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キース・ヘリング:アートが社会を変える力

現在、兵庫県神戸市にある、兵庫県立美術館にて、
「キース・ヘリング展」が公開中となっています。
今回、キース・ヘリングの作品展示を見てきたので、
そこで学んだその生涯と、アート作品について触れたいと思います。

キース・ヘリングとは

幼少期

キース・ヘリング(1958-1990)は、アメリカのペンシルベニア州レディングという街に生まれました。
彼の父親が漫画家だったため、キースは幼少期から絵を書く事に興味を持つようになりました。
1976年、彼はアイビー・スクール・オブ・プロフェッショナル・アートに入学し、
そこでグラフィックデザインを専攻し、本格的に絵の勉強を始めるのですが、
グラフィックへの価値を見いだせなかった彼は2学期には中退、
その後、ニューヨークへと移り住みます。
そこで彼は世界的アーティストとして開花する事となります。

ニューヨークへ

1980年、彼は「サブウェイ・ドローイング」という、
パブリック・アートの制作を開始しました。
1980年当時、アメリカは不況の最中、
景気が悪くなるにつれてニューヨークの地下鉄に広告を出す企業も少なくなってきます。
そんな中、彼は地下鉄の空いている広告掲載欄の黒板に、
チョークを使ったアートを制作し始めます。
ニューヨークで老若男女、多数の人に作品を見てもらえる、
そんな場所に最適なところはどこかと考えた結果、
彼は地下鉄を選びました。
アートが富裕層のための所有物になっていった時代、
彼はアートは万人が楽しむ事ができるものとして捉え、
その広告が貼られていない黒板を見つけては、
そこにチョークで大きくアートを制作しました。
もちろん公共の場に落書きをする事は法律に触れる行為です。
時には駅員に見つかり、急いで逃げ出す事もあったとか。
チョークでのアート制作は簡単に書き上げる事ができるので、
数分のうちに書き上げる事もあったそうです。

個展を開催

その後、彼は自身のアートの舞台をストリートからギャラリーへと移します。
1981年には初の個展を開催、
その後も様々な国で個展を開催していきます。
それとともに、様々な広告ポスターや、
アーティストのアルバムジャケットのデザインなども手掛けます。
80年代の様々なアーティストとの交流も合わせて、
彼はアメリカ、この時代を代表するアーティストへと一躍有名になっていきます。

ポップショップの開店


キース・ヘリングはアートは「富裕層のためのアート」ではなく、
「大衆のためのアート」として、
より多くの人々に彼の作品を提供したいと考えていました。
彼は自身の作品をより多くの人へ身につけてもらえるよう、
ポップショップを展開。
そこで自身の作品をモチーフにしたグッズなどを販売し始めました。
東京、青山にもポップショップを展開して、作品を販売していました。

晩年

ゲイカルチャーが勃興していた時代、
しかしまだ世間にはLGBTQ+への風当たりが厳しかったのですが、
彼は自身をゲイと好評しており、アートを通じてLGBTQ+の世間への認知を広めようとしていました。
しかし1988年、彼はエイズと診断されます。
翌年の1989年には、エイズに関連する団体や、子どもたちへの教育プログラムへの資金提供を行う、「キース・ヘリング財団」を設立します。
そうやって自身の命がいつ終わるかわからない恐怖の中、
世間へのエイズへの認識を広めようと活動を行っていました。

1990年2月16日、エイズによる合併症のため、
31歳の短い生涯を閉じました。
彼の活動期間はおよそ10年ほどですが、
数多の作品を制作し、今も多大な影響を残しています。

この展示の晩年の部分で使用されていた言葉ですが、
彼の言葉で印象的な言葉があります。

僕の命は
あと5ヶ月かもしれないし
5年かもしれない。

わかっているのは
僕の命は
いずれ終わるってこと。

だから僕にとっては
今が大切なんだ。

命が終わるまでに
出来る限りのことをことやりたい。

人々の心に残る
アーティストこそが
本当のスペシャリストなんだ。

僕は死ぬかもしれないけれど
本当に僕が死ぬことはない。

だって、僕はみんなの中に
生きてるんだから。

彼はその短い生涯をアートを武器に駆け巡ったのですが、
彼が亡くなった後も、作品は今でも人々の心の中に生きており、
これからも永遠に行き続けるのではないかと思います。
そんな彼が描いた作品、
本やポスターの印刷では見られない、本物の彼の作品を見に、
ぜひ足を運ぶのはいかがでしょうか?

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