仙臺古談
其の伍繪 : 『 雛姫様伝説 』の事。
戦国時代の頃、奥州 • 千代に伝わった伝説です。
千代とは現在の宮城県仙台市の事を指すと謂れます。
今は宮城県の県庁所在地として、また東北の中心都市として市街地に高層ビルが林立する土地となりましたが、今からおよそ四百余年前の慶長五年、独眼竜と呼ばれた仙台藩祖 • 伊達政宗がこの地に城下町を開府するまでは一面の大湿原野であったと云われます。
そんな伊達政宗が仙台に登場する以前の頃の広瀬川のお話です。
その頃の広瀬川の流れは現在より水量も豊富で速かったとの事で、流れが蛇行する淵の数だけでも千余りもあったと云われています。
そのすべての淵ごとには観音様が守っておられ、近くに住む僅かばかりの土地の民と共に生活を営んでいました。
土地の民は自分たちを守ってくれているという恩恵に感謝して、土地の家々の中から三人の娘を選んで身の回りの世話をするために巫女として観音様が住むと云われる淵々にある小さな東屋に毎日遣わしていたそうです。
三人の巫女のうち、一番上の娘は派手な衣装の伊達娘であり、腰には太刀を帯びており、そして二番目の娘は三宝を持ち料理が上手く、また最後の末娘は踊りと神楽笛が上手で、三人の娘は共に野に咲く藤の花の様に可憐であったと云われています。
そんなある年の事、近隣の豪族の勢力がこの土地に攻め込んで来ました。
領民が力を合わせて戦おうとした時に、広瀬川の淵々の観音様たちも姿を現し、領民と共に戦いましたが力及ばず、領民は悉く討ち死にしてこの土地を守りきる事が出来ませんでした。
そればかりか、攻め落とされた現在の仙台城に近い淵に住む観音様の一体が豪族の目に止まり、遂には仙台城に近い青葉ヶ崎で身籠ってしまいました。
この時、自ら純粋に欲したものが観音様を一人の女性に変えてしまったのです。
これを期に周囲からは観音姫と呼ばれる様になり、果して出産時に体内から生まれ出たのは人間の御子ではなく、一体の虚空蔵菩薩様でした。
この出来事を前後として、この地に流行り病が蔓延して、攻め込んできた豪族を始め殆どの家臣が死に絶えてしまったそうです。
あとに青葉ヶ崎に残った観音姫と虚空君は人間の病に死ぬ事も叶わずに、傍に仕える三人の巫女たちと暮らしていましたが、そのうちに観音姫は元の生活が懐かしく思う様になり、巫女たちを通して広瀬川河畔の淵々に残る観音様たちに皆のもとに戻りたい事を伝えますが、観音様たちはすでに人間界のお姫様になってしまった観音姫を受け入れる事は出来ませんでした。
それを三人の巫女たちから聞いた観音姫は自らの運命を嘆き悲しみ、御子である虚空君を伴い青葉ヶ崎の奥院で命を絶とうと千日の願をかけ、遂には腹に太刀を突き刺し体内の人間としての血を流し尽くそうとしましたが、虚空君を刺す事が出来ずに自らの流れる血の中へ放り投げてしまいました。
自らの血溜まりの中へ放り投げた虚空君が撥ね上げた血飛沫が桃の花びらとなって広瀬川へと舞って行ったと云われます。
その桃の花びらはやがて九百九十九体の虚空蔵菩薩となって、観音姫の忘れ形見の虚空君と共に仙台の地名ともなった千躰仏としてこの地を守るために後に今の仙台城本丸に祀られ、その後、経ヶ峰を経て、今も向山 • 虚空蔵堂に残り仙台の人々を見守っているのです。
千代の地名はこの事で千躰仏、つまり千体と変わり、その後、伊達政宗が仙台入府の際、中国の西安の西にある丘の名を採って仙臺としたとされるのです。
お話にもある様に、三人の巫女は三人官女、桃の花びらは桃の節句を表わし、血なまぐさい内容もありますが、お雛様の話だと思われます。
また藩政期、江戸の中期まで仙台の伊達家では雛飾りのうち、三人官女は太刀 • 三宝(盃) • 龍笛を持って、すべて立ち姿で舞を舞う姿をしていたのだと云われています。
その伊達家の雛飾りを見た他家の大名たちは皆口を揃えて、
『 仙台様ではお雛様まで伊達者よ 』
と言わしめたと伝わっています。
ずっと昔、小さい時に聞いた仙台のひとつのお雛様のお話です。
ー 続く 。