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『 I'm home!/真相 』第7話・最終章・還るべき場所



 恋子を主人公に見立てて書いた俺の小説が、某・大手出版社の小説大賞を受賞したのは、それから一年後の春だった。
 
 タイトルは『ティーカップス/恋人キミ永遠トワに回れ』。
 小説家の卵で恋多き女、主人公の紅子べにこは、新しい恋人が出来たために付き合っていた恋人を毒殺しようとする、という筋書きで、殺し損ねた元彼・風夜ふうやに、
「なんで別れるんじゃなくて殺そうとしたんだ?」
と質問される場面で紅子が、
「だって、ただ別れるなんて、アリキタリでつまらないじゃない?」
と笑って答えるところが、この小説のポイントだった。
 詰まるところ、恋子が俺を殺そうとしたのも、それだったのではないか? と感じていた。
 つまり、月並みな生き方では飽き足らず、いつも刺激に飢えていて、暴走運転しか出来ない恋子の相棒になってしまったのが、ブレーキの壊れた車のような相田という男だった、と。
 何故恋子のような女が、彼女のいうアリキタリで平凡な、いつもブレーキばかり踏んでしまう俺のような男と一緒にいるのか?
 という長年抱いていた疑問の答えも、書くことによって、初めて分かったような気がしていた。
 恋子には、止めてくれる者が必要だったのだ。
 三神さんや、お人好しで直ぐに人を信じる俺のことを、好きだと言った恋子。それはきっと、本当だったと思う。そしてそれは多分、彼女がどんなに欲しても手に入らない性質だったのではないだろうか? たまに見せる恋子の無垢な笑顔を思い出すと、ふと憐れに思えた。
 だが、そういう俺もまた、思い切りアクセルを踏み込める恋子に焦がれていた。この一連の事件が起こる、その時までは。

 今思うに、あの二つの犯行でさえも、二人にとっては単に偶然起こってしまった流れでしかなく、計画性なんて、元々持ち合わせてなかったのではないか? そんな気がした。

 悪気が無い。だからこそ恐ろしい二人だった。

 タイトルの『ティーカップス』というのは、紅茶を入れるティーカップと、遊園地にあるクルクル回る遊具のティーカップを掛けたもので、何人もの男を翻弄して手玉に取り、紅茶で毒殺しようとする紅子の様を、人を乗せてクルクル振り回すティーカップのような魔性の女である、という意味を込めてつけていた。
 それからもう一つ、サブタイトルの〝恋人〟というのは、〝恋子〟と、相田の名前、〝愛人よしと〟から一文字ずつ取っていた。

 そして俺が一番気に入っているのは、クライマックスで、風夜の新しい恋人、震災から立ち上がった港町で暮らす少女・ひかりが、紅子と対決するシーンだ。
「風夜、そんな退屈な日常に満足して暮らせるなんて、あなたはやっぱりアリキタリな凡人ね。だから三流の小説しか書けないのよ!」 
 そう叫ぶ紅子に、光が放った台詞には、俺の思いの丈を全て込めていた。「三流の小説家はあなたよ! アリキタリな凡人なんて、何処にも居ないんですもの! 今ここに生きている事がもう奇跡で、この世に居る全ての人が、場所が、生き物が、全部特別なのよ! 誰にも何にも取って代われない、特別な命なのよ! その命が、揺れて笑って、泣いて怒って喜んで……そんな一瞬、一瞬の積み重ねが、あなたのいう日常なのよ。無事に生き抜いた、奇跡の〝今日〟なのよ。 そんな事も解らないなんて、あなた、本当に作家なの? なんて浅くて可哀想な人なの? 地の果てまで行って探し回るといいわ。きっとあなたには、何も見つからない」
 大切な台詞だった。何より、これはいつか、俺自身が爽香から貰った気づきだったからだ。 

 事故の後、まだ東北の海に暮らし始めて間がない頃、にこにこしながら、穏やかで単調な日常を繰り返しているだけに見えた爽香に、俺は古臭い、ステレオタイプの浅はかな質問を投げかけたことがあった。
「さやちゃんは若いのに、もっと、東京とか、都会に出て挑戦してみよう、と思ったことはないの? つまらなくない?」
 俺の質問に、爽香は言った。
「ちっとも! だって、ぜーんぶ、失くなって、ゼロからまた作り始めたんだから、わたしたち。毎日が挑戦みたいなものなのよ」
 あの時、俺は自分が堪らなく恥ずかしくなった。
 爽香は、津波で母親と弟を亡くしていた。
 俺は、この東北の海の、〝今〟しか知らなかった。
 そしてそれは、0からでもなく、家も、思い出も、愛する家族の命さえも失った人々が、マイナスから築き上げてきたものだったのだ。
 過酷な日常。
 震災が残していった爪痕の中で、笑って生きることがどれだけ大変なことか……! それに突然気づいて、俺は胸が潰れそうになった。
「ごめん! 俺……」
 察したのだろう。言葉に詰まった俺に、爽香は優しく微笑んで、言った。「いいの。大丈夫。わたしね、こうして綴さんに会ったのは、わたしがここに生まれ育ったからだ、って、そんな気がしてるの」
 生きる、ということの本当の意味さえ知らずにいた俺を、軽蔑することも馬鹿にすることもなく、真っ直ぐな目で気づかせてくれた爽香に、俺はその時、深く感謝した。
 すると爽香は、初めて事故の日の話しを始めた。
「綴さんが車の前に飛び出して来たあの夜ね、病院のベッドの上で苦しそうに魘されながら、助けを求めるようにあなたが伸ばした手を、わたし、思わず握っちゃったの。何故か『この人を此処に残して帰ってはいけない』って、そう思ったの。それでお父さんに、『連れて帰ろう』って言ったの。そしたらお父さんも、『そうしよう』って。『握ってあげられる命があってよかった』って、泣いてた」
 俺は驚いて、暫く言葉が出なかった。

 それが爽香に、尊敬の念と共に好意を抱いた最初の瞬間だった。
 それ以来、俺はこの場所で、大切な事を一つ一つ教わっていった。
 中でも、全てを奪い去られ、その恐ろしさを嫌という程思い知らされた筈の海を、住人が、尚愛して止まない姿に心打たれていた。
 彼らは、どこにもぶつける事の出来ない怒りや悲しみ、葛藤を抱えながらも、恐ろしさと共に、海の持つ、深い優しさや有り難さを忘れられないのではないか。そんな風に感じた。
 ただ笑って暮らせる日々の奇跡と重みを知っている人々。彼らはそれを取り戻すのではなくて、海や自然に寄り添い、その一部となる事で、新たに築きあげていこうとしている。実直に繰り返される彼らの日々の営み、俺はそこに、人としての尊厳と、生きる美しさを見て震えた。

 俺は、恋子に対する愛憎劇で書き始めたこの小説が、今は逆に、沢山の気づきと感謝を与えてくれていることに、驚きを感じていた。そして、それが、恋子に対する憎しみを消しただけでなく、憐みと感謝さえもたらしていることにも。
 愛する家族と笑い合える毎日を築くために励んできた父の、平凡な暮らしや俺のことを、アリキタリでツマラナイ、と思っていたのは、恋子よりも、寧ろ俺自身だったのではないか?
 そんな風に思った。 必要があったから起こった、とは流石に未だ言えないが、俺には、今回起きた全ての事には、何か、意味があったとしか思えなかった。

 授賞式の壇上で、司会の男性がマイクを向けて聞いてきた。
「今、どなたかに、伝えたいメッセージなどございますか?」
「あ、はい。それでは以前の彼女に、ありがとう、と。君のお陰で面白い話が書けました。そして今、彼女のティーカップに乗っている可哀想なそこの彼、君はせいぜい振り回されるがいい! くれぐれも振り落とされないよう、しがみついてろ! 以上です」
 俺が笑顔でマイクを返すと、司会の男性は苦笑いをしながら、
「ユニークなコメントを、ありがとうございました」
と、急いでその場を締めた。

 賞を貰った後も、俺と爽香の穏やかな日常はほぼ変わらなかった。 ほぼ、というのは、爽香がクレヨンで絵を描き始めたからだ。
 例の小説を書き上げた事で、俺は以前よりもずっと、自由に書くことが出来るようになった。
 仕事の昼休みや終業後、波の音を聴きながら、俺はマメにメモをとることが増えた。まるで、記憶を失くして創作から離れていた時間を取り戻すかのように、閃きや気づきが、次々と押し寄せていた。
 そんな俺の横で、爽香は鼻歌を歌いながらクレヨンで、海や空、魚のおこぼれを貰いにやって来る野良猫の絵を描いたりした。
「前から絵が好きだったの?」
 俺の問いに爽香は笑って答えた。
「ゼーンゼン! 前はどちらかというと嫌いだった、下手くそだし」
「え? なんで? いい絵じゃん!」
 俺は驚いた。
「色がとても鮮やかだし、なんていうか、動きがあって、見てて楽しくなる! あぁ、この子は海が好きなんだなぁ! って思う」
「ありがとう! 嬉しいわ!」
 爽香は笑って答えた。
「多分ね、嫌い、っていうのは嘘だったと思う。小学校の図画の時間で絵の具を使い出した時、クラスの男の子に『キッタネェ!』って笑われたの。嫌いだ、って言ってる方が傷つかなくて気が楽だったんだね、きっと」
「ひどい奴だな! 子どもの頃って、特に残酷だからな。何も考えないで人を傷つける」
 俺の言葉に爽香は言った。
「うん。でも、正直ずっと忘れてたの、そんな事も。綴さんに会うまでは」
「えっ? 俺?」
「そう。だって、何か書いている時の綴さんって、すっごく嬉しそうなんだもん。『あ、いいなぁ!』って思った」
 俺は胸が熱くなった。
「そしたらね、急に海が描きたくなったの。で、思い出したの、クレヨンで描いていた頃のわたしって、絵が好きだったなぁって。そしたら、何にも考えずにクレヨン買ってた」
 そう言って爽香はえくぼを作ってクスクス笑った。
 俺は、爽香のえくぼを指でつついてから、子どものように笑う身体を抱き寄せると、ギュッと抱きしめた。
 愛しくてたまらなかった。
 爽香が。
 ただ書きたくて堪らない自分が。
 この子は、俺を呼び戻してくれたんだ。俺の本当に在るべきところへ。 『ただいま!』 俺は、そう心で叫んでいた。
「痛い、イタイ〜」
 よほど強く抱きしめていたのだろう。爽香が笑いながら言った。
「あ、ごめん、ごめん!」
 その日、俺と爽香はずっと、どちらからともなく、『楽しいね!』と言い合いながら笑った。
 俺たちは描く。
 それは認められるためでも、自分が凄い奴なんだ! と証明するためでも、何者かになるためでもなくて、ただ描きたいからだ。
 そして書きたくなるほど、『生きていることが素晴らしい!』と思っているからだった。
 そう思える程、素晴らしい環境と人に出会えたこと、そしてそれに気づけた自分に、俺は今とても感謝している。

 防波堤からの帰り道、爽香と肩を並べて歩く俺に、久しぶりにあの声が聞こえた。
〝よかったろ?〟
 今では、それが魂の声だと解っていた。『うん、よかった! ありがとう! 俺を信じてくれて』俺は魂に言った。
〝アイツに何か言ってやらなくていいのかい?〟
 魂の声が、影を見るように俺に促した。
 見ると、寄り添って帰る俺と爽香の長い影が目の前に伸びていた。
 爽香の影の隣で、俺の影は、少しばかりきまり悪そうに揺れた。
『おい、影』俺は心の中で呼びかけた。『どうだ? 俺は強くなったろ?』
 すると影は言った。
〝ああ、だがそれはお前の力じゃない。その子の力だ〟
 俺は笑った。
『確かに。お前もたまには正しい事言うんだな』
〝おや? ムキになって怒らないのか?〟
 影が聞いた。 俺はまた笑いながら言った。
『怒らないさ。だって本当のことだもの』
〝ほう?! ……大きくなったな!〟
 珍しく影が俺を褒めた。
〝愛の力だ〟
 魂の声が言った。 そして俺と影と魂の三人は、一緒に笑ったから、思わず表に声が漏れた。
「え? 何? どうかした? 綴さん」
 爽香が不思議そうに聞いた。
「あ、いや。『幸せだなぁ!』って言ったのさ」
 俺の言葉に爽香が言った。
「私もよ」
 今度俺たちは(俺と爽香と、二人の影と魂は)、皆で一緒に笑った。
 沈んでいく夕陽と温かい幸せが、辺りをオレンジ色に包んでいた。

 数日後、出版社から、俺宛の品だと言って〝届け物〟とやらが転送されてきた。 『お祝い』と書かれた熨斗の貼られた箱を開けると、綺麗に包んだ小説の束が出てきた。
 タイトルは『上る満月、堕ちる三日月〜おかわりをどうぞ〜』。 作者は『月詁恋子つきよみれんこ』とあった。
 丸顔の俺とシャープな顎を持つ相田をネタに、小気味のいい文体で書かれた恋子の小説だった。
 俺はその原稿を手にしながら呟いた。
「そう来たか、恋子! しぶとい奴め。まぁ、いいさ。何度でも来るがいい。目が覚めるまで叩きのめしてやる! 力作でな!」

 俺と恋子の、生き様を懸けたバトルの鐘の音は、暫く止みそうにない。


#創作大賞2024
#ミステリー小説部門

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