が目覚ましかった。

 服装や建築など衣食住に関すること、楽器や彫刻、工芸など芸術面においても日本独自のスタイルを確立していく契機となる。

 平安初期の桓武天皇や嵯峨天皇は、唐から持ち込んだ最澄の天台宗や空海の真言宗を新たな仏教として保護する。力を持ち過ぎた奈良仏教の影響を排除するのも平安京遷都の目的でもあった。今後の仏教に対するこの二人の影響も大きい。

 このように飛鳥・奈良と中国を倣い、国としての骨格を確立してきた日本は平安時代に独自の路線を取り始める。公地公民から荘園制度へと経済的な変化もあるが、次の主人公、武士の台頭も平安時代後期の出来事だ。

【REG's Diary   たぶれ落窪草紙   9月10日(火)】

 

 

 

平安仏教

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