教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第12章 王朝後期の文化②
2.織物と染物
【解説】
仲原の筆が、相変わらず飛び回る。整理するのに苦労したが、沖縄が誇る伝統工芸である織物と染色ということもあり、仲原はそれを若い人たちに説くのを楽しんでいるかのようだ。仲原は、技術向上の理由を「強制労働」ということばで説明している。本書全体を通じて、仲原は決して愚かで幼稚な左翼的被害者史観に立っているわけではないが、これは少し偏狭に過ぎると思う。例えば、ピラミッドや前方後円墳は、奴隷労働によるものだと昔は考えられていたが、今ではそれは否定されている。なぜなら、あのような精巧なものを、目的意識もなく強制されている奴隷が構築することなど不可能だからである。沖縄の誇る伝統工芸は、決して強制の為だけではなく、技術者の誇りとプライドが技能を向上させたと認めることが必要だと筆者は思うのだ。
【本文】
沖縄の織物は原料から見ると麻布、絹布、芭蕉布(ばしょうふ)、綿布の4種類あり、織物の技法としては、絣(かすり)、色染、紋織の3種類ありました。糸をつむいで布を織ることは、部落時代から行われていましたが、かすりや色染の美しいものがさかんに織り出されたのはこの時代です。
宮古・八重山の上布(細かい糸をつかったもの)は、苧麻(うま、からむし)が原料でした。宮古の紺(こん)に白の絣、八重山の白地に褐色の絣が代表的ですが、特に宮古の紺上布はきわめて精巧な織物として、今日でも名高いものです。その起源は古く、尚真王の時代には、すでに立派なものが織られていたようで、1583年頃には「あやさび」という紺細上布を王に献上しています。
絣の起源は南洋だと言われますが、沖縄に伝わった後、綿、苧麻、木綿、芭蕉を材料に、涼しげで上品なものが次々と工夫されました。薩摩への納税品になってからは、ますますその価値が認められ、人口割に生産を強制されたこともあり、デザイン、品質ともに向上して、沖縄の産物の中で最も優れたものとされました。そして、薩摩を通じて日本各地に広まり、特に色絣は「天下無類」と称えられました。その技術は沖縄の誇りと言えるでしょう。
久米島紬(つむぎ)は、繭からひいた絹糸を原料とした冬衣用で、絣、縞、無地の白布にわかれます。その起源は古いのですが、上質の紬が織られるようになったのは1832年からのことです。八丈織をよく知っていた薩摩藩士・酒匂与四郎右衛門(友寄景友)が伝えたと言われています。これもやはり納税品として、デザイン、染色など様々な注文があり、そのために品質を向上させていきました。
大島紬は久米島紬の方法を移植したもので、当時は自家用として織られていたものですが、明治になってからさかんに生産されるようになりました。
このように、先島の上布と久米島紬は、商品として発達したものでなく、王への献上や薩摩への納税など、必要に迫られたことがきっかけですが、技術者の工夫と努力によって、技能や品質を向上させていったことは特筆に値します。
綿織については、既に書いたように、儀間真常が一般に広めたものです。最初は、薩摩出身の実千代、梅千代というふたりの女性に頼んで、今の垣花、小禄の人々に木綿織の技術を教えてもらいました。その後、綿花の栽培が広く行きわたり、保温性に優れた、丈夫な着物を百姓も切ることができるようになりました。彼女たちが伝えたのは縞ものですが、これに今までの絣をおったのが紺絣で、薩摩を通じて本土にも広がりました。紺絣は、本土では「薩摩絣」として知られていますが、実は沖縄で織ったものでした。全国的に有名な福岡県の久留米絣もこれから生れたものです。
色染めは一般に紅型(びんがた)と言われます。黄、紺、水色などの生地に様々な模様を染めたもので、松竹梅、桜、アヤメ、ボタン、紅葉、蘭、菊などの植物、龍、鳳凰、虎、蝶、鶴、亀、ツバメ、千鳥などの動物から、石垣、城、田舎家、流水まで図案化し、型紙を使って染めたものです。
紅型は落ち着いた小紋もありますが、踊りの衣裳に見るような派手なものもあり、上流の女性が打掛として着る晴れ着にも使いました。
紋織りは中国から学んだもので、貴族、士族の帯、冠(はちまき)、着物などに用いられた特別の織物ですが、大陸産のような立派なものはありません。
芭蕉布は最も一般的な布でした。苧麻とともに無地、縞、絣に織られました。古くから沖縄を代表する衣料です。この時代には、冬は木綿、夏は芭蕉布を用いるようになり、上物は輸出されることもありました。
さて右の織物の中、かすりのもとは南洋だといわれるが沖繩にきてからすゞしげな上品なものがつぎつぎと工夫され綿、苧麻、木綿、芭蕉を原料におり出され、日本の各地にひろまるようになりました。かすり、ことに色がすりは「天下無類」とたたえられ前代の石造の建築とともに、沖繩のほこりです。
【原文】
織物は原料から見ると麻布、絹布、芭蕉布、綿布の四種で織物の技法はかすり、色染、紋織の三つにわかれます。
糸をつむいで布をおることは、部落時代からすでに行われているが、かすりや色染の美しいものがさかんに織り出されたのはこの時代です。
宮古・八重山の上布は、苧(う)麻(ま)(からむし)を原料としたもので、宮古の紺に白のかすり、八重山の白地に褐色のかすりが代表的のもので細かい糸をつかったものを上布と名付けます。ことに宮古の紺上布はきわめて精巧な織物として今でも名高いものです。そのおこりは古く、尚真王時代にすでにりっぱなものが織られていたらしく一五八三年ごろはすでに「あやさび」という紺細上布を王に献上しています。
島津への納税品になってから、ますますその価値をみとめられ、人口割に強制され、模様・品質ともに向上し沖繩の産物の中でもっともすぐれたものとされました。
久米島紬はまゆからひいた絹糸を原料とした冬衣用でその起源は古いが、よい紬がおられたのは一八三二年からで、かすり、縞、無地の白布にわかれます。八丈織をよく知っていたさつま人酒匂氏が渡島して教えたものであるといわれます。これもやはり納税品として、模様、染色いろいろの注文があり、そのために品質を向上させたこともみとめられます。
大島紬は久米島紬の方法をうつしたもので、未だ自家用としておられたていどで明治になってからさかんになったものです。
このように、先島の上布と久米島紬は商品として発達したものでなく、強制労働の産物であることを注意しておきたいのであります。
綿織は儀間真常が一ぱんにひろめたもので、さつまの女、実千代・梅千代の二女にたのんで木綿織の技術を、今の垣花、小祿(ママ)の人々に教えさせ、それから棉花のさいばいがひろく行きわたり、あたたかくてつよいきものが一ぱんの人にもきられるようになりました。二女の伝えたのは縞ものですが、これに今までのかすりをおったのが紺がすりで、さつまをへて内地につたわり、くるめがすりもこれ
から生れたものです。紺がすりは日本ではさつまがすりとして知られているが、実は小祿・那覇でおったものでありました。
色染めはふつう紅型(べにがた)といわれ、黄・紺・水色などの生地(きぢ、ママ)にいろいろの模様をそめたもので、松竹梅、桜、あやめ、ぼたん、もみじ、らん、菊などの植物、竜、ほうおう、虎、ちょうちょう、つる、かめ、つばめ、千鳥などの動物から石垣、城、田舎家、流水まで図案化し、これを型紙をつかって色ぞめをしたものです。
紅型はごくおちついた小紋もあるが、おどり衣裳に見るようなはでなものもあり、上流の女のうちかけとして着る晴れ着にもつかいました。
紋織りは中国から學(ママ)んだもので、貴族・士族の帯・冠(はちまき)服などに用いられるとくべつなかりものです。中国産のようなりっぱなものはありません。
芭蕉布(ばしょうふ)はきわめてありふれた布で、苧麻(うま)とともに古くからの衣料です。無地、縞、かすりにおり、冬は木綿、夏はばしょう布を用いるようになり上物は国外にもおくり出されました。
さて右の織物の中、かすりのもとは南洋だといわれるが沖繩にきてからすゞしげな上品なものがつぎつぎと工夫され綿、苧麻、木綿、芭蕉を原料におり出され、日本の各地にひろまるようになりました。かすり、ことに色がすりは「天下無類」とたたえられ前代の石造の建築とともに、沖繩のほこりです。