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自分探しの旅とはいうけれど・・・

古今東西言われてきた、「自分探しの旅」

映画「スタンドバイミー」のようなノスタルジックな響きと、「意識高い系」が多用していそうなうさんくさい響きが混在している。

この正体について考えてみたい。

偉そうな猫「自分なんてどこにもいないのさ」

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自分探しの旅とは何か

これは持論だが、そもそも旅先に、「自分」というものは存在しない。

スフィンクスの流線型やニューヨークの摩天楼に自分を見出す人がいるかもしれないが、それは旅が与えてくれるものではなく、自分が見出すものだ。

正確には、自分探しの旅とは自分探しではなく、『未知なるものに出会ったときに、自分がどう感じるかを確かめにいく』に近いと思う。

友人が、落合陽一氏のワークショップに参加した際、与えられた課題は、「自分の好きなものと嫌いなものを最低100個書き出す。」であったそうだ。

なにかを見たときに、何を好きで、何を嫌いと感じるかかは、自分のアイデンティティに直結する。

「自分が何者か分からない」という人間が多いが、自分が何に嫌悪し、何を好むか、理解できていない可能性が高い。

就活猫「そもそも、そんなに好きなもの書き出せないにゃ!」

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それ以前に、好き嫌いを100個、書き出せない人は、そもそもの体験が足りていない。

好き以前の「体験」

野球をやったことも見たこともない人間が野球を好きだと思うことはない。
また実際にやるのと、見るのとでも大きく違う。

映画を好きな人も、撮影が好きなのか、音声が好きなのか、編集が好きなのか、評論するのが好きなのか、下準備が好きなのかで全然違う。

行動する→物事に出会う→好きか嫌いか、自分の中で言語化する。
(言語化が難しければ、友人や家族に助けてもらう)

この繰り返しがやりたいことにつながる。

それぞれの遺伝子がなにを好きで、嫌いと判断するかは、そのままアイデンティティだ。

その際、その好き嫌いを人に委ねてはいけない。

みんなが好きと言ってるもの、同じように好きと言ってみたり、逆に、みんなが好きと言ってるから嫌いと言ってみたりすると、自分のアイデンティティを手放すことになる。

だが、人間は誰かしらから影響を受けるもので、それも含めて自分だ。

まとめ-自分探しの旅とは何か?

その中で、旅とは、「行動する→物事に出会う→言語化する」の流れに当てはめると「行動」にあたる。

行動だけで終わってしまうと思い出以外得るものはない。好きか嫌いか、自分の中で言語化する。それが血肉になる。

言語化が苦手であれば、おすすめは友人や恋人との1週間程度の2人旅だ。
できれば、自分とは違う価値観を持っている人が望ましい。

旅は生活に直結する。

朝のルーティン、アラームの音、歯の磨き方、睡眠時間、風景への感想、それぞれ微妙に違ってくる。

その差異が、自分を見出すヒントにしてくれる。

自分の友人は、旅=to do リストに近かった。
絶対に見ると決めたものや、やると決めたことはなにがなんでも遂行していた。
それに巻き込まれ、関門海峡を歩いて渡ることになった。
だが、結果的にそれは良い経験だったし、自分の妥協しがちな性格を思い知った。

自分は熱中すると周りが見えなくなる。
電車移動中、ずっと作業をしていたが、熱中すると何千字でも、書くことができた。
自分の中では当たり前のことだったが、友人からは希有なものに見えたらしい。

ペリー来航以前、自分が日本人であるという意識は希薄だった。
〇〇藩の人間という意識が強かった。
しかし、異国と接することで、日本人意識が芽生える。

それとほぼ似たような現象が旅で起こる。
そして、自分の好き嫌い、ぼんやりとしていた性格が徐々にわかるようになってくる。

自分探しの旅とは、自分の好き嫌いを探す旅。

見たものを言語化した先に、好きなことや、やりたいこととの出会いが待っているのではないでしょうか?

今回はこのへんで。
皆さんの良き旅を祈ってます。

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