教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第11章 18世紀以降の産業と生活②
2.農村の生活②~農民の暮らし
【解説】
例によって仲原の筆は、あっちこっちに飛び回る。整理するのに苦労するが、内容は抑えておきたいので、断片も拾い上げて適切な位置に納めている。
農村にいた奴隷たちの実態がさらされているが、これが教室で読まれることが気に入らない連中が、抹殺したのではないかと筆者は思う。琉球王国の農民が事実上の奴隷だったということを正視しなければ、沖縄の未来はない。過去を美化することで沖縄はよくならない。未来の沖縄を考えるのであれば、まずそこからではないか。職業左翼に騙されてはいけない。彼らが求めているのは、中国による沖縄支配であり、その未来は、この事実上の奴隷制度の復活だ。移動に自由がない琉球王国時代の農民は現代の中国に数億人いる事実がそれを物語る。中共ナチスは、農村の人々と都会の人々を分けるために国内パスポートを作って移動の自由を禁じている。それと王国時代のシステムは酷似しています。沖縄の人々が、すでに絶滅の縁に追いやられている満州人、そしてジェノサイドとエスニック・クレンジングが進行しているチベット人、モンゴル人、ウイグル人のようになりたいと思わないのならば、中国の支配と琉球王国時代を絶対に美化しないことだ。
歴史とは、現実を見ることだ。
【本文】
農村では食料以外に、むしろ、薪炭(しんたん)、竹木、芭蕉糸、芭蕉布、木綿織、真綿、紬、麻織物などが生産されました。海産物は地元で消費される以外に、那覇、首里にも運ばれました。名高い漁村であった糸満はもとより、国頭や離島からも商品は届きました。
衣服の材料は芭蕉、綿花が主になり、宮古、八重山の上布は苧麻、久米島の紬は絹です。平民は上布、紬に袖を通すことはできません。だからそれを織る若い娘がどんなにすばらしい柄で作っても、恋人や夫に着せることはできないのです。
綿花は儀間真常が尚寧王に同行して薩摩に行ったときに来て栽培し、糸を取り、布をおることは、那覇に住んでいた薩摩出身の2人の娘に広めさせたと言われています。その後明治の中頃までは、どこの農家でも綿花を栽培するようになっていました。
農民の常食となった甘藷、一大産業となった甘蔗からの精糖法に加え、綿花と綿布をひろめ、住民の生活を豊かにしたのはすべて儀間真常でした。儀間は袋中上人に師事して仏教の道に入った熱心な仏教徒でした。
農村では衣食住にわたり自給自足が多く、家も共同で作りましたが、漆器、陶器、金物、鞍、香、紙などは都会から購入していました。
首里、那覇とその近郊からは漆器、陶器、織物、金物細工(刃物、かんざしなど)、皮細工、酒、とうふ、そうめん、木工品、紙、線香、菓子などが生産されていました。このような手工業は、薩摩、大陸から習い覚えたものが多かったのですが、沖縄で工夫して発達させ、逆に輸出したり、技術を伝えたものもあります。
農村の土地の約7割は国の公有地です。これを百姓地といい、村の農家に割り当てて耕作させましたが、この土地は5,6年、または15、6年ごとに割り替えを行います。この制度のおかげで農民は土地に愛着を失い、最期の年には施肥などを行わなかったこともあるようです。その外に、役地がありました。これは地頭、村役人、のろが耕作権をもつ土地と個人の私有地がありました。この私有地をたくさんもっている地主が村役人になります。
百姓の大部分は公有地の耕作者で、主な生産者であり、租税の負担者で生産物の5割をさし出します。家畜や敷地内の木や棕櫚(シュロ)にも税がかかりました。土地は最大でも80坪に制限され、家屋については瓦葺、石垣を禁じられました。絹物や大柄の着物、草履、日傘なども禁じられるなど、様々な制限がありました。病気になるなど、問題があって租納税できないときには借金をしますが、返せなくなると子供を売り、最期には自分自信を売るというようなことが頻繁に行われていました。
農民には移動の自由はなく、税の全くかからない都会に出て職を探すことは固く禁じられていました。つまり、王国時代後半は、農民は奴隷と同じ状態だったのです。
一方、農村にも厳しい制限を受けず、士族と百姓の中間層のような人々もいました。それは私有地のある地主です。彼らは村役人になり、士族のように位がありました。特に宮古、八重山の村役人はその地の士族でもあり、様々な特権を持っていました。村役人の子弟は読み書きを習い、算盤の稽古をけいこして首里に出、数年間領主の家で見聞を広めた後、20才頃から村役人を務めました。
【原文】
衣服の材料はばしょう、綿花がおもになり、両先島の上布は苧麻・久米島の紬は絹です。上布と紬は平民はきることは出来ないから、若い女たちがどんなに気に入ったすばらしい柄をおっても自分の愛人や夫にきせることは出来ないのです。
棉花は儀間真常がさつまからもって来て栽培し、糸を取り、布をおることも二人の日本娘にひろめさせたといわれ、明治の中ごろまではどこの農家でもこれを栽培させていました。甘藷・砂糖・綿花・綿布をひろめ住民の生活をゆたかにさせたのはすべて儀間真常で、この人は又袋中上人について仏教の道に入り熱心な仏教信者でした。
農家の生産は食料の外にむしろ、薪炭(しんたん)、竹木、芭蕉糸、芭蕉布、木綿織、真綿、紬、麻織物等で、糸満は名高い漁村となり、国頭や離島からの海産物も商品として都会地にでてきます。首里那覇およびその附近からは漆器、陶器、織物、金物細工、(刃物、かんざしなど)皮細工、酒、とうふ、そうめん、木工品、紙、線香、菓子等の日用品が生産される。
農村は衣・食・住にわたり自給自足が多く家も共同でつくりますが漆器、陶器、金物、馬の鞍・香・紙などは都会から買う外ありません。
右のような手工業は、さつま又は中国から習いおぼえたのも多いが、沖繩で工夫して発達させ逆に輸出したり、技術を教えたものもあります。
農村のの土地の約七〇%は国の公有地です。これを百姓地といい、村の農家にわりあてゝ耕作させますが、この土地は五・六年又は十五・六年ごとにわりかえを行います。その外に役地という、即ち地頭・村役人・のろが耕作権をもつ土地と個人の私有地があります。この私有地をたくさんもっている地主から村役人になります。
百姓の大部分はこの公有地の耕作者ですが、これがおもな生産階級であり、且つ又租税のふたん者です。そして一ばんみじめな人たちです。
彼らは、生産物の五割を租税としてさし出します。屋敷は八十坪に制限される。牛馬も豚も屋敷内の木もしゅろも税がかゝります。
家は瓦ぶきはいけない。石垣もいけない。絹物もいけない。大きな柄もいけない。ぞうりもはいてはならぬ。日傘をさしてはならぬ。その他いろいろの制限があります。
病気になったとか何かのこしょうで租税が出せない時は借銭をする。子供を売る。しまいには自分白身を売る。かようなことがひんぱんに行われています。
そして彼らは税の全くかゝらない都会に出て職をさがすことはきびしく禁じられていることは前に話しました。
しかし農村には又右のようなきびしい制限をあまり受けず、士族と百姓の間にある人々もいます。それは私有地をもっている地主たちです。彼らは村役人になり、士族のような位をもっています。宮古・八重山の村役人はその地の士族でいろいろの特権をもっていました。村役人の子弟は読み書きをならい、そろばんをけいこして首里に行って、二三年領主の家で見聞をひろめ、二十才位から村役人をつとめます。