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漫画版「ゲッターロボサーガ」考察~「理性」の結晶たる「真の愛」の物語

東映版に引き続き、漫画版の考察まとめ記事となる。正直に言えばこの話筋は東映版の裏の話筋が見えたことで確信を持てた、という話であって、普通に資料がなにもない状態で読んだとて後述する結論には辿り着ける。考察というより単にひとつの読み方とあらすじである。
しかし漫画版「ゲッターロボ」、ひいてはダイナミック作品自体に多大な誤解と誤情報が蔓延している現状から、明文化して残しておこうと思う。


【はじめに~ありがちな誤解と真に描きたかった対象】

「ゲッターロボ」というと「ゲッター線」に注目されがちであるが、実の所「ゲッター線」は東映版はおろか漫画版においてすらも大きくなってしまった「舞台装置」にすぎない。

最初から設定として存在したものの、クローズアップされるのは漫画版では號も終盤以降となることに顕著で、最初から重要視されていた訳では全くない。
東映版においても一話から「恐竜帝国は当然弱点であるゲッター線対策は行っていた」ためにゲッタービームが通用せず、その為に「先に物理攻撃で装甲を壊してから」ゲッタービームを撃つという「決め技にするしかなかった」のだろう事が伺える。

ゲッター線は作中の設定においても一種の放射線(高エネルギーの電磁波の総称である)であり、放射性物質の放射能をモチーフにしているが、これは戦争における核兵器と共に、1970年当時の環境問題、公害問題などにも密接に結び付いていたものでありその時点で示そうとしていたものは想像に難くない。(特に東映版では1話に終戦前後から研究を重ねていたと取れる早乙女博士の台詞があり、人体に無害のクリーンエネルギーと強調されている。元々原子力は核兵器の開発が先にあり、後から「原子力の平和利用」として原子力発電が行われた歴史が存在する。この流れを思い起こさせる描写ではないだろうか。74年当時は大規模発電所事故が起きる前で、危惧はありながらも期待が高かった時代でもあろう)
とはいえ、號も終盤に至るまでそれ以上でも以下でも無かった。ならば石川賢という作家が描きたかった「ゲッターロボ」の話筋の中核はそこではないはずである。

では、一体何を描いていたのか。

【漫画版「ゲッターロボ」表の話筋】

そのうちのひとつ、「ゲッターロボ」という作品における表筋の核が「三つの心」であった。

「死ぬときは一緒だ」という誓いの元、戦場に立った若者達三人が「生きる権利」(一方的な侵略により人類は生きる権利を奪われそうになっている)や「人間の尊厳」(生存権に留まらず、大雪山では人体実験という命をモノとして扱うような所業、魔王鬼などでは洗脳=強制、操作されることの残酷さ、自分の体を好き勝手に使われることへの怒りを描いたのがアトランティス編であるし、號に入っては国籍と性差によるレイシズムへの抵抗がシュワルツ関連に描かれる、クローン武蔵やエンペラーというコピー存在では個の唯一性を問うていよう)のために生き足掻き抗い戦う。
こう書けば號までその話筋は変わらなかったと理解できるのではないだろうか。

「ゲッターロボ」という作品は「人間」特にその「心」「理性」を主軸とした物語である。
枠を変えただけの上から目線の選民思想
(恐竜帝国、百鬼帝国、ランドウ、シュワルツ、アンドロメダや未来人類、果てはある側面ではゲッター線までも、一時にも「敵」となった「悪」全てが持っている)で、理不尽にも弱者の命や権利を奪おうとする「悪」への抵抗の物語。
「個性ある三人の若者が主人公である」という部分とずれの無い、他者を尊重し、その権利を、尊厳を認め、正しく「個人主義」であるための、「協調」をなすための道筋の闘争。
(そのため、最終的には「互いを尊重しての共存」へ繋がる終わりとなる)

そして同時に「戦争」の残酷さ、不条理、そこにある犠牲を、命の重さを描き続けた。
「戦争」である以上、敵だけではなく味方も死ぬ。それらを正義といって正当化してはいけない、その犠牲はあくまでも自分の意思で戦った結果であって、国家等と言った大義のために戦い死んだと美化してはいけない(同調圧力や国家からの強制となれば全体主義などに繋がってしまう。命を軽視し目的のための部品として扱ってはならない。第二次世界大戦における自国の悲劇を繰り返してはならない)。
だからこそ、達人から始まり武蔵や竜馬や號といった人物たちは自らの意思(他人が促したり示唆する描写すら一貫してそこにはない)でその選択を行い犠牲となり、それを淡々とそこにある事実として描き続けた。

これらのテーマ性に関しては、東映版とも基本的に共通するものであり、なぜそのような題材を主軸としたかには1974年という時代背景が密接に関係していただろう(東映版の裏の話筋と共に記載している)。「ゲッターロボ」である以上、石川先生には永井先生を始めダイナミックプロのスタッフや東映側スタッフと共に作り上げたGまでが後年においてもその基本であっただろうことも推察される。

【「理性」とはなにか】

ここにあげた「理性」というキーワードは「ゲッターロボ」のみならず、石川作品、ひいてはダイナミック作品全体において重要である。

理性
物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。美と醜を識別する働きさえも理性に帰せられることがある。それだけが人間を人間たらしめ、動物から分かつところのものであり、ここに「人間は理性的動物である」という人間に関する古典的定義が成立する。

理性ーコトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ) 「理性」の意味・解説 

しかし、その意味や解釈は多岐にわたるであろう。知識、知性、思考、人格、自我。「人間」の定義すらいまだ曖昧な私たちはそれに共通する答えを持ってはいない。
「人間を人間たらしめるものとはなにか」
これに「理性」と答えたのが永井豪先生の「デビルマン」であった。そして、石川先生もまたそうであった。

ヒト種であっても「理性」の無い、失った存在には「悪魔」や「獣」、それに類いする言葉を使用することに顕著である。
そしてこの「理性」を石川先生は数多くの作品の中で、共通の背景でもって描き続けた。
「理性」とは「思考すること」特に「他者を考える」こと、極限まで簡単に言ってしまえば「他者を思う心」である、と。
「本能」というものが基本的に「生物が生きるための欲求」「種が生存するためのプログラム」であり、自己中心的、利己的なものであるならば、それを制御する「理性」とはその対極にあるはずでもある。
他者を自分と同等の存在と認め、相手の命や権利や尊厳や意思を尊重する。それは確かに「他人を考える╱思う」心であると言い換えることができよう。

ゆえに一口に「愛」と言っても石川先生の作品では二つの「愛」が明確に描き分けられた。
自分本意の愛
→恋愛、性愛といった自己の欲を中心とする、本能により近いもの。時として自分の欲や意思や都合だけを押し付け、相手を支配、隷属しようとすらする自己中心的な愛。表面上だけの「つもり」の愛。奪う愛。同化願望という本能とも言えるかもしれない。(例:號冒頭の教師、アークにおける拓馬母)
他人本意の愛見返りを求めずただ相手を尊重し思う、理性の極致としての愛。性欲や恋愛とは一線を画し、度々相手のために自分の全てを与える「自己犠牲」となって表現される「真の愛」。与える愛。(例:魔獣戦線における慎一の母親や真理阿、魔界転生のお品)
実はこれがわかりやすいのが「極道兵器」の岩鬼の描写で、どうでもいい女には気軽に手を出すのに、本命であろうなよ子には手をつける描写がない。ギャグやコメディとなると途端に「笑い」の最大公約数であるためかエロネタと下ネタとパロネタまみれの下品な内容となる作風でありながら、どの作品でも通して「この人物は本当に相手を愛している」とする場合には相手を尊重し、きちんと思いやる描写を一度は入れているのだから石川先生は生真面目なことである。

シリアス筋にある石川作品はどの作品でも一貫してこの「理性」を描き続けた。物事の善悪、真偽を判断する能力でもあったためだろう、これが強い人間ほど「怒り」という感情の発露、爆発となり、虐げられ踏みにじられた弱者達の「怒りの代弁者」としての性質も強く持った。
この「怒り」「理性」は同時に悪に対するエゴでもある。
個を尊重するために打倒しなければならない悪は明確に存在するが先の定義から言えば敵のことを考えなければそれは紙一重のものでもある。(ここに筋を通すために基本的に専守防衛、やられてからの反撃であったし、ゲッターロボでは無印の恐竜帝国の最後に分かりやすいが侵略する意思や力がなければ見逃そうとした)
怒りが極限まで高まった場合などに理性が薄い瞳の描き方になるのはこれを指していたのかもしれない。

そして「ゲッターロボ」においては、同じく「理性」の別側面「合理的思考」を別の人間が明確に担当した。前述した人物が「発散」「理性をベースにした感情」「能動」、この人物が「抑制」「合理的判断」「受動」という分担である。
1号機乗りが「熱い理性」の権化なら、同様に2号機乗りもまた「冷たい理性」の権化である、という。(なお、3号機乗りは本能に寄っていて最終的には一号機乗りと似た性質を持つ)

【漫画版の話筋に至る情報】

竜馬と隼人は初期設定を入れ換えて成立している「正反対の同一人物」である

ブックレットから判明した元シナリオ部分を読むに
東映版においての竜馬の「たった一人、愛する人」は隼人であった。また、裏の話筋は「竜馬が無自覚にもひたむきに隼人へ向けた愛情の話」であった。

これらの情報から、初読から思ってはいた漫画版のひとつの読み筋(先の「表の話筋」もそうだが、テーマ性としては集束する複数の読み筋が用意されている)が明確となった。
以下はその「流竜馬を明確な主人公とした時のゲッターロボ」の話筋となる。
(野暮と言えば野暮なのだが、この一連の考察記事事態、誤情報と集団幻覚ばかりのネット解釈に辟易して、きちんとした事実関係や私が読んだときにはそんな話ではなかったと明文化し、記録するためのものである、長くはなるがご理解いただきたい)

【漫画版ゲッターロボの「流竜馬の物語」としての話筋】

《無印》

「強くなることこそが男の生き方だ 武道こそが男の人生だ」という価値観のもとに生死をもかけた厳しい父親の教育を受け、その価値観を自ら納得して選択していた流竜馬(リョウ)は同時に強固な「理性」を持つ少年であった
彼らがそうして目指した「強いものに勝つ」為の武道は理解されず空手界からは悪評を流され道場も立てられず、父親は道場破りとして不名誉を被ったまま亡くなる。
その怒り(空手界が流家をやっかむばかりで相手を考えなかったためのもの)でもって殴り込んだ大会で父親の敵討ちを成し遂げ自宅へ帰った竜馬は既に日本の武道には自分達の目指したものはなく、武道を立て直すという目的も失い、自己の存在意義が失われたことを嘆く。
竜馬が敵討ちに大会へ乗り込んだことで、恐竜帝国の侵攻を予期してゲッターロボを製作、そのパイロットを探していた早乙女博士が目をつける。強靭な肉体とおそらくは何よりも「強い意思」これから起こる「戦争」のただ中で死を目前にしても、理性をもって戦場で抗う事のできる若者を博士は求めていた
殺されるという状況下でも生き抗い戦う事ができるかを確かめ、ようやく求めていた人物が見つかったと博士は研究所へ竜馬を連れ帰る。
唐突に研究所に連れてこられ、なんの説明もないままに博士から訓練を「命令」された竜馬は反発する。しかしここでついに恐竜帝国が研究所を襲撃、ミチルの兄である達人が「操作」され、「一度敵と認識したら躊躇うな」という非情になるしかない戦場での心得と共に、自らの息子をもそうして手にかけるしかなかった博士の悲哀、恐竜帝国との人類の存亡をかけた戦争が始まったことを竜馬は知る。
竜馬の目指した武道とは「強いものに勝つこと」であった。
命をかける覚悟も存在し、その力もありながら、戦う場所を失っていた竜馬はここで自らが戦うべき場所を見つけ、早乙女研究所でゲッターロボに乗り「自分たち=世界」のために戦うことを決意したのだろう。

ゲッターロボは三人いなければ動かせない。二人目のパイロット候補として博士に目をつけられたのが神隼人だった。
学校の不正を契機に立ち上がり、学生運動を率いてついには校舎を勝ち取ったIQ300の天才。
竜馬は何故か、この神隼人に(恐らく写真を見た瞬間から)ある種の執着をした。まるで一目惚れのように。自分の魂の片割れだとでも言うように。

竜馬と隼人は設定を入れ換えて成立した「正反対の同一人物」である。この同一人物性はサーガ版の他に、同じく石川先生が描かれていた学年誌版、劇場版コミカライズ、また原案を同じくする東映版と東映劇場版があったため、二人に同じ共通項や記号(例えば色違いの服装、同じ表情やポーズなど)を持たせる他、各種媒体での片方の言動を異なる場所でもう片方で行うという形でも多く示された。
(リアルタイムに複数媒体で目にしていれば尚更に)自然イメージとして「竜馬≒隼人」である、二人は特別な関係性にあるとして刷り込まれる、そういう描き方である。
サーガ単体で読んでいる場合にはプロットまで落とした状態で比較すれば同じシーンを与えられていることにも気付くだろう。しかしその描き方がそれぞれできちんと成立し違和感も少ないことから意識的には気付きにくくなっている。

自らの運命の片割れを見つけた竜馬は機嫌も上々に隼人を迎えに校舎へ出向いた。早乙女博士から「おまえに隼人を連れてこられるかな?」と挑発らしいことを言われたとはいえ、(彼には珍しいことに)相手の意思はどうあれ最初から自分と同じ地獄に引きずり込む気満々だった。(後の武蔵への対応とはまるで違うのはこのため)
負ければ即人類全滅となる種の存続をかけた生存闘争は既に始まっている。彼らに手段を選んでいる余裕などなかったとはいえ「口べたのおれが口でくどこうなんて」などという台詞が出てくる程度に物理的手段を持ってしても落として連れ帰る気(拉致誘拐でしかない╱キルギスの誘拐婚かとフォロワーさんが仰っていたことがあったがあながち間違いではないのだろう)満々だった。

神隼人は高い知能と身体能力を持ち、それにみあう教育を受け、不正のために立ち上がるだけの正義感と闘争心を持つ現代的で理性的な人物であった。(子供の頭を撫でたり、多くの人間から慕われる描写も後にあるため、内実は東映版でもそうだったように繊細で優しい人物であっただろうとも推測される)
そして、その育ちゆえに「死を目前にする」事がそれまでの人生に存在しなかった。
社会のためとはいえ理想を達成するためにテロという誤った手段を取ろうとしていた(目的は手段を正当化しない。悪は悪である。これに関してはこのシーンは何をオマージュしていたかがわかれば明確であるが、別記事にしようと思っている)彼はその時点で罪や「自他の死」を目前にし背負うことを覚悟はしていても、実際にはこの時がはじめてであったのだろう。
「狂気」を装いながら、覚悟の足りなかった「自分で考えずただ流行に乗っただけの」生徒を粛清する表情は鬼気迫るものがある。先回りしてパイロット候補である隼人を殺そうとした恐竜帝国兵士に校舎が強襲され、仲間は無惨に殺され喰われ(ハチュウ人類は人を家畜かなにか程度にしか見ていないという描写でもある)、竜馬とは異なり恐慌状態に陥る。このことも彼はこのような状況下におかれたことがなかった、死が遠かったということだろう。恐怖で理性が吹き飛びながらも彼は必死に抵抗した。
この訳もわからないまま殺されかかる中で生き足掻き抵抗する姿(理性の有無の違いはあれど竜馬のスカウトと同じである)を見た竜馬は言わばボンボンだった彼のはじめての「死闘」に称賛を送り、いまだ混乱する隼人とメカザウルスによって崩れる校舎から脱出する。
負傷した隼人を気遣いつつ背負いながら逃げる間に、博士がメカザウルス╱人類世界への侵略に対抗するための唯一の武器、ゲッターロボを持って到着し、竜馬は隼人を無理矢理ゲットマシンに詰め込む。

「おれはいやだ」「なんでおれがこんなことをしなきゃならないんだ!!」
「うるせぇっ てめえもおれも早乙女の鬼に見込まれたんだ!!」「運命だと思って覚悟するんだ!!」

電子書籍版「ゲッターロボ」1巻 167頁

この時点で竜馬はさっき会ったばかりの隼人を運命共同体認識して有無を言わさずゲットマシンにぶちこんだ。(ここの隼人の反応も強制されることへの反発=研究所に連れてこられた竜馬と同じ)

隼人からすれば散々である。確かに社会という大枠のために罪を背負い自他の死を天秤にかけても戦う決意をしていた彼だが、流竜馬によって半分拉致誘拐に近い形で更に根本的な種族の生存という一大戦争の地獄に引きずり込まれた。生々しく迫る死に恐怖し、ゲットマシンでもいきなり命がけのジェットコースター状態で醜態を晒した。(この一連の醜態=人間らしく脆弱であった部分、理性を無理矢理引っ剥がされた生身を見ているのは竜馬だけでもある)
しかし竜馬と博士との会話、姿を表した地底魔王ゴールの言葉で状況を理解し受け入れ、死の恐怖を乗り越えて命をかける覚悟をしここで世界のために戦うことを決意する。

恐らくはこの時点で竜馬と隼人の二人は互いを運命共同体に近いものと認識し、共に死ぬことをも覚悟した。隼人の心が広すぎないかとは思うが元々物わかりが良く、竜馬とは運命の片割れじみた間柄にある人物である。以降竜馬が度々重い感情を隼人に向けるが、隼人はそれを「受容」する形で無言のうちにもこの二人の絆は深く、同じように思っていると示された。
漫画版真での隼人が「運命を受け入れる」人物像で、その枠の中で抵抗を続けるという描写に続くものでもあっただろう。
そして竜馬は隼人という「愛するもの」を見つけた。後の描写を含めれば自己の存在意義を嘆いていた孤独な少年はここでなんのために戦うのかを見つけたとも読むことができよう。

こうして二人目までが揃ったが三人目はなかなか見つからなかった。早乙女研究所で暮らすようになっていた二人はミチルも含めて早々に打ち解けていた。
そんな中、北海道での異変を契機に竜馬は巴武蔵と出会う。この三人目となる武蔵は竜馬とは良く似ていた(その示唆として登場話でのこの二人は髪型や表情が似せて描かれている)。ライフラインなど存在しない大雪山に一人で半年こもり生き延びて、襲われた猿を返り討ちにして手下としていたのが武蔵である。「強いものを倒す」「強くなる」事を目的としていた竜馬の父親の価値観に似たものを持っていた。(核が似ていた)
しかし武蔵は言ってしまえば他の二人よりも自己中心的で理性が薄かった。怪我をした竜馬と二人三脚状態でイーグル号に乗った武蔵は、恐竜帝国の残酷な人体実験などの非道も目にしながらも、真剣な空気の周囲を尻目に一目惚れしたゲッターロボに夢中になり、三人目のパイロットになりたいと頼み込む。
テストの結果、能力も足りていなかった武蔵は二人に冷たくあしらわれる。
何故竜馬と隼人が武蔵を認めなかったのかと言えば「自分達と同じように厳しい戦場で自分だけではなく他人ものために命をかけるほど真剣であると思えなかったから」だったろう。これは遊びではなく人類の存亡をもかけた戦争なのである。
実際に博士をだまし嘘をついて(自己の正当化であり自己中心的である描写╱ただし竜馬と隼人が17才にして人間ができすぎていただけの話であって、武蔵も素朴な正義感などを持った年相応の少年である)ベアー号に武蔵が乗った状態で一か八かクラゲに突入する、はじめて三人で命をかけるとなった時、隼人は即時腹を決めたが武蔵は違った。涙目で惜しむような様子を見せる。
結果として武蔵の体の丈夫さで彼らは生き延び、武蔵は三人目のパイロットとなった。
恋したゲッターに乗れるとなって武蔵は上機嫌で周囲の迷惑も省みず深夜まで歌い竜馬に怒られる。
この際隼人へ自分が引きずり込んだにも関わらず「自分達は同じ境遇」だと竜馬は語る。そうだと信じて疑っていないようだが、確かに何重かの意味でこの二人は同じで、武蔵だけが違っていた。パイロットは三人揃ったが、「三つの心」は揃ってはいなかった。

そしてひとつの契機となる大きな事件が起きる。
早乙女研究所が今度は地リュウ族に襲撃され、武蔵は重傷をおい、博士もゲッターロボに乗ることができなくなってしまった。いよいよ万事休すの状態となり、竜馬と隼人は全員を地下に逃がす。この際武蔵がゲッターロボに乗ろうとしたが全員で止めて一度追い返している。
そして、隼人にも先に行けと言い残し、竜馬は一人でイーグル号に向かう。
死ぬ覚悟ができていない武蔵と、守りたかった隼人を置いて。

(特攻しようとした竜馬に賛辞の言葉をかける敷島博士にドン引く描写をここに入れることでその美化を防ごうとしている)
しかし、それは隼人に理解されていた。共に死ぬ覚悟をしていたのに置いていこうとした竜馬を一度殴る隼人に「おまえも来ると思ったよ」と(やはり根拠もなくそう思っているし実際にそうである)返し、ここで二人ともが思いもよらなかった人物が「そのけんかにおれもまぜろ!!」と入った。
重傷で立っているのもやっとの武蔵である。

「死ぬときは一緒といこうや」

電子書籍版「ゲッターロボ」2巻 212頁

竜馬は本当は二人を巻き込みたくはなかった。死なせたくなかった。特に武蔵はここに至るまで他の二人と、ゲッターロボと共に死ぬ覚悟まではなく、自己中心的な振る舞いをしてきた。その彼が、これを言った。
自らの死を覚悟して、他の二人もそうであることも理解して。
腹を括った三人で出撃し、夜明けと共に全員生き延びて勝利する。
ここに「三つの心」は揃ったのである。

言ってしまえば「理性」が薄く、「世界への愛」も薄かった武蔵は徐々にそれらを知っていった。ゲッターロボに一目惚れし、ミチルに恋をし、仲間と絆を作った。
そんな中、メカザウルスの襲撃により、竜馬が行方不明、同時に百鬼帝国もその姿を現しはじめる。竜馬は鬼の手により生存はしていたものの記憶喪失となった。
敵に命じられるまま早乙女博士を襲い、その様子に隼人は「リョウじゃねえ」という。これは自分で考えていない=理性を失っているために「中身が違う」という意味もあっただろう。
病院からの救出劇では隼人がリョウと名前を呼び、攻撃され苦しんでいる様子に竜馬は意識も曖昧なままそれを助け、校舎の時のように再び隼人を背負って脱出する。記憶が戻ってすらいないのに。
竜馬は生きていたが恐竜帝国の総力を挙げた侵攻は間近に迫っていた。焦燥感に駆られながらも思い出せない竜馬はゲッターロボに乗ることができない。
武蔵は博士に会いに行った先で、秘密裏に開発されまもなく完成するという新ゲッターロボ(ゲッタードラゴン)を見つける。これさえ完成できれば。あと一日あれば。しかし彼らに残された時間はなかった。
そして、武蔵は決心する。

巴武蔵のキャラクター造形は、三人の中で一番第二次世界大戦をモチーフにしたことが分かりやすい。武蔵、学ラン、柔道、日本刀、剣道の防具。しかしその彼は同時に一番「お国のため」「世界のため」などという精神からは程遠かった。
良くも悪くも幼い部分があり、自己中心的で無邪気だった。
その彼がこの行動を取るということは「彼は誰の意思でもなく、自分の意思で世界を愛し、自分の意思でそれを選んだ」という意味合いが強くなる。
あの三人の中で一番生きたかっただろうのに。
全体主義(個人の自由や社会集団の自立性を認めない)、特攻や戦争の賛美などでは断じてない。武蔵は自分の意思で、自分が愛したもののためにその命をかけた。だからこの一連のシーンは、この作品全体は戦場にある残酷で凄惨な事実だけを淡々と描き、美化に繋がることも描かなかった(因みにアークの拓馬母が竜馬を英雄として美化し「お国のため」と口走るのは少なくとも「彼女は竜馬を理解していない」描写である)。

愛したゲッターロボ(ここでも「兄弟」という言葉が使われる。「友」とそれに類する言葉に並び、真に愛した存在に向けて作中使われる傾向がある╱真の愛とは恋愛や性愛ではなく家族愛や友愛がベースであるという解釈にも通じる)と共に死地に向かう武蔵の姿は「竜馬の写し身」でもあった。
「三つの心」が揃ったあの日、本当なら竜馬は一人で(愛した隼人と二人で)死ぬつもりだった。状況としては同じである。
だからあの時の武蔵はマフラーという竜馬(と隼人)の記号を身に付けているし、その最後は武蔵であるゲッター3ではなく、竜馬であるゲッター1でなければならなかった。(ゲッターロボは各形態=メインパイロットで漫画版マジンガーと同じく身体の拡張としての特徴が強い。機械ではなく肉体なのでその描写は生々しいものとなる)
あれは武蔵であり、竜馬だった。
だから武蔵からは「目を覚ましてやる」という台詞になるし、竜馬は「許せ」という慟哭になる。

「おれが……おれが……記憶さえはっきりしていれば…… おまえを殺さずに……」
「ムサシ!!」「許せっ!!」

電子書籍版「ゲッターロボ」3巻 214頁

本当は、あの場面で死ぬのは竜馬だったのである。
その武蔵の凄絶な最後を、あの日の自分の姿を見て、竜馬は記憶を取り戻す。

一方の隼人はここで一度「裏切られた」。
死ぬときは一緒だと誓ったはずの、それを言い出した当の本人である武蔵が、自分を置いて行ってしまった。「ひどい」「自分もゲッターと一緒に死にたかった」これらの言葉はその前提があるから出た。

「甘ったれるな 君にはもっと残酷な未来がある」「だからこそムサシ君はあとのことは君らにまかせて行ったのだよ」

電子書籍版「ゲッターロボ」3巻 192頁

早乙女博士のこの言葉が示したように、神隼人はこのあとも、信頼した人間に次々と先立たれる。その犠牲を背負って戦い続けたことが漫画版真での竜馬との会話へと繋がっていく。
また彼は「打倒独裁者」(校舎のバリケードに書かれている)を掲げて世の不正に抵抗した人間で、彼に与えられた役割は「公平」「平等」をベースに、性差や年齢、国籍を含めた様々なものに差別せず、自分の命すら同じ天秤に乗せて「感情を抑制し、合理的思考でもって人類存続という目的のために現状の最適解を出す」ことにあった。
そのため、他者を尊重し、命を尊重するこの一連の話筋と齟齬が起きないよう、自分の選択による結果と責任、その全ての命をひとつひとつ背負い戦い続ける人物像として後年まで立脚したとも考えられよう。

実は「ゲッターロボサーガ」には二回の終幕がある。
そのうちのひとつがここであった。
上記のように連続して続いていたストーリーは「世界や仲間を愛してその命をかけた武蔵の死(とその敵討ち、恐竜帝国の顛末)」と共にここで一度幕を引く。
ここまででわかるように、この三人は三人ともが主人公であり「別人でありながら竜馬をブリッジとしてほぼ同一人物」でもあった。三つの心を揃えたひとつの機体(肉体)がゲッターロボである。それにも相応しい構成であった。漫画版でもここまでの内容と初代チームが注目されやすいのは(半ば無意識的に刷り込まれる)この完成度の高さもあったことだろう。

《G》

新たなパイロット車弁慶(基本的に武蔵に似た人間性を持つ)と新ゲッターロボにより恐竜帝国はマグマ層へ撤退したものの、新たな敵である百鬼帝国との戦いが続けられた。
何らかの事情があったものか、ここでは独立した短編エピソードを積み上げる形の連載となる。全体を通した話筋ではなく、竜馬の心境などはここまでに解説したもので概ね事足りるであろうと考えるため、以下は個人的に目立って印象に残った部分についてである。

現在の単行本では切り替わりの一話目にある魔王鬼エピソードは、自分の意思と思いながらもその弱さ、確固たる自我と理性を持てなかったことにより揺れる竜二の存在が大きいが、この竜二はその竜の字と初期設定における犬神隼人に近い外見特徴から「もう一人のリョウ」であったと考えられる。
だからあの話は隼人を中心に巡った。もう一人のリョウたる竜二もまた隼人の存在を欲したのである。
しかし彼らは互いに対等であり、親分と手下のような支配構造を望んだ訳ではなく、相手の意思を尊重したがために誘拐してもその扱いは丁寧だったし洗脳支配することを拒んだ。
そして「リョウ」であるなら同時に「隼人」でもあろう。

隼人「奴らをここまで追い込んだ責任は……おれにあるのかもしれん…」「おれかも…… しれん!!」

電子書籍版「ゲッターロボG」1巻 91頁

その結末は鬼による残酷な悲劇であった。

「ゲッターロボ」は「個人の尊厳」を描き続けた。ある種の選民思想の元に帝国を名乗り支配者を気取って、他者の命を奪い、物として扱い、強制、洗脳、操作、支配、差別といった他者の権利を奪い蹂躙する敵への抵抗と闘争を描き続けた。
同時に個性に代表される「個の唯一性」も描いた。
その本質を内面、魂=理性におき、上部だけ取り繕ったものはその存在ではないと、魂を失ってしまったものはその存在ではないと描いた。人の命には代わりなど存在しないと描いた。

「隼人 死んでくれ こいつらに体を自由にされるならそのほうがましだ」「おれたちもすぐいくぜ!!」

電子書籍版「ゲッターロボG」2巻 153頁

脳を取り替え健康な体を手に入れようとするアトランティス人に抵抗して自決しようとした隼人に竜馬が叫んだ言葉である。
竜馬にはその魂が失われることが、隼人の姿をした別のものに存在されることが、それ以上に隼人の尊厳を蹂躙されることが耐え難かったのではないだろうか。

アトランティス人という滅び行く種族の悲哀を見届け、百鬼帝国を壊滅させ、大きすぎる力であるウザーラを宇宙へ見送って「ゲッターロボG」は終了した。

《號と真》

1976年にGが終了して15年が経過した。
紆余曲折の末に再び「ゲッターロボ」を描くとなり、石川先生は「とある理由」から隼人を漫画版に出すことにした
おそらく東映版號もまた原案を同じくはしていたが、石川先生には「ゲッターロボ」といえばGまでがあったので、その延長線として描くこととしたのだろう。前作漫画版と同様に前作東映版を重要視していたのだろうことは漫画版真に至るまで東映版のイメージ等を汲んだエピソードが散見されることからも伺える。
(これには「そもそもゲッターロボはどのように作られ、何をベースにして描いていたのか」が深く関係するがここでは触れない)

竜馬と隼人は「正反対の同一人物」である。
無印Gでは漫画版と東映版にまたがって様々にそれを表現してきたが、しかし、原案を同じくはしていただろう東映版には竜馬も隼人も存在しない。漫画版には隼人が出ることとなった。
ここで石川先生は隼人=竜馬である、ということを示すために隼人に竜馬の傷を持たせた。
そして東映版號の原案時点でも達人の翻案であった信一を號チームではなく、竜馬を隼人に置き換えてのエピソードとして組み込んだ。

竜馬を號に、早乙女博士を隼人に入れ換えての序盤のエピソードは、同時に一文字號が竜馬に近い人物であることを示してもいた。(プロットまで落としたエピソードとそこでの反応の一致の他、「闘犬」という東映版で竜馬と弁慶にかけられた言葉が號に使われていることもそうであったかもしれない)
この號の記号を持つ人物は言えば「現代適応した竜馬の血筋」にあったのであろう。(現代や近未来を舞台とした作品では號のお顔の人物が主人公に据えられることが多く、竜馬のお顔は時代物の主人公に多く使われる)
竜馬の魂の息子と言っても良いかもしれない。彼らの年齢を考えても初代チームが戦わなければ生まれていなかった、ここに存在していなかったであろう子供達。
そして隼人に半ば育てられた存在、直系として翔(隼人に寄せて描かれていることも多い)が、ゲッターロボを愛した武蔵の系譜として凱が描かれ、ここに新しい「三つの心」が揃い「ゲッターロボ號」は始まった。最初のリスタートである。

念のために記載するが、ここでの血筋や系譜というのは言わば魂の親子的な(ミーム╱情報子を継いだ)存在であって、彼らの個性は明確に初代チーム達とは別に成立している。「個」を軸に描いていた作品でもあるのだから当然だが。
よって彼らは初代チームとは同一人物ではないし、一号機乗りを全員チンピラ解釈して個性を殺す(個の唯一性を軽んじる)などもナンセンスである。

ランドウはおそらく百鬼帝国がスライドした存在に近かった。ゾンビサイボーグなどは大全Gに掲載のある無印からGへの移行初期案からのものではないだろうか。そのため、東映版Gにおけるラストエピソードはランドウに対する過去として翻案され、後年の追加エピソードではブライにランドウに近い過去(元は人間であり、超科学力によって力を得て支配者と増長した存在)が与えられた。
初代チームの系譜を継いだ新しいゲッターチームによる物語は、ランドウが明確に「人間」であったことも関係してか、それまでにあったオブラートが剥がれることにもなった。
異種族間での生存闘争ではなく、人類同士による「戦争」の面が強くなり、国籍や性別からの差別に対する抵抗もシュワルツという存在を通して描かれた。

そして東映版終了を前に、漫画は漫画で完結させようと決まる。
「ゲッターロボ」を完結するためには、石川先生は「竜馬と隼人の物語」を完結させなければいけなかった。
同時にその構想を練るうちに「ゲッター線は絶対悪である」と考え始めた。
ここではじめてゲッター線が表舞台に立ち始めたのである。(しかし話筋に重要となるのは主にアークでの話となる。ゲッター線がどのような存在で何故「絶対悪」であったのかについては漫画版アークの考察記事に記載している)

石川先生の中でゲッター線の解釈が広がった背景については別で考察を上げているが、最初に記載したように元来ゲッター線のモチーフは放射能、原子力(=兵器運用した場合においては核兵器にもなろう)である。これを踏まえれば竜馬と隼人の会話の深刻さや、竜馬が最後までゲッターの使用に反対していたことも理解できよう。

竜馬の再登場となり、竜馬の顔には隼人と同じ傷をつけ、出会いである校舎エピソードを人物を置き換え(順番は前後するものの)喧嘩も含んで再び描き、彼らの同一人物性と二度目のリスタートであることを描いた。
(竜馬と號の喧嘩も、竜馬と隼人の二度の喧嘩も全て敵の襲撃により決着がつかないが、彼らは同格で対等にあるため、勝敗や優劣をつけることを石川先生は避けたのではないだろうか)
同時に號が指摘した「一緒に死んでくれということか」ということには一切触れない会話内容などで二人は言葉にせずとも理解しあっている、深い繋がりのある関係性だと描いた。
(また、元々竜馬や隼人は相手によって言葉遣いを変える描写が無印時点より存在した。號では年齢を重ね公人として存在するためだろう当時よりも感情を隠すことが上手くなり言葉遣いも過去のようなものを使っていない隼人が、彼の醜態すら知っている竜馬が出てきてから言葉遣いに昔のものが混じり「本音」を覗かせるようにもなっている)

そしてあのラストに繋がっていく。

ここで追加エピソードとして描かれた漫画版真の話をしよう。
漫画版真はGと號の間を埋める作品として描かれた。
早乙女研究所の崩壊、弁慶という戦友、博士をはじめとする竜馬と隼人にとっては家族同然の人々が消えた理由。
そしてこの中では竜馬と隼人の関係性と「竜馬はなんのために戦っていたのか」に対しての補完がなされた。

「愛する者がいる限り、そのためにだけでも戦い続けるというコトだ!!」
「そしてこの危機をかわせるのはゲッターだけだ!!」

電子書籍版「真ゲッターロボ」2巻 202頁

漫画版では酷く唐突に出てきた「愛するもの」であるが、これは東映版、特に大幅変更されたG最終話元シナリオを汲んではいないだろうか。
(「おれはたった一人、愛する人のために戦っているだけなんだ!」という隼人の台詞が存在した/GDVDBOXブックレットシナリオ解題)
この台詞の後、竜馬はゲッターには二度と乗らないと話していたにもかかわらず、隼人と二人で真ゲッターロボに搭乗する。
そして、早乙女研究所は崩壊し、竜馬と関係のある人物で生き残ったのはただひとりしかいなかった。
竜馬の愛するものは、隼人である。
ここで消去法という形でも辿り着けるようにそう提示される。
(隼人の愛するものに関しては漫画版號で山咲という婚約者が存在しているため彼女であった解釈が可能であろう)

そして先の博士の台詞は號終盤にも言える。
ゲッターに乗りたくはなかった竜馬が、最後までゲッター(ゲッター線)に良い感情を抱いてはいなかった彼が何故乗ったのかといえば、あの状況をどうにかするにはゲッターしかないと判断したからだった。
博士の台詞を考えれば「愛するものがいるから戦おうとした」と読み取れるようになっている。
そして、竜馬は隼人を置いていく。

「バカな!! またおれを生き残らせるつもりか〰️」

電子書籍版「ゲッターロボ號」 160頁

隼人は二度も「裏切られた」
「死ぬときは一緒だ」と誓ったにもかかわらず、武蔵も竜馬も(なんなら弁慶すら)それを知っていたにもかかわらず、「生きてほしい」から残された。
(「隼」という鳥の名を持ちながら、未来を託され地上に留め置かれるなどいっそ文学的ですらある)
けれど、それすらもきっと彼は理解していた。

流竜馬は無印Gの時点から、隼人が死ぬという状況になるとわずかなりでも可能性があるならば自分の命をかけても助けようとする傾向が存在した。
大切に思う存在のために、ただ生きてほしいという願いのために自らの命すら懸ける。それを「愛情」と言わないのであればなんだというのだろうか。

リョウ「おれはおれの力で生きてる おれの力で未来を作る!!」
隼人「ゲッター線が人類の進化を促したのだとしたら 運命には逆らえぬ」
リョウ「運命か…」

リョウ「誰かが言ってたぜ 運命に従うも運命なら」「運命に逆らうも運命だってね!!」
隼人「ふふ」「お前らしいな」
リョウ「おまえとおれは根本の所で違うのさ」「だから面白い…」

電子書籍版「真ゲッターロボ」2巻 136-137頁

漫画版真において、未来から侵略者が現れ、弁慶が消え、ゲッター線の危険性を感じた竜馬はゲッターには二度と乗らないと告げていた。ゲッターに見せられた未来に、運命に抗おうとしてゲッターを降りていた。
どんな惨劇を目の前にしても作中まともに凹むことすらなく即刻立ち直って戦い続けた竜馬が何故あれに怯えたかのような姿を見せたのかと言えば、自分達の行く末が「圧倒的な力で一方的に全てを破壊し尽くす」という今まで彼らが抗ってきた「敵」そのものでしかない「絶対悪」であることに対してだったのかもしれない。

そして、あそこには隼人がいなかったからかもしれない。
力だけが全てである世界は、一番強いものしか残らない。奪い合い食いつくした末に、隼人を失ってしまうと思ったのかもしれない。
(早乙女博士の台詞と同じで東映版G最終話脚本に目を通していたならそちらに存在した「隼人を失い戦意を喪失する」状況を出しても不思議ではない╱これらや「闘犬」という台詞を始め、東映版で使用されていた台詞が見られること、掲載時は「俺」「……」だった写植が単行本時に「おれ」「…」と東映版脚本準拠に変更されていることなど、石川先生が東映版元脚本を所持していたのではないかという疑惑がある)

聖ドラゴンのシーンも、本来相互理解と協調性を前提に三人が乗っているはずのゲッターロボに同格の人間ではなくボスと手下のような主従=支配関係にある人間(?)が乗っており奪い合っているという絶望的な未来と解釈できる。

ゲッターに乗り続ければあの未来が来る╱隼人を失うから降りるしかなかった。
同時に、竜馬と隼人の関係性が運命的なものである、とされていたのなら、隼人を守るために隼人から離れるしかなかった
のかもしれない。

結論として、そうして運命に抗おうとした竜馬はあの未来を変えきることはできなかった。自らの旅の終わりも、避けることはできなかった。
號作中、竜馬自身の台詞で示唆もされている。

しかし、もし彼が運命に抗い残せたものがあるなら、それは竜馬が愛するもの、隼人だったのではないかとなる。
そして同時に、人の手には余る大きすぎる力であるゲッター線は、竜馬たちの意思により「共存」が難しい、理性の薄い存在だけを飲み込み、火星という遠い場所で眠りについた。あの世界に希望という種子を残して。
(ピンと来ない人でガンダムを知っているなら、お髭のガンダムの最後といえばわかりやすいだろうか)

「友よ、また会おう」

電子書籍版「ゲッターロボ號」5巻 242頁

本当の別れになるだろうあの瞬間聞こえた、作中はじめての再会の約束は、
「いつか運命を変えられたときに」であり
「生きてくれ」であったかもしれない。
(フォロワーさんご意見:「アバヨ、ダチ公」と同じで同じじゃなかったんじゃないか。「諦めないでくれ」というような)
個を失いゆく竜馬が、愛する隼人に残した最後の願いだったかもしれない。

こうして「ゲッターロボサーガ」は幕を下ろした。
石川先生にはこの竜馬と隼人の真の愛情の物語、「愛した隼人と世界が残り、リョウは消える」ことをもって完結していた。
各所のインタビューなどで「自分にとっては珍しく綺麗に完結した」旨を話されていることも証拠となるだろう。

また、この號の終わりは基本的に希望ある終わりであったことは最後の隼人の台詞に表れている。理性ある存在が互いを尊重しながら火星に辿り着けたとき、人類はきっと素晴らしいものを見るだろう、と。

竜馬は真ゲッターと天にあり、漫画版真を踏まえれば弁慶がドラゴンと共に地にあると考えた時には、地上にプラズマエネルギーと隼人(と人類)が残されたことで宇宙の万物を示す三才「天地人」の一揃いとなり、これによって彼らは世界を包括する╱見守る概念となって再び共にある、「離れていても三つの心はひとつである」「この世界の根底には彼らが持つ理性が流れている(ゆえに竜馬が見たあの未来は回避され、いつか人類は「素晴らしいもの」を見るだろう)」という解釈もできよう。

【終わりに】

東映版もそうであったように、「ゲッターロボサーガ」もまた竜馬(リョウ)の愛情の話であった。
理性の極致。見返りを求めず、ただ与え、相手を思い、寄り添う「真の愛」。
これは恋愛や性愛とは別であり、竜馬にはミチルに下心めいたものがGアトランティス時点で描写され、隼人には號作中で婚約者が存在したため、性的傾向としてはそれぞれ異性愛者であったのだろうとも解釈できる。そういった感情とは別で、そこに性欲や愛されたいと言った欲は無いままに彼らは深く互いを愛したのだと。

こう書けば「ゲッターロボサーガ」はどの読み筋にあっても「理性」(他人を思い、尊重する心)で全ての話筋が集束する作りであると理解できるのではないだろうか。

また、石川賢作品は非常にロジカルでありながら、その理屈をわざとらしく説明することは避け、あくまでもその作品世界の人間の話として構築し読ませ、その分の作者の意図や意味を示唆を増やしイメージを絵として見せることで尋常ではない圧縮率を作り上げていると個人的には考えている。一度石川先生の表現技法(記号の使い方、示唆の仕方)を理解すれば無駄なコマがあるのだろうかと思うほどその構成は精緻で、読む度に様々な読み筋や伝えたかったことを見せてくれる。
そのため、漠然とした感触では理解してもこうして言語化し説明するには困難であったり、最初に刷り込まれた誤ったイメージがあると正しく読み取り難くなる傾向も存在するだろう。

何故かこの20年以上、ダイナミックプロ公式が監修していない派生作品やスパロボではこういった「ゲッターロボ」並びに石川作品やダイナミック作品の持つ本質は軽視され続けてきた。
一度全ての思い込みを忘れて、もう一度きちんと作品と向き合ってはもらえないだろうか。共に作り上げられた永井先生などはご存命だが、この物語を紡いだ石川先生は既に亡くなられている以上、私たちにできる真摯な姿勢というものはそれしかないのだと私は考えている。
弱者のための闘争、純粋な愛情、ヒトが人間たるゆえの理性という「心」の物語に涙し、寄り添いたいと思ったいちファンとしてそう思ってならない。


そして、ここまでを読みといた時点で私はあることに気付いた。
デビルマン:飛鳥了(リョウ)
ゲッターロボ:流竜馬(リョウ)
バイオレンスジャック(ガクエン退屈男):身堂竜馬(タツマ)
ダイナミック作品の主要人物であるこの三人は共通した設定を持ってはいなかったかと。

次回はこの「リョウ(竜馬)の法則」と「ゲッターロボの血脈」をまとめたいと思っている。

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