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《ホモ・プレカリアス》のひみつの集会 セルフレポート vol.2 —偽物の「アヤしい集会」をつくる

こんにちは。REFUGIAの久野です。

前回は、集会の着想になった体験について紹介しました。
「演劇の参考になると思って、脱出ゲームにひとりで行ってみたら、マルチの集会に誘われた!」という経験が、今回の企画のアイデアに繋がった、というお話でした。(前回の記事はこちら▼から。)

今回の記事では、その経験に基づいて、どのような形式の「集会」を実施したのか、について書いていきます。


レクチャー → ディスカッション → ワークショップ

今回の集会は、大きく3つのパートに分けて進行しました。

■第一部
 I:レクチャー(演説、スピーチ、教授)
 II:パネルディスカッション(対論、対談)
 III:ワークショップ(対話、会話)
■第二部
 アフタートーク

参考にしたのは、平田オリザさんのコミュニケーションの分類です。
「演説」「スピーチ」「教授」「対論」「対話」「会話」といった分類のもと、平田オリザさんは「対話」に重点を当てて論じています。

この集会では、なるべく多様な形態のコミュニケーションが、舞台上だけでなく、舞台上と客席間、客席内で引き起こされるような構造を目指しました。

このような構造にしたのは、(平田さんの影響か)「演劇ではよく『対話』を大事にしている、と言うけれど、結局それが舞台上で完結してしまっているのではないか」という問題意識が根っこにあったからだと思います。
稽古場での「対話」を重視し、登場人物と登場人物が「対話」する様子を演じるのはいいとして、最終的なお客さんへの伝え方は一方通行、というあり方に、どこか足りない部分があるように感じていました。

こうした流れに呼応して出てきているのが、昨今増えてきている「イマーシブシアター」のような形なのかもしれません。
とはいえ「イマーシブシアター」も、制作者が用意した筋の上にお客さんを乗せて楽しませるエンターテイメント要素の強いものが多く、来場者をレジャー体験的なサービスの「受容者」や「消費者」に押し込めてしまっているのではないか、という思いがありました。

制作者が用意した「フィクショナルな体験」を、劇場で「よーいどん」で無口な観客に一方的に押し付けるようなあり方ではなく、制作者と観客の間で徐々に「フィクショナルな体験」が構築されていくような体験をつくりたい、という思いから、このような構造にしたのだと思います。

それはある意味で、「社会」というものが、そもそもこうしたメカニズムで構築されているからこそ、それをモデルにしながら少しズラしてみることでしか、本当の意味でリアリティを感じる体験はつくれないのではないか、ということなのかもしれません。
「会社」や「家族」、「サービス」も、"そういうもの"としてみんなが信じていることで、一応は成り立っている。それを際立たせるために、こうした構造に至ったのだと思います。

I. レクチャー

冒頭、私が演じる集会の企画者「チョイア」が登場し、「《ホモ・プレカリアス》とは何か」について、アヤしいプレゼンテーションを行いました。

主に述べたのは、以下のような内容です。

・集会の参加者はみな、《ホモ・プレカリアス》である。
・《ホモ・プレカリアス》は、現生人類「ホモ・サピエンス」の次に台頭する新人類である。
・《ホモ・プレカリアス》は「擬態」の技術に長けていて、さまざまなモノや生物に、転々と「擬態」しながら生きている。
・この「擬態」が過度に進み、《ホモ・プレカリアス》としてのアイデンティティを失った状態(=「過擬態」)の状態になる《ホモ・プレカリアス》が増加し、彼らの間で問題になっている。

モデルにしたのは、アヤしいコンサルだったり、YouTuberだったり、政治家だったり、新興宗教の教祖だったり、それこそ「マルチの集会」のスピーカーだったり。参加者の方々には、私をそういう「ちょっと胡散臭い人たち」に見立てながら、私の話を聞いてみてほしいと思いながら話していました。

とはいえ本当に「胡散臭い人」だと思われてしまうと、参加者が引いてしまい、その後のワークに巻き込んでいけないので、ある程度メタで見てもらえるよう、ギャグも交えながら、ゆるく語ろうと努めました。

「なんかヘンなこと言ってるぞ」というちょっと引いた目線と、「あながちあり得ない話でもないかもしれない」という前のめりな目線とを行き来しながら聞いてほしいと思いながら、プレゼンテーションを進めていきました。

ここで登場する「擬態」の話は、「演劇」の基本的な構造をモデルにしています。いわゆる「見立て」の構造です。Aという役者が、Bという役を演じているとき、お客さんもいったん「この人はBという人だ」と思い込むことで、「演劇」というフィクションは成り立っています。そうした意味で、「私は実は新人類《ホモ・プレカリアス》で、今は人間に擬態しているが、これまでブロッコリーやコンクリートブロックに擬態したこともある」という真っ赤な嘘を、試しに受け入れてみることで、参加者と一緒に、この嘘の「集会」という演劇を一緒に演じよう、とはたらきかけました。

II. ディスカション

冒頭のレクチャーのあと、今度は《ホモ・プレカリアス》としてのアイデンティティをもつ4名による、パネル・ディスカションの時間を設けました。パネルディスカッションは、下記のような進行で進めていきました。

①各登壇者による自己紹介(ホモ・プレカリアス名、擬態の経歴)
②《ホモ・プレカリアス》として生きていて、印象に残ったエピソードについてのディスカッション
③質疑応答

まずは登壇者の経歴を語る、という自己紹介。その後、これまでの擬態の経験の中で印象的だったことを語り合い、参加者による質疑応答へ、という流れです。

パネルディスカッションの部分は、いわゆる劇場での「演劇」に近い形です。演者と演者のやりとりを、観客が眺める、という構造。そしてその後の「質疑応答」のパートから、徐々に観客の「参加」の度合いを段階的に増やしていきました。

ここでは自由に質問を求めていたので、もっと「嘘」であることを暴いてくるような(我々としては手痛い)質問が来ることも覚悟していましたが、参加者の方々はほとんど、この設定にノッた形での質問をしてくださりました。「こういう遊びだ」という意識で入ってもらえた方には、ある程度楽しんで、質問をしてもらえたのかもしれません。(中には、本当に自分たちを《ホモ・プレカリアス》だと信じちゃっている人たちだ、と思った方もいたようです。)

III. ワークショップ

その後、さらに段階的に、参加者の「参加」度合いを上げていきます。後半は大きく三つのワークショップを行いました。

①「子供時代の思い出を語る」
→グループごとに自分の一番古い記憶について語り合う。
②「口からでまかせ、旅の恥はかき捨て」
→参加者で会場内を歩き回り、ランダムにペアになった人と、その時々のお題に対して、嘘と本当を織り交ぜながら会話をする。
③「自分で自分に名前をつける」
→参加者自身で、自分に対して《ホモ・プレカリアス》としての名前をつけてみる。

特に印象的だったのは、二つ目のワークショップです。初めて出会った人どうしが、楽しそうに嘘をつきあっている様子を、運営側として見て回っているとき、観客どうしがつくるミクロな嘘の会話(≒小さな演劇?)を、制作者/演者側が眺めるという構図になっていて、演者と観客の関係性が反転したような感覚がありました。

これらのワークショップが通常の「演劇ワークショップ」と違ったのは、「演劇ワークショップ自体が、演劇によって覆われていたこと」だと思います。あくまで《ホモ・プレカリアス》というゆるい役を演じている(ことにされた)参加者たちが、「架空の集会」というゆるいフィクションの中で、「演劇ワークショップ」を体験する。

この「劇中劇」ならぬ、「劇中ワークショップ」といえるような構造には、クラインの壺のように、この集会の演劇性/フィクション性に穴を開けるという狙いがありました。「ノって」みるという恣意的な作為によって成り立っている集会のなかで、その作為をバラすような体験をすることで、「我々は普段から似たようなことをしていないか?」「だとしたら、普段我々が『ノって』いるこの『社会』も、自分たちの振る舞いによって少しずつズラしていくことは可能ではないか?」という感覚を持ってもらえていたら、この集会の狙いは達成したと言えるかもしれません。

…以上が前回の集会の形式と、その裏側にある制作者としての狙いでした。

次回は、その振り返りと、今後の展望について、書いていきます。


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