欲求と意思と自由
三日間継続宣言をしておきながら、早速次の日に更新しなかった、どうも僕です。
何というテイタラク。まぁ平常運転なわけで。
言い訳をさせていただけるのであれば、僕は今、ネットが使えない環境にいる。ネットがないとは何とも不自由なもので、普段できている普通のことが、なんだかレベルが五段階ぐらい上がった、超難関のハードモードに感じられる。
さて、そんな不自由な僕が今日一日考えていたこと、それは‘‘自由’’について。
フジユウフジユウと先程からこぼしている僕であるが、そもそもジユウについて恐らく何も分かっていない。
今までの、僕の自由の最たる象徴とは「二度寝、三度寝」であった。だってすごい気持ちいいんだもの。
ところが最近、とある本をよんでどうやら僕はあるモノの支配下におかれている事に気付いた。それは‘‘欲求’’だ。
欲求と‘‘意思’’とは別物である。確かに思えば、僕の意思は欲求によって搾取され、なかったことにされる事が多い。前夜に「早起きしてアサカツをしよう」などど思っても、部屋中に響くアラーム音とともに、甘い声をした欲求が僕の耳元でそっと囁き、僕は二度目の深い夢の中へと誘われていく。そして気がつくと不思議と時間が進んでいる。その度に思うのだ。「次こそは」と。
僕達は人生のほとんどを何者かの支配下で過ごす。親、学校、会社、地域、国…。こうした外的からの支配に対しては過剰なまでの嫌悪感を示すのだが、どうも自分自身からの支配に対しては、違うようだ。もっというと、支配されていることにも気づいていないのかもしれない(僕のように)。
僕はどのくらい自分の意思に基づいて行動してこれたのだろう。ここ一週間だけでも振り返ってみると、自分がいかにマリオネットなのか、よくわかる。人生100%己の意思で決めてきた、という人間がいるのなら見てみたいものだ。ついでにどうすればそんな風になれるのかも聞こう。
だが、残念なことにそんな人間はこの世に存在せず、故にそうなる方法を知る者もいない。だから、圧倒的に力不足ではあるが、自分自身に言い聞かせる意味も込めて、僕なりの考えを。
「僕らは常に支配されている」
こいつをいつも自覚していよう。
僕の目の前に地図があったとして、そこに目的地が書いてあったとしても、自分がどこにいるのか分からなければ、東西南北どちらに進めばいいかなど、わかるはずがない。
今回も似たようなもんで、僕達は現状(支配されていること)をしらな(気づいていな)ければそれに対する作戦会議でさえ立てられない。作戦会議なんかやったってどーせダメだし。
で、あれば自分が今どういう状態なのかをなんとなく意識しながら生きていき、できそうな時になるべく自分の意思で行動するように、欲求と戦いながらいきていくほうが、なんだか自由になれた気がして、僕は清々しい。
明日は6時起き。現在時刻は午前3時半。きっと明日の朝も僕はマリオネットだろうけど、マリオネットであることを自覚しながらどうせならマリオネットしてやろう。で、いつもみたく「次こそは」と思おう。あれ?これじゃ意味ない?