日本史における84年の奈良時代⑥藤原仲麻呂の最後と称徳・道鏡の企み
孝謙天皇は退位しても影響力は衰えない。藤原仲麻呂は太政大臣となり、意のままに淳仁天皇を操っている。そんななか光明皇后がが亡くなる。
孝謙上皇も病になり看病したのが、物部氏の一族とも言われる法相宗の僧道鏡だ。上皇は道鏡をたいそう寵愛したようだ。下世話な憶測も多々あるが、確かに上皇の熱の入れようは半端ではない。それもあって孝謙と淳仁、仲麻呂の関係は悪化する。762年6月に孝謙上皇は仲麻呂の擁する淳仁天皇に不満を持ち、出家して国の政務を自分が執ることを宣言して混乱を招く。
こうなると孝謙、道鏡と淳仁、仲麻呂それぞれが勢力争いに走る。
764年9月11日孝謙上皇は、仲麻呂の反旗の情報を得て、淳仁天皇から軍事指揮権を示す鈴印を取り上げる。これを奪い返そうとした仲麻呂だが失敗する。上皇は仲麻呂の官位と藤原姓を剥奪し財産の没収を命じて、仲麻呂は朝敵となる。仲麻呂一族は平城京を脱出し、反撃の機会をうかがい地盤の近江国へ向かった。9月18日には抵抗もむなしく琵琶湖にて吉備真備率いる討伐軍により藤原仲麻呂は斬られ、一族も皆殺しになった。
僅か一週間で権力のトップから転がり落ちる藤原仲麻呂の乱であった。
仲麻呂の勢力は一掃され、淳仁天皇は廃位流罪、孝謙上皇は重祚し称徳天皇として再び即位する。称徳天皇と道鏡による独裁政治が6年間続く。
道鏡は太政大臣禅師となり、僧が参加しない式典にも顔を出すようになり宗教界の最高位、法皇の座につく。称徳天皇の後押しがあってのことだ。
称徳天皇は仏教重視の政策をとり神仏習合も進む。一方で称徳天皇は独身で子供がいなかったため皇位継承問題も浮上し、皇族への粛清や呪詛事件などで世が乱れ、厳しく罰せられた人もいたが、冤罪もあったようだ。
そして769年に太宰府の主神が「道鏡が皇位に就くべし」という宇佐八幡宮の神託が下ったと報じる。確認のため和気清麻呂が宇佐八幡宮へ派遣され、清麻呂はこの神託を虚偽と断定した。道鏡を天皇にしたかった称徳天皇は怒り、清麻呂をキタナマロと改名させ、大隅国へ配流したが、この神託は道鏡の側近の捏造として決着する。天皇家の血統を揺るがしかねない宇佐八幡宮神託事件であった。
770年道鏡は失脚し下野に配流され、称徳天皇も病死する。
そして光仁天皇が即位する。彼は天智天皇の孫で、皇后は聖武天皇の娘、井上内親王。生涯独身の称徳天皇に後継者はおらず、粛清を重ねたため奈良時代に脈々と続いてきた天武天皇の嫡流は称徳天皇で途絶えることになる。
波乱万丈の奈良時代もそろそろ終焉に向かう。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 10月27日(日)】