鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)⑩〜国鉄分割民営化
昭和62(1987)年4月1日、1世紀以上にわたる国有鉄道の歴史に幕が降ろされました。この日から国鉄は分割民営化され、JR7社として再スタートすることとなりました。
国鉄は東海道新幹線が開通した昭和39年以降、毎年赤字が続き、昭和55年には赤字額が1 兆円を超えていました。借入金も雪だるま式に膨らみ、第二臨調が始まった昭和56年度の累積債務は16兆4,200億円にものぼっていました。
その臨調は、国鉄経営悪化の理由を次のように分析しました。
第一に、自動車輸送の発展に伴う、急激な構造変化に対応できなかったことです。鉄道の特性を生かした業務に特化できなかったのは、「公共性」の呪縛の為でした。
第二に、いわゆる「親方日の丸」的な経営姿勢の問題です。巨大な経営規模は管理体制の限界を超え、企業意識と責任感の欠如を蔓延させていました。
第三に、不安定な労使関係です。公立学校教職員組合のヤミ協定や悪慣行も批判にさらされましたが、国鉄においても同様の問題がありました。
そして第四に、年齢構成のひずみからくる、異常に高い人件費です。
臨調による問題点の提示は、国民にとって寝耳に水の話でした。多くのマスコミは、組合の言い分が正論であるかのような報道で、すでに破産状態であった国鉄の実態から国民の目をそらせていたからです。
国鉄当局も努力をしなかったわけではありません。しかし、昭和44 年以来何度も発表された再建計画経営改善に寄与しませんでした。最後の再建計画は、昭和60 年1月に仁杉巌第9代総裁を中心とした『経営改革のための基本方策』でしたが、非現実的とも思える「非分割・民営化」を骨子としていたため、マスコミの集中砲火を浴びました。
国鉄分割民営化に燃える中曽根康弘首相(当時)は、同年6月に総裁以下7人の役員を更迭し、元運輸次官の杉浦喬也新総裁を送り込みました。わずか1か月後には、国鉄再建管理委員会が「分割・民営化」を骨子とする意見書を首相に提出し、翌年1月には、杉浦総裁と、元革マル派の最高幹部であった松崎明動労委員長らが「労使共同宣言」を発表しました。雇用を最優先と考えた動労の一大転換でした。その後7月に行われた衆参当時選挙で自民党が圧勝し、分割・民営化は国民の支持を得ました。
JR誕生により、サービスや職員の勤務態度など、目に見えて向上した部分もありますが、新幹線のないJR四国やJR北海道など、経営環境が厳しい会社もあります。鉄道の役割が積極的な方向で見直されている中、これからが各社の勝負のときと言えるかもしれません。
連載第147回/平成13年4月25日掲載