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【徳島市】瀬戸内寂聴さんゆかりの地を訪問。 実家 徳島市東大工町、生まれた幸町、城東高校、水際公園など

2025年1月3日

おはようございます。

トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。

本日は、北野うしさんの生まれ育った徳島市通町(とおりまち)を訪問した後、瀬戸内寂聴さんのゆかりの地を巡ってきました。

ビートたけしさんの祖母で明治時代に義太夫の人気スターだった北野うしさんが暮らしていた通町から徒歩5分くらいのところに、瀬戸内寂聴さんが生まれた幸町があります。

またすぐ近くの水際公園には瀬戸内寂聴さんの文化勲章受賞記念碑や生誕100年記念碑、そして東大工町には実家の瀬戸内神仏具店があります。





瀬戸内寂聴さんが生まれた徳島市幸町(さいわいちょう)




徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷豊吉・コハルの次女、三谷晴美として生まれる。

体が弱く、本を読むのが好きな子供だった。

後に父が従祖母・瀬戸内いとと養子縁組したため、晴美も徳島高等女学校時代に三谷から瀬戸内姓に改姓。


🔹徳島市役所がある徳島市幸町


東京女子大学在学中の1942年に20歳で酒井悌(1913-1992 徳島市生、のち国立国会図書館副館長)と見合いして婚約。

1943年2月に結婚し、10月に夫の任地北京に渡る。

1944年8月1日、女の子を出産。

1945年6月夫が召集、8月終戦と共に帰宅。

1946年、8月に一家3人で徳島に引き揚げ、夫の教え子の文学青年と不倫、夫に打ち明ける(晴美25歳 夫34歳 相手21歳)。

青年との関係を清算するために1947年秋に一家3人で上京。

1948年に夫と3歳の長女を棄て家を出て京都で青年と生活。

大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。

その後青年は自殺している。

このころ小田仁二郎とも恋愛関係にあった。

1950年に正式に離婚(長女とは後年出家後に和解したという)。

上京して本格的に小説家を目指し、かつての本名であった三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿、『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。

少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。

また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。

1956年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。

その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。

その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。

1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。この時期の小田仁二郎や元夫の教え子との不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。

1966年、井上光晴と高松へ講演旅行、恋愛関係になる。

1973年、井上との関係を絶つために修道女になろうとしたが複数のキリスト教施設から断られる。

そこで出家しようとしたが複数の仏教施設から断られる。そこで今東光に相談し中尊寺で出家する。

しかし出家後も肉食をしていたと語っており、また85歳のときに48歳年下のIT企業経営者(既婚者)と恋愛関係にあったという。

以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞、大衆文学の賞ともに受賞はなかった。

1988年に出した『寂聴 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。

1992年、一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞した。

『源氏物語』の現代日本語文法訳でも、その名を知られている。

2007年8月11日、館長を務める徳島県立文学書道館(徳島市)での講演で、加齢黄斑変性のため右目が大部分見えなくなったことを明かした。

2008年には、いわゆる「ケータイ小説」のジャンルにも進出。

スターツ出版が運営するケータイ小説サイト「野いちご」に、小説「あしたの虹」を「ぱーぷる」のペンネームで執筆していたことを、9月24日の記者会見で明らかにした。

2010年に脊椎を圧迫骨折し、半年間寝たきりの生活を余儀なくされる。

2014年、2度目の圧迫骨折治療中の検査で胆嚢がんが発見されたが、医師からは90歳を過ぎて手術をする人はいないと言われたものの、瀬戸内は「すぐに取ってください」とその場で決断、手術は成功。

通常使用量の倍の薬でも収まらなかった腰の痛みは、がん騒動のうちに忘れていたという。その後復帰。

2015年11月4日には、テレビ朝日「徹子の部屋」に出演。

入院中には激痛に耐えかね、「もう神も仏もない」と語った逸話が明かされた。

番組では、がんは完治、痛みも全くなく酒を飲んでいると語った。

2021年11月9日6時3分、心不全のため京都市内の病院で遷化。

享年100(満99歳没)。

訃報は同月11日に公表された。

法名は「燁文心院大僧正寂聴大法尼」。

亡くなる約1か月前から体調不良のため、入院療養していた。

日本国政府は死没日をもって従三位に叙した。

12月9日、寂庵で「偲ぶ会」が行われた。

12月21日には妙法院(京都市東山区)で本葬が営まれ、細川護熙元首相が弔辞を述べた。

2022年7月26日『お別れの会』が東京・内幸町の帝国ホテルで行われ、287人が参列した。



瀬戸内寂聴さんが通った徳島県立城東高等学校の場所と偏差値

徳島県徳島市中徳島町一丁目にある公立高等学校である。

前身は1902年(明治35年)創立の徳島県立高等女学校(略称は徳女)。








瀬戸内寂聴さんとは?




瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう)

1922年〈大正11年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉11月9日

日本の小説家、天台宗の尼僧。

位階は従三位。

俗名:晴美(はるみ)。

僧位は権大僧正。

1997年文化功労者、2006年文化勲章。

天台寺名誉住職、徳島市名誉市民、京都市名誉市民、二戸市名誉市民。

天台寺住職、比叡山延暦寺禅光坊住職、敦賀女子短期大学学長を務めた。


作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数。1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。

大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家である。


瀬戸内寂聴さんの法話




瀬戸内寂聴さんが生まれた幸町から文化勲章受賞記念碑がある水際公園



瀬戸内寂聴さんの文化勲章受賞記念碑





瀬戸内寂聴さん生誕100年記念碑

(文化勲章受賞記念碑のすぐ近くにある記念碑)




徳島市幸町から東大工町の瀬戸内神仏具店


瀬戸内神仏具店 徳島市東大工町2丁目

🔹公式HP









瀬戸内寂聴さんの実家から北野うしさん(ビートたけしの祖母)の出身地 徳島市通町にある事代主神社




瀬戸内寂聴さんの父の出身地 東かがわ市黒羽




プロフィール


モリヨシナリ

神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事。その後、香港、中国にて外資系商社の設立に参画し、副社長をへて顧問。その間、米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年間滞在。

現在、Bizconsul Office 代表。ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

・観光庁インバウンド研修認定講師
・四国遍路通訳ガイド協会 会員
・トリリンガル讃岐PRオフィサー

保有資格:
【英語:】
全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点(L満点)、TESOL(英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級、他
【中国語】全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級、他
【ツーリズム】総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)、他

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