休業して気づいた本当の育児
二人目の子供の誕生に伴って、2021年10月に育児休業を開始して5ヶ月。育児に専念して分かったことは、「育児」の幅広さと奥深さ。7年前から長女に対し、自身が鼻高々に行っていた育児は、育児という壮大なプロセスのほんの一端に過ぎなかったと気づきました。
そして、その気づきは、単に「育児は大変だ」という感想以上に、育児に対する自身の向き合い方、ひいては、男性育休を当たり前の世の中にしたいという強い思いへとふくらんでいきました。
今回は、育児に専念することが、私の「育児観」に及ぼした変化をほどいていきます。
育児っぽいタスク
私が初めて親となった7年前、この子が素晴らしい人生を歩んでいけるよう、私に何ができるかを考え始め、仕事に育児に、私なりに、必死に精力的に取り組んでいたことを思い出す。
毎日、娘をお風呂に入れるために、できる限り仕事を早く終えて帰ったり、普段は、ミルクを作り、ミルクをあげ、おむつを替え、着替えをさせて、いっしょに遊んで、寝かしつけ、という具合。これらの作業は、全部その効果として赤ん坊が泣き止んだり、満足な表情を示すこともあり、自分でもそれなりに育児している気になっていた。
でも、改めて育児に向き合うと、過去自身がしていたような育児は、育児のほんの表面的な一部分に過ぎず、まさに、「育児っぽいタスク」だったことに気づく。たとえば、昨日はなかった湿疹を見つけたり、今日はミルクをあまり飲まなかったり、コロナ禍でも児童館に行くべきか悩んだり、表に出た作業の裏に、膨大な種類と量の心配と検討と決断がある。それらすべての総体が育児であり、育児に専念することは、毎日大小さまざまなその決断を繰り返すことにほかならない。
仕事では、「我々の組織のミッションは何か」とか、「この提案の目的は何か」を考えることを常としていた。育休で育児に向き合って初めて育児のミッションを考えると、
「この子が健康で、快適で、幸せな生活を送ること」
おむつ替えやミルクなど表面的な作業とともに、日々の大小さまざまな心配と決断なども含め、すべての育児は、このミッションを達成し続けるためにある。
よく考えれば、ミッションや目的を自分で考えられない仕事にやりがいなんて生まれない。それと同じように、受け身ではなく主体的に育児をしてこそ、子が健康でいること、快適でいること、幸せでいること=育児の歓びに触れられるのかもしれない。
育児を「分担する」ことへの違和感
この育児の幅広さとミッションへの気づきは、同時に、そもそも、「このミッション、一人で完遂できるの?」という疑問も湧いてくる。前回のnoteのとおり、今のところ、育児休業を女性がとることが日本社会の「当たり前」で、男性育休は「当たり前」ではない。
つまり、現在の日本社会では、多くの子育て家族で、育児の大きなミッションを母親一人が主として負い、父親はそのうち表面的な「育児っぽいタスク」を部分的に担っている。また、祖父母、保育所やシッターなどタスクの多くを、父母以外が担うことも多いだろう。しかし、上記で述べた表(オモテ)のタスクの裏にある大小さまざまな心配と決断の連続は、現状、母親一人で担われるケースが大半のように思う。
この育児の心配と決断は、ミッション達成を左右するほど重大なものだけど、絶対の正解はなく、しかも子の特徴によっても適切な解は異なってくる。仕事に置き換えて考えると、正解がない重大な課題に向き合い、その結果責任を負うことのプレッシャーとストレスは、経営者を除き、一人で担いきれるものではないだろう。場合によっては、その判断の結果、子が、健康でなく、快適でなく、幸せでなくなるかもしれない、大きな責任。
オモテのタスクはいくらでも分担したらいい。でも、その背景にある心配と決断、そして結果責任は、分担ではなく両親共同であたるもの。それが自然であり、私の家族での「当たり前」でありたい。
夫婦二人で育児のミッションに向き合う
オモテのタスクの分担と、正解のない育児という重大な課題に夫婦共同で向き合うこと。聞こえ方は大げさだけど、日常の一コマ一コマにこの風景がある。
たとえば、先日、離乳食開始から1か月、初めて七倍粥を作った際、「こんなにしゃばしゃばでいい?」「どのくらい柔らかくすべき?」などいろんな疑問と不安が浮かぶ。そのとき、共同で課題に向き合う妻に相談して、二人で結論を出す。恐る恐る、子どもの口に運んでみて、うまく食べたり食べなかったりの反応を見て、1人で安堵や反省をするのとは、ストレスの程度は大きく異なる。
あるいは、便秘気味の息子に、綿棒をする。この課題を夫婦で共有しているからこそ、やっと出たのがお風呂やシーツの上であったとしても、二人で後始末をしながら喜び合える。少しばかりは、「なんで今っ!!!」となるけれど。。
私たち夫婦にとって、こんな育児のあり方が心地よく、さしてストレスをためずに安心して子の成長を見守り、歓び合える。
「これがあるべき育児の姿だ」なんて大それたことは言えない。けれど、お母さん、お父さんどちらにとっても、二度と来ない0歳のその子との毎日を輝かせ、家族の幸せを強固なものにすることは、一時的な仕事の成果や、少し早い昇進や、上司や環境への忖度を前提とした信頼よりも、よっぽど価値あることのように思える。
だから、私は、母親一人が育児にストレスをためる日本社会の当たり前を変えたい。そのためには、男性が育児休業により育児に専念する機会をつくることが近道かもしれない。