阿波の戦国武将 板西城主 (ばんざいじょうしゅ) 赤沢信濃守宗伝 (あかざわ・しなののかみ・そうでん) とは? 1582年、中富川の戦いで討死、一子、正本法師が菩提を弔う為、得度し香川県東かがわ市小砂(こざれ)に「勝覚寺」を開基、後に三本松に移し四国唯一の閣寺院 海暁閣 勝覚寺となる! 庄松同行ゆかりの寺!
🟣赤沢 宗伝(あかさわ そうでん)とは?
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
三好氏の家臣。
阿波国板野郡板西城主。
◼️時代: 戦国時代 – 安土桃山時代
生誕: 不明
死没: 天正10年(1582年)9月
別名: 入道信濃守(通称)、崇伝
墓所: 徳島県板野郡板野町の愛染院
官位: 信濃守
主君: 三好実休、長治
氏族: 赤沢氏
妻: 三好実休娘
子: 鹿之丞
◼️生涯
宗伝は阿波守護代三好氏当主である三好長慶の弟・三好実休に仕え、実休の姪を室と迎えており、嫡子・鹿之丞、一族の「板西城三人衆」・赤沢出羽守、坂上備前守、安芸飛騍守、及び、阿部采女正(下庄)、坂東紀伊守(椎本庄)、大寺松太輔(大寺庄)、赤沢美濃守(上庄)、新開右近(西分庄)、犬伏左近(犬伏庄)、七条孫四郎(七条庄)、高輪幸内(高輪庄)を「赤沢家十二人衆」として近隣に配した。
永禄5年(1562年)3月、久米田の戦いにおいて実休が戦死すると、上桜城主の篠原長房、木津城主の篠原自遁と共に出家し、その後、実休の子・三好長治を重臣として補佐した。
元亀4年(1573年)5月、篠原長房が主君・三好長治、十河存保(長治の実弟)、阿波守護・細川真之(長治の異父兄)により上桜城を攻められ、7月に戦死した(上桜城の戦い)。
この時、長房と親交が厚かった宗伝の板西城も攻められている。
その後、宗伝は「紫雲(篠原長房)の討伐は以っての外だ。
忠節な武士を討つ事によって三好の天下も終末が近い。」と嘆き、板西城を捨て3年間高野山へ引篭ったと伝わる。
天正4年(1576年)、三好長治も細川真之と争い戦死し、十河存保が三好長治の跡を継いだ。
天正10年(1582年)9月、宗伝は、長宗我部元親が三好存保(十河存保)の勝瑞城を攻めた中富川の戦いにおいて、一族郎党を率い三好方として奮戦したが、討ち死にした。
四国八十八箇所霊場、第三番札所、金泉寺奥の院の愛染院に廟が祀られている。
◼️中富川の戦いとは?
◼️板西城跡 (徳島県板野郡板野町古城城ノ内)
◼️赤沢宗伝没後
●海暁閣 勝覚寺
阿波の国 三好氏落城のとき、その家臣であった板西城主・赤沢信濃守宗伝は討ち死にし、その長子・正本法師は菩提を弔うため、大坂天満 興正寺で証秀上人について得度し、天正十年(1582)、丹生村 小砂に一宇を建立したのが勝覚寺の始めとされている。
古い安楽寺末寺帖にも小砂 勝覚寺とあり、追記事にも三本松勝覚寺とあり、貞亨元年(1684年)に第九世・願故法師は、小砂坊を三本松に移し、堂宇を建立し、港町三本松の発展とともにその勢力をひろめ、今日に至っている。
開基以来四百年の法灯を継承している。
なお、本堂全面の扁額「海暁閣」を二十世融海上人が本願寺より頂戴したことにより、現在は「海暁閣」を使っている。
●東かがわ市の小砂には勝覚寺門徒であった庄松同行のお墓と正真堂がある。
◼️好妙人 庄 松 (しょうま)
寛政11年(1799)~明治4年(1871)
大内郡土居村 (東かがわ市土居)生まれ。
本名・谷口庄松といい、農業の傍ら寺男として勝覚寺に出入りし、他力本願を習得した。
役僧周天の影響を受け、晩年 赤澤融海に仕えた。
鈴木大拙博士は「庄松は一般にいう
知性的な分別観からは理解できない人物だ。彼の言行からすると、小児的な心理。原始民族の心理しか持ち合わせていなかったように見えるが、それは間違いで、彼こそ無性的直覚の境地に入っていた真の好妙人といえる」と『仏教の大意』で述べ、昭和21年、天皇皇后両陛下に庄松のことをご進講の中でふれられている。
興正寺中興の祖、本寂上人にも認められ法名正真を授けられた。
一生涯独身で過ごした。
小砂に墓所があり、勝覚寺に銅像が建っている。
◼️勝覚寺ホームページ
https://shokakuji-kagawa.com
●三つ紅葉の紋は、勝覚寺第二十世赤澤融海法師(庄松同行在世当時住職、本山興正寺執事)が、多年にわたる本山に対する功績に対し、旧五摂家鷹司家より下賜されたものである。
●海暁閣 (かいぎょうかく)
本願寺第二十代御門主、広如宗主より、山号、海暁閣を賜り、四国唯一の閣寺院として、今日に至る。
●境内: 裸の大将の撮影場所にもなった😃
詳細
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以上
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