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漫画版ゲッターロボアーク考察~「サーガ」ではないゲッターロボ

本来ならば順を追って書くべきなのだろうが、最初にこれを書き残したいと思う。
この記事は「拓馬はなんだったのか」を中心に「ゲッターロボアークはどうすれば三つの心が揃って終われるのか」という話。
もしくはゲッターロボサーガではなかったアークはどうすればゲッターロボサーガになりうるのかという話である。
なお、記事中に扱いの難しい事柄を含むが、純粋に考察していったらそうなったという話であり、私に政治的意図などは一切無いということは最初にご承知いただきたい。


〖 前提条件 〗

アークを読む上での前提条件は
・最低限、それまでのサーガと括られた内容を読んでいる

ゲッターロボサーガは號までの時点で完結しているなどの話はこちらを参照していただきたい。
また、石川先生はサーガ版の他に御自身で手掛けた学年誌版、劇場版コミカライズ、原案を同じくしていた東映版無印G(號は検証中)、劇場版も考慮しこれらを包括しての作品作りを無印時点からしていたと思われる。
・竜馬と隼人は半ば同一人物である

この事はそう考えた時に石川先生には重要であったろうと思われる要素である。これも念頭に置いて話を進める。
また、OVA作品はチェンゲのみがアークより前の製作である。ギリギリネオゲが連載中製作となるが、ここではチェンゲより後の映像化派生作品や派生漫画、その他は考慮しない。(端的に言えば上であげたもの以外で言っていたことは基本的には忘れて読んでほしい)

考慮すべき石川先生の作劇手法として、明言して説明することよりも示唆、隠喩を中心として読者が考えて察する形が多い事があげられる。
石川先生は非常に温厚かつ個人を重要視していたタイプの方だったらしく、考えれば辿り着ける情報だけ提示する=僕としては答えはこうだけど、読み方╱解釈は任せますみたいな空気感がある。
そのため、以下は話の順番通りではなく前後しながら、さらに周辺情報(石川作品の基本的傾向)も含めつつ推察に推察を重ねる、というどうにもまどろっこしく確定には至らない、明確に間違えているかもしれない私個人が現状出せる考察、推測にしか過ぎないのはこれを読む方には留意していただきたい。

【 漫画版ゲッターロボアークとは 】

漫画版アーク一行まとめ:「ゲッター線の子供」を主人公にして絶望的未来を変革できるかできないかの分岐点までを描いた序章。

もっとフランクに:ラスボス幼体(主人公)をうまく育成して絶望の未来を回避しよう!(分岐点で終了)

*もし本当にこういう話筋であったなら、ゲッターロボサーガとしては根本的に違う話だったので、既にサーガ編集の目処がついていただろう時期に出た、サーガと同じサイズなんならデザインもあわせられたはずの最初の単行本ではゲッターロボサーガのナンバリングを着けなかったのかもしれない
(アークでサーガのナンバリングがされているのは文庫版だけで、新装版にもサーガとしてのナンバリングは着いていない)

【 流拓馬とはなんだったのか 】

「竜馬が抗いきれなかった運命の子」
拓馬母の「赤い糸」発言などからそう示唆されている拓馬は、そうであるなら「あの未来」へ繋げてしまう存在ではないか。
アークで拓馬たちが見たゲッター線と人類が絶対悪である未来は竜馬が見た未来と同じ=號時点では変えることができなかった、のである。
*ただしこれは「ゲッターロボサーガは完結している」と捉えた時には違和感のある話でもある。あれほど綺麗に未来への希望を残して完結したにも関わらず、何故そのような内容になるのか。
そもそも「ゲッターロボアーク」自体が「サーガから分岐した平行世界」ではないだろうか?
(未来世界のゲッターが「絶対悪」であること、そのイメージの先にあったのがエンペラーであったことは全集の中で石川先生ご本人が語られているため確定事項。下記に一部引用するがあくまで私が重要ではないかと思った部分にすぎず恣意的になっている可能性もある。非常に興味深い長い対談内容のため、自分で確かめていただきたい。お願いですからあのまま再版してください)

(記事筆者前略)途中からは「ゲッターは悪だ」というか「絶対悪」のようなイメージを持っていました。(記事筆者中略)その「絶対悪」がどんどん進化していくとどのようになるのか、それを『アーク』では追いかけてみたかったんですよ。『真』で登場した進化の最終形・ゲッターエンペラーは、そのイメージを具現化したものなんです。

ゲッターロボ全集 31p

〖 拓馬の母親の正体 〗

私には拓馬の母が嫌な感じがしてならなかった。
漫画版真で運命に抗うと言った竜馬に「赤い糸」(更に言えば石川先生はゲッタービームは赤に近い色だと思っていたろう。詳しくは過去記事にまとめてある)

を主張することもそうだが、竜馬に自分の感情を押し付け、彼を尊重してはいなかった様子も気味が悪いし、絶対に竜馬が言ってないだろう事(直後の回想内の竜馬の様子の他、無印1巻竜馬登場回の父の教えを思い出せば明確)を彼の教えとして語る╱騙る様子や、竜馬は空手で彼女は柔道なのに流派を継いでいるとしている事などは乗っ取りではないかとすら感じた。冷静に思い返せば、漫画版號時点でストナーサンシャインのせいで竜馬の道場は消失しているはずでもある。そう思ってよくよく読めば、拓馬との会話台詞が嘘で構築されていた(電子書籍版「ゲッターロボアーク」1巻106頁~109頁、特に108頁は丸々綺麗に嘘である)。食事の様子、竜馬の父親の教え、愛していた人物、過去描写から読み取れるものと何も一致しない。
そして拓馬母は「お国のため」と口走っている。読み返してこれに気づいた私はゾッとした。
なぜなら、無印登場人物の名前元ネタは戦中の日本軍兵器である可能性が高い。

そのため、私は彼らが敵に回った場合=未来人類のモチーフは大日本帝国ではないかと考えているからだ。植民地、武蔵のコーンパイプ(マッカーサーのシンボル。日本人にとっての勝利側の人物のイメージ)、全体主義的な言動などが符号する。
(念のために言うが、ゲッターロボという作品は漫画版にしろ東映版にしろ個人を尊重することをベースにおいていて、戦っているのはあくまでも誰かがここで戦わなければならないという状況下での彼らの自発的な意思であり、正義などといった言葉も使わず、全体主義的にならないよう酷く気を使って描かれている。そのため、そのような言葉が出てきた時点でおかしいし「彼女は竜馬を理解していなかった」事は想像に難くない)
(また、そもそもゲッターロボは無印原案時点で戦争を根底に置いていた可能性が高い。石川先生はそれを「ゲッターロボ」という作品における重要な要素と考えていたと思われる。
無印は恐竜と人類側の双方に日本軍兵器由来の名前があり敵の思想は植民地主義、帝国主義などを思い出させ、Gでは敵モチーフがナチスドイツで選民思想。ここまでが東映版とも共通する原案にあったものだろう第二次世界大戦。漫画版號ではその後に起きた湾岸戦争をモチーフの中心にベトナム戦争などにも触れた。アークは単に戻った、理屈で考えたらそうなったというだけではないかと思う)
悪意はないままに、個を尊重せず、その存在を乗っ取り騙る、未来人類と符号を持ち、ゲッター線との関係を示唆された存在。
ゲッターエンペラーのミニチュアか前身のようだと思った。

〖 拓馬の持つ違和感とその正体 〗

拓馬には違和感のある点が多い。
竜馬の子と言われるが、実は顔は似ていない(モミアゲも髪の毛も暴れてない。あの目元だけなら石川主人公は大体そう)。表情も崩れ顔が多いのは號くんである。
竜馬≒隼人を示す際、石川先生はエピソードの流れをそのまま使う、同じ身体的特徴を持たせるなどといった手法をよく使っていた。
けれど、拓馬は断片的に一号機乗りと三号機乗りのイメージ=記号を持たされるにとどまっている。(武蔵のヘルメット、弁慶のおにぎり、號の喧嘩╱しかし結果は異なるなど)
先述した拓馬の母親は「悪意はないが自分の都合や思想を他人に押し付けいうことを聞かせようとする」姿であるが、竜馬や號はこういった時に反発する(無印最初の早乙女博士や、號の教師)が拓馬はしていない。不満はあっても反抗せず、なんなら「英雄として美化した父親」を盾に騙されてすらいる(これらは竜馬であれば激怒しそうな行動ばかりである)。
拓馬=竜馬であるなら≒隼人でなければおかしくもある。竜馬の子であるなら、隼人の子でなければいけなくなる。しかし、作中にそのような描写、示唆も見当たらない。
これらから、少なくとも拓馬には竜馬の魂はないだろう。あくまでも繋がりはあるが「竜馬の息子」ということがそこまで重要とは思いがたい。
(石川作品全体で見ても「血統主義」という一種の選民思想に繋がることを危惧してか、血筋が重要となる話が極端に少ない)
そして、「ゲッター線のDNAを持っている」というマクドナルの言葉を考えるなら
拓馬は流竜馬の子供というよりも「ゲッター線の子供」ではなかろうか。
言ってしまえばラスボス幼体のため、その彼を表すゲッターアークが目が怖い悪役面、敵である虫と同じようなデザインかつ後述するゲッター線の問題点にも通じる「食べる」事を示す口(更に言うなればこの「全てギザギザの歯」は石川作品では基本的に「悪」の記号である)、エンペラーに繋がりそうなデザインというのも考えられるし、どこから来たのかわからないあの髪型はゲッター1系列の頭部イメージであったかもしれない。
(拓馬のベースはチェンゲ號である可能性が高い。後述する「感情の薄い一号機乗り」という共通項、竜馬より號に似ている顔、マントも漫画竜馬ではなくチェンゲ號であろう。そして、カムイの母親についての会話で判明するが、無印はアークより28年前と明記がある。拓馬には実年齢が10才未満の可能性が存在し、これもチェンゲ號がベース=純人類ではない存在であったなら理解ができる設定である)

ゲッター線は感情を持たない。人間と倫理観や価値観も共有しない。(漫画版號での会話もそうだし、感情や精神力がゲッター線の力を引き上げる=ゲッター線にそれらがあったら人間に頼らなくてもできるはずでもある)
目的達成するためのAIをもった生命循環システムの一部。物を言うエネルギー総体。
(2001年宇宙の旅のHAL9000とか特にモノリスみたいな。宇宙の旅シリーズは號終盤にも明確に影響があり、著者であるクラークが後年モノリス的存在には肯定的ではなかったらしい事も気になる)(石川作品世界観に多い生命循環システムについては漫画版號と同時期に描かれたMIROKUや魔空八犬伝がわかりやすい)
それが進化にともない流竜馬の子供として誕生した。
ゲッター線と人類とのハーフとも言えるかもしれない。
ゲッター線に不足しているもの╱感情、精神、心=理性を補うかもしれない存在。全集のなかで石川先生が仰られていた「ゲッター線と人類との共生」に繋がる存在。
彼がゲッター線そのものの子供であるなら、そこに消えていった人間たちの要素を複数持つことも、ゲッターロボの操縦を何故か最初から知っていることもつじつまが合う。

また、先の母親への反応のように、特に恐竜帝国へ行くまでの拓馬は石川作品主人公にしては違和感のある点も気になる。
長編ヒーローものの流れにある石川作品の主人公は基本的に「自他問わず理不尽に殺される╱踏みにじられることに怒りをもって抗う」。そしてそれは序盤に示される。
竜馬なら早乙女博士のスカウト後の研究所襲撃、號なら病院強襲、他作品なら十兵衛は惨劇を前に怒りを露に一人たりとも残さぬと言い、五右衛門は「てめえら何人殺せば気がすむ!」と叫んで敵に襲いかかる。
アークには、拓馬には、これに該当するシーンが無い。

例えば冒頭の登場シーン。
ゲッターを待っている間に多数の人間に囲まれ「殺されかける」が暴行を加えられても無反応だし刺されても彼は「俺は不死身だ」と意にも介さない。
竜馬の登場回で早乙女博士の物騒なスカウトに殺されかけた時や號が最初なにもわからずに殺されかけた時の反応を思い出せばこれは明らかにおかしい。
本来ならば「訳のわからん理由で殺されてたまるか」と抗うべきシーンである。
それが拓馬の場合「自分は死なないから戦うだけ無駄」と無抵抗であると読み取れる。そこにいる人間たちへの反応も獏共々薄く、そこにいると危ないと忠告はするが必死さもなにもない。合理的ではあるかもしれないが合理的なだけである。
彼は「不死身」であり自分が死なない╱極端に死ににくいために「命の重さ」というものを理解していないのではないか。

その後に続く無惨な遺体を見ても顔色ひとつ変えず、触ってそのまま食事を取り出す一連の部分も、私には違和感がある。
いきなり目前に無惨な遺体が落ちてきたら、驚き恐れ、悲しみ悼んで、正義感が強い人間であるならば「何故こんなことになっている」「人間は機械の部品ではない」と怒りはしていないだろうか。
これが竜馬や號のような人物であったなら、そうして怒り、隼人に食って掛かった後に「そうしなければならない(犠牲を出すことを割りきらねばならない)ほどに人類は追い詰められている」と提示されてはいなかっただろうか。
彼は「死の意味や概念」を、何が「酷いこと」「悪いこと」であるかを、本当に理解しているだろうか?

次いで1巻4章から町と研究所が蟲に襲われる話がある。
竜馬や號であれば、石川主人公であれば、元が人間であることに躊躇い、その上でどうにもならないと知ってその手にかけ、こんな非道絶対に許さん! となる「はず」だったろう。
実際、竜馬では最初の早乙女研究所襲撃シーンや大雪山での人類ぎゃく殺研究所など、號では病院襲撃のシーンでこの流れをたどっている。
しかし、拓馬は違った。
最初から人間とわかっていて躊躇いもなく殺したし、町の様子を見ても顔色ひとつ変えない。要約すれば「敵を殺すのはいいが公共物を壊すな」とまで言う。
(この台詞、後の複製武蔵がダーク・デス砲で「敵は文明も含めて全て滅ぼし、星だけは使う」主旨と似ていないだろうか)
「許さない」とか「人間を虫けらのように殺しやがって」とか、最初に出てきて然るべき言葉も出てこない。(逆に敵を虫ケラと呼んで殲滅しようとするシーンはある╱二巻冒頭)

怒りが、感情があまりにも薄いのである。
それは「理性」が薄いことでもある。

確かにカムイが言ったように「論理的で正しい」。悪意がないだろう事もわかる。だが、理性(他者を思う心)をベースに怒りをもって戦っていた「ゲッターロボの一号機乗り」としてはあまりにドライすぎる。
他人がひどい目に遭っていても、怒ることができない。
彼が怒るのは母親のことだけであって、人類すらその対象に入っていない。他種族など言うまでもないだろう。
ただ「人類が生存するため」に「論理的で正しい」ことをしている。
この様子は未来世界のゲッター線に通じるものではないか、と私は感じてしまう。
すべてを凪ぎ払う力さえあるなら、対象を守るだけなら「それ以外を全て滅ぼしてしまえばいい」というのは、ある意味「論理的で正しい」だろう。

〖 獏の正体 〗

これは獏も同様である。
と、いうより、おそらく獏≒拓馬である。
竜馬≒隼人や竜馬≒武蔵と違い、そこに感情はないが。
先に書いた冒頭シーンでの違和感(獏も拓馬は死なないからいいだろと心配すらしない。やはりあまりにも感情が薄い)もあるが、
ゲッター線の影響を受けて生まれてきた子供の血液検査のシーン、この二人しかされていない。
作中この二人はよく一緒に行動している。単独行動はカムイばかり。表紙もよく見ればカムイだけ離れているか、別扱いのように見える図が多い。
獏は拓馬と同じ存在である。それだけあればあの話は成立したから、姓をヤマ○シ会(90年代後半からオウムと並び告発本が出ていた集団生活する団体。調べてみるとやはり全体主義的なものを感じる)からとって不穏さを、凱のメカニックに強い(しかし愛情はない)という過去の人物の記号を入れ、血液検査シーンと隼人の台詞で獏もまた「ゲッター線の子供」であると示した。
(また獏という名は「フリーダーバグ」の「バグ」から来ている可能性があるのではないかと思う)
石川先生は「必要な情報なら」描いていたはずである。しかしこれ以上は特別無いのだ。彼個人の描写は話において必要なかったということでもある。

そう言った、「怒り」の前提となる部分を所持しない「ゲッター線の子供」拓馬(≒獏)がなんらかのキーとなり、あの未来になるのではなかろうか。

〖 彼らが「ゲッター線の子供たち」である示唆 〗

ここまでに書いた拓馬と獏が「ゲッター線の子供」であり、いわばアーク(≒拓馬)がラスボス幼体であるということを踏まえるとその示唆と取れるものが幾つかある。

恐竜帝国で孔明がアークチームと対面するシーンがある。
「ゲッター……貴様こそが宇宙の侵略者だ!!」(このときはカムイがいる)のあと「きさまらが死ねば我々の宇宙は救われる」と言うが、この時は二人しかいない。
きさまら、きさま達という言葉が二人にしか使われてない。「お前たち二人が死ねば未来は救われる」と読める1頁になっている。
このあと、カムイが戻ってくるとまた「ゲッター」になっているのが私には意図的に思える。

恐竜帝国に向かった際の隼人の「敵に知られたくなかったから教えなかった」もそうだったかもしれない。
どうして拓馬と獏に教えないことがそこに繋がるのかが理解できない。通信傍受と言っても研究所で直接言えば傍受もなにもないはずである。
拓馬と獏が知ることで、どうして「未来」のアンドロメダが知ることに繋がるのか。
隼人はこの二人が鍵であることを知っていたのかもしれない。

最初の単行本のカバーイラストにも表現されているだろう。
3巻のカバーを裏表紙まで含めた横長の一枚としてみると、なんとも重苦しい色を背景にアークが星と異種族を滅ぼそうとするかのように鉤爪のある手が配置されている。表紙で口を開いているアークが描かれているがその下、並んでいる三人のなかで同じく口を開けているのは拓馬と獏であり、カムイは口を閉じている。
2巻のカバーイラストと比較すれば、キリクはアークと違い理性ある目をしている。こればかりは複数見て自分で判断するしかないと思うのだが。
*一枚絵の石川作品での理性の有無の判別で一番わかりやすいのは目のハイライトの有無だが、角度、表情なども複合すると違いが感じ取れる。一番多く描かれている竜馬で見比べるのがわかりやすいかもしれない。あれほど長く続いたシリーズの中でOVA新ゲッター(端的に言えばアンチゲッターロボ作品)のジャケット絵の竜馬だけが唯一理性を感じられない目をしている。正面顔を號最終巻の表紙や新ゲッターとはさほど時期も離れていないネオゲのジャケット絵と並べてみると全体の雰囲気や表情の違いを含めて感じ取れるかもしれない。

このことをはじめ、帯に隠された部分にカムイだけが描かれていること、キリク≒カムイが光を背負っているかのように取れる全体図などにも気付ける。
あの三人のなかで、理性があるのは隼人直系であるカムイであり、彼が本当の希望だと。そういう印象になるような絵ではないだろうか。

【 ゲッター線と未来人類の問題点 】

では、あの未来を変えるにはどうすればいいのか。
未来世界のゲッター線と人類は何が問題なのか。

〖「悪意を持たない絶対悪」ゲッター線 〗

ゲッター線は個の重要性というものを理解していない。丸飲みして腹の中に入れば同じだよね思考であって、根本的に善悪も快不快も幸不幸もさしたる問題ではない。
そこには「進化」という目的しか存在しない。「個人」の意思や権利、尊厳は目的の前に消失している。ある種の全体主義の権化とも言えるかもしれない。
とりあえず人類が進化してくれればいいよ。他の種族は皆結局同じになるんだからどうでもよくない?
(しかしここでゲッター線が考えている進化とは弱肉強食の末の単一先鋭化、強化であり「進化ではない」。進化を進歩と考える誤解釈、社会進化論的なものである)

石川作品において悪の共通事項のひとつは「奪うもの」である。
「理性=他者を対等と認識し思う心」を失った╱所持しない存在である。

他を尊重せず、自分の都合だけを押し付け、土地や物や命や意思を奪う。
集合意識体、それ自体は石川作品の世界観背景として頻出する。悪とも描かれない。
しかし、ただのシステムであればよかったものが、意思、主体性をもつことで他を一方的に取り込む存在となってしまったがために悪となった。(全集の中で石川先生が語られている「號の途中からゲッター線は悪ではないかと考えるようになった」こととも矛盾はしない)
(真のゴールやブライの台詞も、元来の彼らであれば絶対に言わなかったであろうことを「個」が消失し、人類、生命存続=進化の目的優先であるためにああいった言動になっているのではないか。すべてに滅ばれると進化させるものが無くなるとか、人類進化させるための当て馬が欲しいとか、いつか人類より適した存在が現れるかもしれないから滅んでほしくないなど)
そこに人類以外との共生という概念もない。より正確に言えば人類との共生も、人類とゲッター線が同格にあるのかと言えば疑わしい。
なにせゲッター線にとっては、「目的達成のために現状進化してくれるのが人類」というだけであって、より適した存在があれば、より強い進化をしてくれる存在があれば、別にそちらに乗り換えたところで問題はない。
(ちなみに「共生」という言葉は「寄生」もそのうちに含む)
(これの周辺証拠としては「ダイナミックプロが直接監修した」ダイノゲッターとゲッターロボ飛焔の二作品において、ゲッター線が人類以外を選んでいると解釈できる描写がされていることがあげられるだろう)

確かにゲッター線には悪意はない。しかし、倫理観も良心も感情ももたない。
集合意識を前提とするために個の重要性も理解せず、さらに根本を言えば死が無いために生死の概念すら理解できないのではないか。
そんなプログラムのようなものが、人類を生存させるため、合理的(最短距離)で正しい(生存させるのに確実な)判断をし続ける。
主体性のある存在が有無を言わさず一方的に他者を飲み込み続ける。人類を守るため他種族を。命の源であるため時には人類をも含めた全ての生命を。
結果「悪意は全く無い絶対悪」として存在することになった。

【「ゲッター線の傀儡」未来人類 】

そしてそのゲッター線をあろうことか「神」と勘違いし信奉した人類も絶対悪となった。
宇宙進出の序盤から「植民地」としていたらしいので、その兆候はあっただろうが、エンペラーの存在で思い上がって完全に道を踏み外した。(最初の方に未来人類は大日本帝国がモチーフにあるのではと書いたが、そうするとエンペラーは名前の他に「現実に存在を持つ神」という、点が……符合する……)
神たるゲッター線に選ばれた人類は、すべてを飲み込んで進化し、宇宙を支配することが決められた存在なのだ!
アホか死ね。と他種族が言いたくなるのはごもっともである。(アンドロメダはそうしてゲッターを滅ぼして結局は宇宙を支配したいらしいのであれもまたあれだが)
私だって言いたい。ましてやそれを言うのが武蔵の姿なのである。
そうして蹂躙されることに抗い、生きたいというなにより強かったろう本能を圧し殺し、竜馬と隼人に未来を託して消えていった武蔵。
よりによってその彼を、虫けらより酷い道具みたいに扱った。命という概念すらそこにあるのか疑わしくなるような「道具」。あまりにも惨い。
エンペラーに竜馬の意識があるならそんなことは絶対にしないだろう。
もしもその最初が未練や何かのようなものからだったとして、あそこまで変質してしまったのなら「柳生十兵衛死す」の十兵衛(明らかに竜馬血筋)と武蔵の最後のように、「死に場所を奪ってしまって申し訳なかった」と自らの手で引導を渡したがるだろうとしか思えない。
そんな、あれが、りょうまだとか、ほんと、ありえねえにもほどがあんですy

という私の涙目の叫びはおいておいて。
(クローン武蔵の元ネタは98年に団龍彦=ゲッターの企画から携わった菊地忠昭氏が書かれた小説「スーパーロボット大戦」ではなかろうか。正気を失い操られている10人以上のクローン武蔵の描写が存在する。また、この際の竜馬の描写からもエンペラーに竜馬本人の人格が存在するとは考え難い)

さてこの人類、色々様子がおかしい。
選民思想で他種族を殲滅するのはゲッター作中の敵の所業の繰り返しである。これ自体は未来人類も絶対悪だろうとわかった以上、いつものことであって別にいい。
私がおかしいと思うのは、理性もなく「主体性に欠けている」ことだ。

何故、理性を失ったのか。
本能に任せ、自分で考えることを放棄したから。

ゲッター線を戦う理由とした人類は、何故戦うのかを自分で考えることを放棄した。ゲッターの望むままひたすらにすべて食いつくしていけばいい。
単なるゲッター線の代行者。
そこに主体性があるかといえば無いだろう。

ゲッターロボサーガは「種の存亡をかけた生存闘争」であり、「お前たちとならば地獄を見よう、共に死んでも構わない」という「三つの心」の話である。

生きる権利を奪われることに怒りを持って抗い、個を尊重し相互理解を持って敵に立ち向かう。そこにあるのは正しく「協調性」であって、全員が主体性を持っていた。
強い人間の意思、理性こそが人間を人間足らしめるものである。
ゲッターロボは理性持つ人間が操縦してこそ成立する。
理性も主体性も失い主従が逆転した未来人類はゲッターロボに操られている存在でしかない。
運命╱神の手のひらの上で転がされている猿でしかない。
(この未来人類が何故絶対悪となってしまったのかという点はチェンゲにおけるインベーダー╱ゲッター線に寄生する存在から着想を得たり影響を受けた可能性があると思う)
(おそらくアーク自体がチェンゲをベースのひとつにおいており、そのために前述した拓馬がチェンゲ號ベースであったり、橘博士と翔の姿がなかったり、敷島博士がいたり、今川監督繋がりでGロボからの唐突な孔明であったのだろう。この筋から読んだ場合、もうひとつの読み方が生まれるのだがここでは言及しない)

【「三つの心」が揃うには 】

アークには足りないものが多すぎる。
拓馬には足りないものが多すぎる。

漫画版アークの作中には「三つの心」は最後まで揃ってはいない。

竜馬が運命に抗い残せた隼人、その直系ともいえるカムイが干渉することで、拓馬がゲッター線に足りないものを獲得し、アークに三つの心が揃い、人類が本能に勝る理性を手にできた時ようやくあの未来は変わる、という可能性はどうだろうか。

隼人が残され何をしたのか、といえば、恐竜帝国と同盟を組み、カムイを預かってゲッターロボのパイロットとして選び乗せた事が作中でわかる大きな事柄だろう。また、結果ゲッターアークのパイロット達を未来へ送り、その姿を見せた事もあるだろう。

〖 他種族からの希望の子、カムイ 〗

カムイは人類と爬虫人類のハーフであり、ハン博士が考えていたように双方の共存を担える存在になりうる、隼人直系の理性持つ二号機乗りと言える

なぜ私がこういうのかと言えば、先にあげたカラーイラストの他に、作中の言動にある。
例えば「地獄のカマのふたを開ける」と隼人がいうシーン。
カムイは表情は変えないながら手を震わせている。おそらくは恐怖に。

「神さん あんたは残酷な人だ」
「カムイ…悪く思うな」「残された道は…これしかないんだ…」

ゲッターロボアーク(電子書籍版) 2巻 18p

このやり取りからは二人がそのような会話をできるだけの関係性があると読み取れる。
「わかってはいますけど本当に酷いことをしますね、僕を殺す気ですか、神さん」「悪く思うな、カムイ。これ以外にここを切り抜ける方法はない。お前が生き延びることを願う」
ざっくり書けばこのような雰囲気だろうか。言葉数が少なく、感情を抑制する傾向のある二号機乗り同士の会話であるため、本当に必要なことしか口にはしていないのだろう。「神大佐」ではなく「神さん」と呼んでいるのも階級如何ではない個人の会話だという意図だろうし、そうやって「さん」づけ「あんた」と呼んで許される関係にあるということだろう。この時の隼人も相当に切羽詰まった表情をしている。
(冷や汗の描写は人物の心境を読み取る際に重要である)
ここまでの考察を考えれば「地獄のカマのふたを開ける」とはただゲッター線を解放するというだけでなく、あの未来へのカウントダウンをまた一歩進めるという恐ろしさも含まれていただろう。

隼人の言葉にはカムイはいつも素直に従っていること、カムイの「あいつは仇が見えればつっぱしりますよ」といった拓馬への所感を隼人は聞き入れて獏とカムイを出動させたらしいこと、恐竜帝国との停戦など二人だけで共有していた情報があることなどからも隼人(人間)とカムイには一定の信頼は存在しただろうと考えられる。

また、カムイの母親のこともある。
アニメ化の際には外見を変更され、それに伴い彼女の半生も想像できるものが変わっていたが、漫画版におけるカムイの母親は、無印の時代に恐竜帝国により拉致誘拐された人物であると読み取れる。無印には人類虐殺研究所など無惨な人体実験を行っていた描写がある。おそらくその流れの上で、彼女はカムイを身籠ったということになる。
この事実が前提にあるため、ハン博士はあそこまで言うことを躊躇った。戦争における自国の、現同盟国に対する、人を人とも思わず消費した残酷な仕打ちの歴史、暗部である。
誘拐された彼女の境遇はそれは辛いものであったろう。ハン博士のような人物が彼女たちを保護してきたのかもしれないが、よい待遇を受けたとは到底思えない。恐怖や憎悪の中で異種族の子供を孕まされたと知ったときの絶望はどれ程だったか。
それでも、彼女は生まれた子供、カムイを愛した。
極限状況下でのストックホルム症候群に近いものという捉え方もできるだろうが(そういう見方で言えばハン博士がリマ症候群)、結果としての彼女の愛情は(そして、ハン博士の愛情や理想も)本物であったと私は信じたい。そして、カムイもまた母を愛したと。

カムイは単に恐竜帝国が地上に進出する際の足掛かりになるというだけでなく、その身体的特徴から言って爬虫人類の希望でもあった。
言い方は最低だが拉致誘拐した人間女性と保存されていたのだろうゴールの遺伝子を使って引いたSSR。彼以外に生き延びたハーフは数名しかおらず、彼だけがゲッター線への耐性を持ち得た。しかし、同じことをするのは不可能でもある。彼の遺伝子を解析し、組み込むことで、ようやく彼らはゲッター線に脅かされず地上を闊歩できるかもしれない。
そうなれば、地球環境をまるごと変える必要も無くなってくるだろう。ここで地上における両種族の共存は現実的な物となる。
ゴール三世のように地上を支配しようというものにも、ハン博士のように共存を望むものにも彼は希望だった。
そして、號以降の隼人が司令官として周囲から信頼されていたのと同じように彼もまた爬虫人類からの信頼を受けていたことは最後の反逆のスムーズさからも言える。

これらから、人類と爬虫人類の共存の鍵となるのはカムイではないか、と私は判断した。
そうであるから、あの話のなかで彼の描写に多くを割かれた。正直に言えば、最初に私が漫画版アークを読んだ時アークチームの三人のなかで人物が立っているのはカムイだけではないかと思ったほどに。あの話のなかで、個人、人間性が重要だったのはカムイだったのではないだろうか。

〖 拓馬に人間性は宿るのか 〗

拓馬はどうにも母親以外のことでは感情に薄く、理不尽というものに怒りを持てていなかった。
恐竜帝国へ行った頃ほどから、理不尽であるとか無抵抗のものを殺すといったことに抵抗を示し始める。
それは隼人が関わったのだろう恐竜帝国との同盟という事実を知ったことや、同じように母親のことで思いのあるカムイを知ったからかもしれない。
同盟の事実を知って恐竜帝国の帝王を庇う。(ただしこれは切り替えが早すぎ、あくまでも「合理的」でしかなく感情が薄いためにできた行動とも読める)
唯一母親のことでのみ「怒り」を示せるのでカムイに共感し「横暴だ」と理不尽に抵抗する。
「合理的で正しい」判断をし続けた結果、どうなったのかを未来世界で目の当たりにする。
あれらは拓馬という器に「人間性=理性」が宿る萌芽だったかもしれない。

隼人が拓馬に「流竜馬の子供」と度々言うのも、作劇都合でぶっちゃけ目元以外の全て性格すら全然似てない拓馬は一応竜馬の子供だという強調の他に、「お前は竜馬を知っているはずだ、理性があるはずだ、理不尽に抗う意思が、怒りがあるはずだ」という隼人の発破だったのかもしれない、などとは思う。
神隼人という人物に取っての「ゲッター」「ゲッターロボ」とはゲッター線にこだわらず(そうでなければプラズマ駆動の號にそうはつけないだろう)、三つの心を内包するロボットでもあっただろう。

「拓馬、この戦いこれで本当にいいのか」
「考えるな!!」「過去も未来もくそくらえだ!! 俺の未来は俺の手で作り出してやる!!」

ゲッターロボアーク(電子書籍版) 3巻 79p

「あっけない」「これで本当に俺の復讐の旅は終わったのか」

ゲッターロボアーク(電子書籍版) 3巻 122p

この辺もう少しヒントほしかったです石川先生。
ようやくまともに怒りを持てるようになってきた拓馬が、自分の意思で未来を作ることを決め(多分漫画版真とかGウザーラとか辺り)、復讐を終えて人間を守る事にシフトした(竜馬登場回)という読み方はできなくはないがどうなのか。
同時に「考えるな」というのは思考の放棄であり、理性の喪失に繋がる言葉でもある。戦う理由を「宿命」に託したならば尚更に。
また「竜馬と隼人は武蔵の仇であるゴールを戦う術もなく無抵抗であるならと揃って見逃そうとした」↔「拓馬と獏は拓馬の母の仇であるマクドナルを丸腰であるとわかっていて殺した」 という反対構造とも読み取れる。
この復讐のシーンでは気になることはもうひとつある。
「敵はとったぜ」などという竜馬などにはあった台詞が存在しない。辛かっただろう、痛かっただろう、さぞ無念だっただろうと思うから竜馬の血筋は怒り、復讐をなした後には死者を思って言葉をかけるのだが、拓馬は自分の感情にしか言及していない。そこに、母親への感情はあったのだろうか?

〖 滅ぼすことはなにも生まない 〗

「人類の進化はここで切る!!」
「させるか おれは戦う!!」「それがゲッターを操るものの宿命ならば!!」

ゲッターロボアーク(電子書籍版) 3巻 152-153p

あのラストシーンで、カムイが勝ち人類を滅ぼしても、拓馬が勝ち爬虫人類を滅ぼしても、結局結果は変わらないのではなかろうか。ゲッター線は人類から爬虫人類に一旦乗り換えれば良いだけである。もしくは地球ではなく他星に求めてもいい。ゲッター線は「宇宙から降り注ぐ」「全てのものの根底となるエネルギー」「命」なのだから。
未来の抵抗勢力、アンドロメダなどはゲッター線がどういうものなのか理解しておらず、あの進化を遂げるに至った最初の人類だけ潰せばいいと考えていたのだろう。しかし、それでは鼬ごっこにしか過ぎない。ゲッター線が学習しない限り、対象を変えて繰り返されるだけではないか。
そうであるならば、ミニエンペラーであるはずのアークが同時に「地球に残された唯一の希望」となるのも頷けるかもしれない。これらの事を包括して知ることが可能な人物はもはや隼人しかおらず(≒竜馬のため、隼人は聞いていないこと、体験していないことも竜馬が知っていれば感覚的に理解している可能性がある)、あのタイミングが分岐点のひとつであることも敵の言葉で示されている。
絶望の未来を作り出してしまうかもしれない、そう理解しながらそうするより他にないという判断を下しての建造であるなら、彼のそれまでの言動とも矛盾はしない。
ここで拓馬に、ゲッター線に、多くの事を学んで貰わなければ、「人間」は消える。個として存在する全ての生命も。
そのために、彼はひとり残された、竜馬たちから託された後も戦い続けた。布石としての停戦であり、カムイであり、アークであった。しかし、彼自身が直接にできることはあまりにも少ない。
ゲッターアークとゲッターザウルスを未来世界へ送ったと聞いたあと、

「こんな無力感の漂う戦いは初めてだ」「燃えているのはゾーンに入ったゲッターチームだけか…」

ゲッターロボアーク(電子書籍版) 2巻 234p

と彼は言うが、同じく司令官位置で同じようにゲッターチームとは別に世界を守るための戦いを平行していた漫画版號の時にこういった台詞はなかった。(まもなく核が使われるだろうという時に「こんな…時に おれたちはどうしてこんな所にいるんだ」という歯がゆさのようなものを示した台詞はあったが╱5巻 114p)なぜそのような心境をこの時に吐露したのかと言えば、そういった間接的にしか戦えないことへのもどかしさもまた含まれていたかもしれない。
既に彼は役割を果たし舞台を降りかけてもいたのかもしれない。結果がどうなろうと自分が足掻いた先の未来は次の世代に託すより他ないのだ。彼らがゲッターロボを託された28年前、早乙女博士がそうだったように。

【 分岐点と成すべき苦難 】

宇宙進出の序盤から「植民地」という言葉が出ていたのなら、ゲッター線や人類が悪とならないルートの分岐点はそれ以前にある。

あのラストシーン以降に、爬虫人類との共存を選び、他種族と和解し、共に未来を歩む。
そうすることくらいしか、あのどうしようもなく不毛な、しかし逃れがたい連鎖を絶ち切る手段はないのではなかろうか。

「ゲッターを操るものの宿命」とはなにか。
それが「理不尽に抗い、生きるために戦うこと」であるなら、抗った先でどうするのか、それが問題なのかもしれない。
漫画版ゲッターロボアークとはその分岐点を終着点とした物語だったのではないか。

中島:ちなみに『アーク』を描き続けていたら、その辺りまで描かれたんですかね。質問その二です。
石川:そりゃ無理でしょ。あくまでも進化だから、人類とゲッター線の進化が宇宙に何をもたらせるのか、ということを描いていたと思いますよ。
中島:なるほど。では『アーク』最後の拓馬とカムイの対決が、その終着点だったということですか。
石川:そうですね。物語の終着点はそこですね。でもやりたかったことで言えば、ドラゴンの掘り出しですね。このドラゴンが復活して、エンペラーへの進化を始めるワケですよ。ゲッターロボだけの進化の世界が待っている。

ゲッターロボ全集 32-33p

「八紘一宇」という言葉がある。第二次世界大戦中の大日本帝国が大東亜共栄圏の理屈として使ったスローガン。
結局、現実の歴史においてそれは日本╱天皇を支配者とした植民地支配の建前にしか過ぎなかった言葉。
神武天皇を祭神とする神社、橿原神宮の『橿原神宮について』には下記のように書かれているらしい。

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。

https://kashiharajingu.or.jp/about

この解釈が正しいのかも一般的であるのかも私にはわからないが、もしもこの文面を真の意味で成すことができたなら(もちろん生きている神や支配者は無しで)個が個を尊重し共存する事ができれば、話は違っていたのかもしれないと思う。

作中、拓馬と獏「以外にも」ゲッター線の子供たちが生まれているという描写がある。
これを踏まえれば、彼らをどうにかすればいいというだけの問題ではなく、全人類が考え続けなければならない問題でもある。他者を尊重しての「共存」なのだから、当然ではあるのだが。

また、エンペラーに竜馬の記憶はあっても竜馬の魂は表面化していない。
エンペラーに残る竜馬の魂を顕在化できるのは、同一人物であり愛するものだった隼人ではなかろうか。
(根拠としてはアーク3巻128p以降の「糸がつながっていれば」の武蔵の台詞から一連のシーン。
エンペラー内の竜馬が拓馬を感知する→竜馬≒隼人なので隼人が感覚的にだろう状態を把握していて助けたいと願う→隼人がああ言ってたから助けに来た、と読み取れる)
未来世界にもやはり三つの心は揃っていない。
拓馬=ゲッター線が個の重要性を理解し、同化ではなく共存という個を保つ形を取った時、もしくは、なんらかの条件を満たして隼人がゲッター線に干渉するか還った時、
ようやく三つの心が揃って歪んだ進化をせずにすむ(エンペラーじゃなくなる)
というのはなかろうか。

聖獣ドラゴンや真ドラゴンは触れなかったが、ざっくりと出せる現状の個人的解釈としてはこんな感じである。
聖獣ドラゴンの話はゲッター線と人類との絶望ルートにおける共生の一形態を見せたものではあるかもしれない。他者との共存を知らないままに奪うことだけを学んだゲッター線と人類はああいった弱肉強食も極まった地獄を地上に作り出し他者を食って取り込み続け、その番人たる聖獣ドラゴンは他者を食いつくし生き延びた強者だけを、やはり今度は食う対象を他種族と変えただけの地獄である宇宙へ送る、と。
(96年に様々な作家がデビルマンを描いた「ネオデビルマン」という作品集があり、この中に石川先生の描いた一編がある。私には、とても、似て見えた)

【 終わりに~ゲッターロボサーガにおけるふたつの話筋を踏まえての未来 】

ゲッターロボサーガの表の話筋は「個を尊重し相互理解で成立する『お前たちとなら地獄を見よう、共に死んでも構わない』という『三つの心』を持って、生きる権利を踏みにじられることに極限の戦場で生き抗う若者たちの話」とでもいうのか、そういうものだと私は考えている。
しかし同時に號までの話筋を見たときに、石川先生は「ゲッターロボ」という東映版をも含めた総合的な意味での作品の裏筋を「竜馬と隼人の愛情の話」と捉え、ゲッターロボサーガにおいては「一号機乗りが恋愛や性愛を超越した深い愛情を二号機乗り(とその生きる世界)に向け、二号機乗りはそれを受け取って生きる話」(そう書けば號と翔もそうなる)と描いていたと考えている。
(エンペラーは人類を守ろうとする竜馬の強い意思が歪んだ存在というアニアク特典ブックレット内の話が本当ならば、元は人類≒隼人か隼人の残したものを守ろうとして、という可能性も出てくる)

そのため、「漫画版ゲッターロボアーク」という物語を「ゲッターロボサーガ」の流れにするならば、「拓馬が個の重要性を理解し他者との相互理解を学んで世界への愛情を獲得し三つの心を学んだ上で、カムイに恋愛や性愛を越えた大きな愛情を示して和解し、他種族との共存を果たして以下省略大団円」となるのが無難な筋ではないか、と個人的には思う。
(書き忘れていたが「アーク」「キリク」「カーン」という機体の名前はそれぞれ「大日如来」「阿弥陀如来」「不動明王」を表し、それぞれに意味を持つ。それとも符合する話筋になると思う)
東映版は隼人(の心)を取り戻して大団円だったのだから、漫画版は未来が変わり竜馬の心を取り戻して(個が存在する状態になれば歪んだエンペラー進化せずに三つの心が未来に揃う可能性も出てくる)大団円になれば、無印からの原典の流れも綺麗に回収ともなるだろう、という。(東映版と漫画版は竜馬と隼人で入れ違いの内容を組み込んでいることが多かった)

ただ、その道が簡単ではないこともまた確かである。
ゲッターロボサーガ内でも争いは繰り返されていたし、アークにおいてもアンドロメダや、恐竜帝国も最初から自分達の支配のために人類を抹殺するつもりであったろうことは作中明かされている。
あの三人の中で唯一理性があった、と読み取れるカムイは「全ての生命のために」ではあるが、やはり人類を滅ぼすという選択をする。
歴史を振り替えれば理由如何はともかく事実として戦争は終わることはなく、幾度も繰り返され、今この瞬間に至っても人類は争うことをやめられない。
アーク作中の様々な生命もあのままであるならば争うことを繰り返し続けるだろう示唆は既にされている。
争うことが「本能」だというなら、それを「理性」の力で押さえ込めるだろうか。全ての生命が個として等しく生きられる世界は訪れるだろうか。
「それでも、諦めるわけにはいかないのだ」という石川先生の意思が、願いのようなものがそこにあるような気が、私にはするのである。


考えをまとめるためにひたすら呟いていたところ、こちらの記事を教えていただいた。いつか「平和」な世界が訪れることを私も望んでやまない。



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