教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第12章 王朝後期の文化①
1.今日に伝わる沖縄の伝統文化
【解説】
戦災を潜り抜けて今日に伝わる沖縄文化の源流をたどる章で、非常に興味深いのだが、仲原の筆は相変わらず自由だ。かなり整理はしたが、内容は仲原の記述や表現をできるだけ踏襲している。この章の末尾の部分は、最初の総論的部分に置く方がふさわしいと思うので、初回に挿入した。原文で太字で示した部分で、この章の最後に再録するが、一応示しておく。
【本文】
以前に書いたように、尚真王時代の前後(15世紀の末)に仏教を中心とする貴族文化が栄えました。主に寺院建築や土木(道路、庭園、池)、石造りの建築(橋、城など)が発達しました。
薩摩の侵入の前後には、文化活勣もおとろえていましたが、18世紀はじめの尚敬王時代に、文化が再興します。
今日でも、沖縄の伝統文化といえば、織物、陶器、漆器などの南国的色彩と構図に特徴づけられた工芸品と、独特の面白さと美しさを持つ芸能が、日本本土のものとは異なるもので、誇るべき価値をもったものです。
これらは、必ずしも一般の人々の中から自然に成長してきたものではなく、羽地朝秀、尚豊王、尚敬王と蔡温ら、文化の振興に熱心だった各時代の政府の力が大きかったと言えます。それぞれが産業がとして成長した後は、政府の力を借りずに独立し、商品として生産されるようになりました。そして生産者、消費者が一般に広がり、国民文化として普及していきました。
それ以外にも、錫細工(酒びん、茶つぼ)、紙、筆、墨、米、香、ろうそく、花火、畳、すだれ、表具、かさなどの技術も進み、中には日本本土に輸出されていたのもあります。
これらの生活用品、工芸品と比較すると、農具の進歩は非常に劣っていました。沖縄の文化の中心は、都会に住むの上流の人の生活を豊かにするものだったのです。
【原文】
一、工芸の發達(ママ)
尚真王時代の前後(十五世紀の末)に文化がさかえたことを前に話しました。その文化は仏教を中心とする貴族文化で、おもにお寺の建築や土木(道路・庭園・池)橋・城などで石造のものがすばらしく発達しました。
島津進入の前後には文化活勣もおとろえていたが尚敬王時代(十八世紀の初め)は又前代とはちがった文化がさかんになります。しかしこの時代の文化は前代の復興ではありません。さてどんな文化がさかんになったでしょうか。
今日でも、沖繩の文化といえばすぐに思い出されるのは、織物・陶器・漆器、それから芸能でしょう。もっとかんたんにいうと工芸品と芸能で、ことに南国的色彩と構図に特長づけられた工芸品、又日本芸能とはちがった面白さと美しさをもつ芸能は沖繩の特色としてほこるべき価値をもったものです。
これらの工芸や芸能は前代の文化とちがい、人民の中から自然に成長してきたかというと、必らずしもそうではなく、やはり政府の力によった点も見のがすことが出来ません。
こゝで政府というのは尚敬王(蔡温時代)の政府ではなく、文化のしんこうに熱心だった尚豊王、羽地朝秀等の政府もふくんでいます。そして、あるていど成長したのちは、もはや自分の力によって独立し、一つの商品として生産されており、生産者・消費者はひろく一ぱんに及んでいるから国民文化といってよいと考えられます。
……
右の外、錫(すゞ)細工(酒びん、茶つぼ)紙、筆、墨、米、香、ローソク、花火、たゝみ、すだれ、表具、かさ、その他の技術もすゝみ、中には日本にゆしゅつされていたのもあります。
生活具、工芸品とくらべて見ると、農具ははるかにおとり、都会ことに上流の人の生活をかざるものが進んでいます。
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