【2024年2月下書き】矜持について
世界に心を許しすぎるとなにも生み出せなくなってくる。
生み出すという行為は、世界と自分の差額を排出するということだ。
自分が世界の方に歩み寄ることを止めない限り、なにも生み出せず世界の潮流にただ飲まれていく一方である。
それでいいのかと問われたときのことを考えてみる。
今の私は確かに世界にかつてないほど近づいていて、生み出したい、捜索したいと思うエネルギーがかなり不足している。
そもそも私の中に創作欲というものが備わっていたのか、はたまた失ったもののプライドだけで作っていたのかもわからない。
ただ、惰性で生み出すことを否としていることは確かだ。それは描いてないとやってられないことが稀に起こるようなイベントと化したこと、また自分のこだわりに対しての執着の薄れがある。今度は、生み出すことに対してもっと社会性を持たせたい。人に見せる、人に使ってもらうことを前提としたものを作り出したいと思う。余裕が出てきた。本当になぜか最近余裕が出てきた。多分、無様で晒したくないと思うような自分の姿を見せたり、予想外に受け入れられたりしたからだと思う。あと、そういう存在を間近に見て関わることが出来たから。
遊びと作品の違いに自覚を持ちたい。あと、きちんと作品を作りたい。作品に対しては今まで通り厳しくありたい。
もっと吸収するべきだ。もっと学ぶ。と言いつつ、この部分が実はしっくりきていない。ふわっとしていて身になじまない。私にとって学ぶということは、正解の模倣の繰り返しに近い。反復。
正直、何事にも必要なのはエネルギーだと思ってる節がある。学習じゃなくて。学習なんて不要でいてほしいとさえ思う。なんか違和感を指摘してもらって、寝て起きたらなんかできるようになってる、みたいな魔法を常に期待している。枠組みに対する好奇心はあるけれども、それを深掘りする好奇心はない。マスターしようとする気持ちが一切ない。
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