巷での石川賢作品イメージに対する私見
石川賢作品、何故か漫画を読んでいるという人間でも私からすればどうしたらそう読めるのかレベルで意味のわからない解釈をぶちあげたり変な広め方が散見される。
なんだかなあとなってしまうのが正直なところで、この数年モヤモヤと溜め込んできたがいい加減黙ってるのも限界だし、私見ながらよく聞くものでこれは誤解じゃないかとか齟齬が生まれがちだと思うってものを自分の心の整理のために軽くまとめておく。
セックスドラッグロックンロールとかエログロバイオレンス
そう言われて思い浮かべるだろう利己的で自己中心的で反社会的なものとは正反対。
セックス→大半を占めるバトルものにはほぼ無い
ドラッグ→ギリギリ敵が使う? 基本無い
ロックンロール→これはあると言うか逆にこれしかない
エロ→だから基本無いって言ってんだろ
グロ→敵側が非道外道の限りを尽くすからそういう意味ではままある
バイオレンス→主人公側の怒りが苛烈であるのがそういう描写にはなる
確かに石川作品はアナキズムとロックンロールの精神の権化とすら言える代物であるが、それらは反社会的であったり非道徳的でなくとも貫ける。
別に反社会的とか非道徳的なもの好きなのは個人の自由でどうでも良い(私もそれはそういうものとして嫌いじゃないし)が、石川作品はまっとうな人間がまっとうなまま貫いてるんだから、そこで石川作品内での悪党に成り下がるのは好き勝手やりたい自分の自己正当化、自己愛のための逃避のようにも見えてしまって何重かの意味で首を傾げる。
具体的に言えば性描写等は特にわかりやすい。
石川作品全体を指して「性描写が多い」みたいな事言うのはまずデマかガセかギャグ漫画しか読んでない(ギャグ漫画も石川作品の主要ジャンルであるし重要ではあるのは間違いないが)と断言して構わないだろう。
シリアス筋の漫画など分かりやすいが、性描写自体が少ない。特に合意の無い暴力としてのものは悪人の成す悪行として存在してもまっとうな主人公側ではまずない。
昭和堅気の純愛ピュアピュアっぷりはかの山田風太郎先生原作となる「魔界転生」などによく表れている。
そもそも女性が孕むことで転生をなすのだから、主人公の十兵衛と女性の性描写など根幹に関わるだろうに、自らの罪、死者から責められる悪夢に「許してほしい」と言わんばかりにひどくうなされ衝動のままにお品をかき抱いてしまったような彼を彼女が許し受け入れたと読める表情描写の後はまともに描かれず、例えるならほぼ暗転朝チュンである。
少女漫画か。
しかもこの話、初出が単行本で雑誌の自主規制からは逃れられているはずなのである。そこで朝チュン。
少なくとも性行為が物語の中核ギミックとなる話で、単行本書き下ろしという表現への自主規制もページ数も制約が少ないであろう条件で。
(読み返してみたら裸体すらまともになくシルエットだけだったので表情から感じる心情描写に泣きそうになりつつ笑いそうになった)
少女漫画じゃねえんだぞ(二回目)(そういうところも私は好きです)。
性描写自体を好んで描く人なら、ここで描かない訳がないだろう。他のシーンにも言えるが。
代表作である「ゲッターロボ」なんかも、読み方次第でキラッキラの純愛少女漫画が裸足で逃げ出す、仮にも同人女である私の考えること三段上くらいぶっ飛んだ代物である。石川作品全体で見ても流竜馬の魂部分を受け継いだ人物たちの一途さと性愛絡まない純愛貫徹する精神には恐れ入る。
*かといってあの作品群は性欲自体を否定している訳ではない。生物は持ってて当然ならそこに善悪も存在しないし、否定したところで仕方なく、「あるものはある」ので自己制御しようという考え方だろう。自分を律し厳しくあるのが基本である
合意の上での性行為であるとしてギャグ漫画ではよく使われるが、それも主人公側は基本的に「合意の上」である。
なんだったらストレートに女性型セクサロイドである「ブルーベリードール」などは、同時に「女性にも性を楽しむ権利がある」「合意の上でない性行為は暴力である」と描いておられた。
どうしてこの題材のそこで生真面目さが発揮されるのかと、そこで一番笑ってしまった。
そもそも、基本的に石川作品というのは「自分を尊重してほしかったら他人を尊重してから言え」「自分の自由を求めるなら、他人の自由も認めてから言え」というタイプの正しい個人主義や自由主義価値観を持つ作品群であって、「俺は強い╱神╱特別なんだから言うことを聞け」とかいって運命だのなんだの押し付け理不尽に他人の意思や命を奪うものへ「何様のつもりだ馬鹿野郎!」と怒るようなものである。
個人主義や自由主義の皮だけ被った利己主義や自己愛拗らせ奴の話ではない。
もちろん、主人公たちはその筋を通すためにだろう、基本的に他人の意思は尊重するし、押し付けないし、軽々しく暴力振るいもしないし、無駄に力を誇示して威張り散らかしたり、セクハラしたり、他人を馬鹿にしたりも滅多にしない。
(極道兵器の岩鬼のような悪党主人公などは違うが)
一見のインパクトや印象とは驚くほど異なり、その実は「お行儀が良い」のである。大体古風な武士と思って差し支えない。
(思い出したから追記しとくが、ゲッターロボの換骨奪胎作品は多く、そういうので言ったらトップのノリ子だしグレンラガンのカミナだし、関係ないだろうけど私が読んだ中でメンタリティ近いと思ったので言ったらJOJO1部のジョナサンだし北斗の拳のケンシロウって言ったら分かりやすいだろうか)
バイオレンス、暴力描写が多いのは認めるが、それだって正直な話、敵側の所業の方がずっとずっと残酷で量も多い。
(そういえばあれでバイオレンス!!とか言うなら北斗とかJOJOとかベルセルクとかその他諸々バイオレンス通り越してグロとかゴアと言うべきでは。正直90~00年代コンテンツ中心に育った私には「言うほどのものか?」と肩透かしで、少年漫画の範疇としてかなり普通に読めてしまいました。ついでに石川作品は正直バイオレンス絵面よりネーム時点で読み取れる情報の方が万倍エグかったです)
「こんなに暴力的!」とかって主人公側のコマだけ見せるのがX(旧Twitter)なんかは特に多いけど、その直前の敵による民間人虐殺とかの方が余程「暴力的」だしあれ見せられたらそりゃキレるわみたいな部分さっ引いて恣意的な見せ方すんの男らしくないと思わないわけ?
マチズモ信奉や暴力賛美は構わんけどそれならなおのこと正々堂々勝負しなよ。「男らしさ」を掲げながらその内実は権威を盾にしての卑怯姑息な真似とか「女々しい」って言うんじゃないんですか。
っつーかあれら主人公たちが本当に暴力賛美の傾向なら「そんなに暴力が好きなら傭兵にでもなって自ら戦争行けばいい」って「極道兵器」の岩鬼(石川作品に稀な理性の無い悪人主人公)がまさにそれとして描かれてるじゃないのよ。石川先生は30年近く前に「本当にそういう奴ならこうするだろ」って答え出してると思います。
主人公側のそれは、命を命とも思っていない、他人を自分と同じ存在と考えていないからそういうことができてしまう悪への怒りの描写であり、また、そもそもそうした抵抗の結果としても「暴力というもの自体が悪である」ことは変わりがないから、味方側もあそこまで苛烈で恐ろしい描き方なのではないかと私は思う。
少なくともそんなB級スプラッタ映画か暴力ポルノみたいな、そもそも命が紙っぺらみたいな話ではないだろう。石川作品90冊読んだが極道兵器の他は数冊しかなかったし、そういう成分欲しいなら石川作品じゃなくて違うの読んだ方がいいと思う。
石川作品は巷で言われてるより余程話筋とその論理はシビアで現実的で、いっそえぐいまである。
自分の所業だけ棚上げしたりは一切通用しない。
他人を殺すつもりなら自分の命もかかっていなければ、殺されても文句は言わない腹積もりでなければおかしい、戦争なのだから味方が死なないなんてあり得ない、○○だから贔屓される╱横暴に振る舞って良い╱支配して良いなんて何様のつもりだ。
主人公補正らしい補正もろくにかからないまま(だから頻繁に負けかけるし死にかける)、単にやたらめったら体力とメンタルオバケな主人公が、何度踏みにじられ地に叩きつけられても折れないめげないへこたれない鋼通り越した不屈の精神力で、逃げ場もなんもない崖っぷちの戦場で血反吐吐きながら守るべきもののために命張ってるみたいな話ばかりだと思う。
っていうかあの手の事言ってる方々、もしかして辞書レベルの単語の意味から履き違えていません?
原作クラッシャーとかなんとか
これは以前まとめたので下記事どうぞ。
正直ダイナミックプロ未監修派生作品の方が話になってないくらいゲッターロボを始め色々クラッシュしてると思います。何作見ても原作の主題すらまともにやれてないのはなんなのか聞きたい。
ちなみに結果として「ゲッターロボ」に関しては、私の周囲の漫画読み10人近くの漫画版読んだ反応を見るだけで、派生映像化やスパロボから入った層とで分断ができており、「何でもできてすごい作品」とか言ってる場合ではない。
むしろ本来の原作が持つ主題とは正反対の事を言っている派生作品からの誤認識、誤解釈によって離れて遠巻きにしているファン層が確実に存在している。
ついでに言うと私自体も「あんな話(スパロボからOVA見たがチンピラが自滅するB級スプラッタにしか見えなかった新ゲが一番原作に近いとネット辞典の各所に書かれたり喧伝されていた)ならたかがしれてんだろ」と完全に漫画版を見くびっていた人間の一人であり、本来の原典(原作漫画や東映版はきちんとやればむしろ現代でこそ受け入れられやすく支持者も多いはず)を好み支えてくれるはずの層にコミットできていない。当然、逆もまた然りであろう。
ネット上のトンチキな解釈や感想も概ね派生映像化やスパロボ、更にその元であろう90年代に適当なこと言い散らかした編集や評論家のせいだろう。本来なら客観的で正しい情報が記載されていないとおかしい場所ですら日本語読めてんのか?レベルの迷文が蔓延る惨状である。よくまあそんなに自分の読解力の無さを晒せるものだと呆れ果てる。OVA新ゲッターロボが原作に一番近いとかいう嘘八百書き散らかして私を10年以上騙していた方は話があるので体育館裏に来てください。
そうして主題から正反対のものを混同し、くそも味噌もいっしょくたに扱ってしまっている現状では、相互反発しか起きないのは自明で、作品ブランド自体にプラスよりマイナスの方が大きいのではないかとは感じている。
客観的に見て詐欺みたいになってるものに好感とか持つか?
せめても派生作品は原作の主題とは正反対であり、あのような話ではないと完全に分離分割する事は双方のためにも必要ではなかろうか。
石川先生はなにも考えてないとか勢いだけみたいな評価
十中八九そう言う人が漫画読み取れてないだけです。
まず言うんだけど読者がわかんないからって作者が考えてないからだとかいうひどく他責的な考え方を私は推奨しない。
「自分がバカだからわからないだけではないか」という謙虚な視点は基本的に持っておくべきだと思う。
確かに考えてない部分や「結果としてそうなった」部分も「わかってはいたが無視した」とかもあるだろう。
しかし何にしろ軽々しく上から目線で小バカにして良いというものではないはずだ、何事も。
本題に入るが、石川先生はあれでとんでもない理屈型である。
確かに敵の残酷な所業、悪による抑圧とストレスを与えた上で、主人公側の正しき怒りがドーン!でバーン!!する構造を取ることから得られるカタルシスは熱量が高く、基本的に展開が早いため勢いも着いている。
が、それは「そういう風に見せている」「構成している」という話であって、何もかもを勢い任せで突っ走っている訳ではないだろう。
論理筋がぶれず基本的に同じだし、多少の描写不足と思われる部分はあっても物語筋の整合性としては取れているし、人物の行動についても軸や核がわかれば齟齬やブレが少ない。
この辺は先日まとめた「ゲッターロボ」シリーズの年表は算数だけで概ね作れるとか、中島かずきさんが各所で度々話している「ゲッターロボVSゲッターロボGの依頼をした時に『初代ゲッターロボはなくなってしまっている(から描けない)』と言われたので、スパロボ設定を出して説得した」という話なんかも、石川先生には先生なりの筋があった事の傍証にならないだろうか。
色々どうでもいい人の作り方や話し方ではないと思う。(「どうでもいい」とは「拘りがない」と同義である)
石川先生の頭のよさを疑うなら、「石川賢マンガ大全」に収録されている永井豪展図録に寄せた文章原稿を読んでみるといい。
(同時に中島さんの話や御本人のエッセイ漫画には「弁慶と早乙女研究所についてはざっくりしか考えてなかった」ともあり、「話として今ここでは必要必須ではない(その事実や結果さえあれば過程は描かなくていい)」と判断した部分に関しては色々緩めだったのだろうとも思う)
それなのにどうしてそう言われるのかって「始点と終点しか出してない」からは大きいと思う。
言ってしまえば現代の漫画のように1から10までなにもかも言語で丁寧に説明してくれているわけではなく、言動や表情から読み取る作りをしているし、過程は省略されることも多い。
ひどく頭の良い方と会話をしていると、その人の思考で1から10まで進んでいきなり結論だけ飛び出してくることがある。私が石川作品の説明不足な部分によく感じるのはそれである。
石川先生は思考の過程や材料、ヒントを散りばめてあるのが優しさではあるが「今の話に必要ないここは要らないよね?」とか「考えればわかるんだから良いよね?」で飛ばしているところも多いように感じる。
私は基本的に専門家でも研究家でもないし個人の感覚とはなるが、フィーリングによるライブ感みたいなものは読んだ限りでは永井先生の方が強かったりもする。
石川先生はめためたに論理的なものを意図的な勢いに乗せて叩き込んでくる方が近く、そうでもなかったらいきなりの雑誌休刊の憂き目を幾度も食らいながらその殆どがそれなりにキリの良い終わり方なぞしていないだろうし、後年の作品にわかりやすかったりするが序盤から伏線が撒かれてもいないだろう。
最初から大枠や描きたかった部分は決まっていて、計画的に進めているからそういうことができるんであってそれはむしろ滅茶苦茶に考えているという証拠ではないのか。
石川先生はインタビュー等を読んでも私には、「地頭のいい人の『自分は考えてない』は普通の人間の数倍考えている」みたいな印象を受ける。
御本人の事は一切知らない(そもそも石川作品読み始めたのだって3年ほど前からである)から、私が知り得るのは「本人が作家として見せている部分」の更に一部だけだが、言う言葉もとても選んでいるし、私には到底ああいう話し方をし、ああいった物語の論理筋を組むような人が「考えていない」なんて思えない。
打ちきりが多い
そういえばこれもよく聞くけど、少々誤解に近いと思われる。元々の作数が膨大なので、そりゃ数はあるが。
魔界転生や纐纈城はそもそも「初出が単行本」なので、最初からああいう終わり方で少なくとも作者にとっては描ききって完結しているのが明確だし、70年代のテレビとの平行連載は最初から一年とか期間がわかっていたはずだし、それ以外は打ちきりではなく雑誌休刊が多い。
私は24年11月現在、石川作品はeBooks電子書籍配信のある43タイトル計90冊(これでも配信されていないものはまだある)ほどに目を通しているが、純粋な打ちきりは10タイトルあるか無いかくらいと思われる。
代表的なものでも
「ゲッターロボ」シリーズ→號できちんと完結してる(石川先生もその認識だった資料が存在する)。「アーク」は雑誌休刊(やりたかったことは描いた旨の発言が存在する=少なくとも石川先生にとってはあそこで一区切りはついてる。後述するがあの終わり方はいつものと言えばいつものであって何ならあれで完結になっててもおかしくはない)
魔獣戦線→雑誌休刊
MIROKU→完結してる
魔界転生→初出単行本で打ち切りも何もある筈がない
どうもフットワーク軽く描けるものは引き受けていたっぽい様子でもあり、雑誌の始動や建て直しの時期に連載を持つ事も多いため、結果として雑誌休載の憂き目にも多く立ち会われていたような節がある。
打ちきりの誤解のひとつに「終わらない戦い」のラストがある事があろうが、大体なんで「終わらない戦い」に多くの作品がなるのかって、それも石川先生の論理筋がわかれば「そうなるしかない」のも理解できる。
石川先生が描き続けたものの根っこにあったのだろう「個人主義」というのはその論理上、多様性を肯定する。そして「寛容のパラドックス」が付きまとう。
それは善もあれば悪もある世界であって、そうである以上、心ある人は弱者を虐げ理不尽に暴虐を振るう悪には抗い続けるって単にそれだけではないだろうか。
「争いの無い世界」は理想ではあるが、現実的に考えれば「多様性」を前提に個人の自由や権利や尊厳を尊重すれば、相互干渉する部分が発生し対立は避け得ない。
「自他の権利や尊厳を尊重しなければならない」という現在の一般的価値観すら、ここ100年にも満たない戦後の産物で全生命が共通して持ちうるものではなく、また、多様性を尊重するならば尚更に「利己的な存在がこの先生まれないことなどあり得ない」。
行為としての善も悪も他者の尊重も排除も、思考の多様性の結果でしかないのである。
そういった考えから見れば、一切の争いが起こらない世界とは何らかのひとつの価値観で全生命が統一╱支配╱洗脳されたディストピアという側面はないだろうか。
そこに個は存在しない。
「個」を維持するためには生命は対立から逃れ得ないとするなら、あの終わり方は単なる論理上の必然ではないだろうか。
70年代から00年代まで、30年間100冊近くも通して描いていることはいつも同じで、あんなにわかりやすいのになにをどうやったらそんな感想になるんだ、というものがネット上には散見されるが、そもそも「これはこういうもののはずだ」という思い込みでものを見ていないだろうか。
石川作品に限らずダイナミック作品は「本当にそうであるのか疑え。自分で考えろ」と結構頻繁に作中描写から読み取れるのに、他人(ダイナミック公式未監修派生作品も含む)の評価や感想や解釈鵜呑みにして読むこと自体があまりに皮肉だ。
(ダイナミックプロ作品に限らないが)作品や作者の権威を利用して自分の好き勝手言ってる、それこそあれらの作品内では悪以外の何者でもない行いをする人間も世を見れば数多い。(ついでにいうけど「事実╱データ╱数字は嘘をつかないが、自分を正当化したいやつはそれらを使って嘘をつく」ものである)
私がずっと書いている一連の記事もそうで、私にはそう見えているし、そう考えているが、これらはあくまでも「私の考えと私の言葉」であって「これを読んでいる人間の考えでも言葉でもない」。
人間というのは私たち自身が思っているより酷く単純で、何となく思っていたことを言語化されたような気になると、何だったら自分の願望を言語化されただけで無思慮無分別に同意してしまいがちである。(陰謀論や似非科学がいつの世も蔓延るのはそれなりの理由があるだろう)
記憶は都合よく美化されるものであるように、それが本当にそう思っていたのかすら後から変わってしまうものだ。
私はそう考えているから、鵜呑みにしてほしくなく(よほど腸煮えくり返ってる時以外は)論拠などの「考える材料」も提示しているつもりだ。不十分かもしれないが。
どのような人であっても、本当にそうなのか、それは自分の意思であるのか、自分で確かめ、よくよく考えてほしいと願っている。