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自虐教科書の病理⑩ 平和教育〜丸腰なら戦争はなくなるという「憲法9条教」の教義

 「戦争がないこと」は、平和のための必要条件ではあっても、十分条件ではありえません。戦争はなくても、北朝鮮の核開発や拉致テロ、中国による
軍備増強と露骨な侵略政策などで、極東地域での緊張が高まっている中、全くといって良いほど無防備なわが国が、果たして真の意味で「平和」なのでしょうか。
 教科書には、安全保障の観点は全くといって良いほど盛り込まれていません。戦争を反省するためには、戦争のことに触れてもいけないという、幼稚な考え方に縛られているようです。むしろ、なぜ戦争が起こったのか、戦争を回避することはできなかったのか、ということを学び、歴史を教訓とする姿勢が大切なはずです。しかし、そうすることで、自虐史観は破綻します。それを恐れてるとしか思えません。
 軍隊を否定するだけでは、決して真の意味での平和は実現し得ません。なぜなら「普通の国」は軍隊を持っているからです。軍事否定の姿勢は、教科書に一貫して見られる、自衛隊に対するネガティヴな記述に現れています。国家に固有の自衛権があることは、国際法上認められている事柄です。個人における正当防衛と同じだからです。
 確かにわが国は敗戦により、結果的に、自国民にも、周辺諸国民にも迷惑をかけた歴史を反省し、「平和憲法」を守り通してきました。そしてそれによる経済的な恩恵も十分に享受してきましたが、憲法に平和主義条項があるから平和だったのではなく、日米安保体制を通じての平和を維持するための不断の努力と国際情勢(特に、冷戦構造)がわが国に利したからこそ、平和を維持することが可能だったのです。
 日本国憲法は他国民を拘束しません。わが国が侵略戦争を放棄したとしても、他の国がその意図を持っておれば、意味がありません。それは「私は泥棒はしません」と宣言して、戸締まりを怠っているようなものです。泥棒の方は、その家の人に泥棒する意図を持っていなくても、侵入するものです。
 教科書の平和教育は、複雑な国際社会を直視しているとは思えません。例えば、自衛隊の強化が周辺諸国に脅威を与えている、という記述も見られますが、中国の脅威を感じている東南アジアの国々は、わが国の自衛力増強に一定の理解を示し、期待すらしているのです。
 また、国際連合の世界平和に果たす役割とその意義を強調しながらも、国連が一種の軍事同盟であることを教科書は教えていません。そもそも国連は、The United Nations が正式名称であり、直訳すれば「連合国」となりま
す。現に漢語では「聯合國」と表記されます。しかし日本語では、「国連」と誤訳してしまったことが、実態を見えなくしています。国連は第2次世界大戦中の「連合国」の延長版です。それゆえに、国連憲章には「旧敵国条項」があり、わが国を含む大戦中の枢軸国は差別を受け続けており、その事実も教科書は無視しています。
 反戦・反自衛隊・反基地を叫びさえすれば平和になるというなら、学校の授業で、労働組合のアナクロ幹部を講師に招いて、シュプレヒコールの練習でもしておればいいでしょう。しかし現実に立脚した平和教育を行うためには、従来のようなイデオロギーに毒された平和教育を排除する必要があるといえます。
 今日の複雑な国際社会の中で、政府が国民の生命と財産を守るために、いかなる努力を払っているか、また怠っているかを考えさせるのが、本当の平和教育の出発点です。そうして初めて、児童・生徒は、自分の問題として平和を意識するのではないでしょうか。

連載第52回/平成11 年4月14日掲載

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