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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第8章 王国時代前期の文化⑥

7.外来宗教と御嶽信仰

【解説】
 文を整理してわかりやすくした。中学生向けということもあると思うが、伝統宗教が生き残った理由など、もう少し詳しくてもよかったのかなと思う。特に、ウチカビ、ヒヌカンなど、今日にも残る風習については、その意味合いなども併せて記述が欲しいところだ。

【本文】
 仏教は印度からヒマラヤ山脈を越えて、支那、朝鮮を経て6世紀に日本に伝わり、13世紀中ごろの英祖の時代に沖縄に来ています。第一尚氏の尚泰久、尚徳、第二尚氏の尚円、尚真は、寺院建立に熱心で、波の上の護国寺、首里の円覚寺、その他十数寺が建てられました。
 仏教が入って来て、初めて来世(死後)の生活ということに目をひらかれたと思われます。葬式はすべて仏式になりましたが、火葬の風習は入りませんでした。お盆の祖先崇拝の行事なども仏式で、七月エイサーという盆おどりもさかんになりました。
 仏教はまた建築や彫刻の発達を促し、この黄金時代の文化の中心となりました。
 しかしこの時代の仏教は王の力によるところが大きく、その盛衰は王の権威に左右されました。
 支那の民間に深く根をおろしている道教は、福建人が久米村に移民して来た時から沖縄に入って来ました。道教ではかまどの神や航海の神を信仰します。沖縄では火の神(ヒヌカン)を信仰していたそれまでの民俗とむすびつきました。御嶽や拝所が村の信仰の中心であったのに対して、火の神は家ごとにまつられ、各家庭の信仰のよりどころになっています。祖先のお祭りに紙で作ったお金「打ち紙」(ウチカビ)を燃やすのは、道教の風習をとり入れたものです。
 日本の本土の神々も迎えて崇めるようになり、八社(波ノ上、沖、末吉、職名、普天間、八幡、金武、天久)とよばれる神社が建てられました。これらの神社は和歌山県の熊野神社の神をお迎えしたものです。
 儒教(儒学)は、人間の道徳を説く孔子の教えで、近代に入るまでは、支那、朝鮮、日本の学問の中心で、もともとは宗教ではありません。ただ、孔子を神格化しているので、宗教と捉えられることもあります。三山時代から派遣されている留学生は儒教を学び、また、久米村の支那人の学問もこれが中心です。しかし、神や仏という超越的な存在に頼り、それを拝むというわかりやすい宗教と違って、本を読み、学問によって心を磨いていくという教えは、学校もなく、この当時文字を読める人がほとんどいなかった沖縄では、人々に影響を与えることはありませんでした。
 仏教をはじめとする新しい宗教が入って来ましたが、それまでの、御嶽を崇め、神女を中心とするお祭りはなくなりませんでした。影響力は小さくなったかもしれませんが、王宮にも村々にも女の神官がいて、お祭りをしていました。仏教も儒教も、男性を中心とした教えであるのに対して、御嶽信仰は女性が中心で、また日々の生活と結びついていたので、人々の中に根強く残っていました。特に第二尚氏のはじめは、王宮ではかえって御嶽信仰はさかんになっているほどです。

【原文】
 仏教は英祖(十三紀中ごろ)の時につたわり、お寺ができたことは前に話しました。その後第一尚氏の尚泰久・尚徳、第二尚氏の尚円・尚真の諸王は、しきりにお寺をたて、波の上の護国寺、首里の円覚寺、そのほか十あまりの寺がこのときまでにたてられました。
 仏教が入って来て、はじめて、来世(死後)の生活ということに目をひらかれたことでしょう。
 葬式も―火葬をのぞけば―すべて仏式になりお盆の祖先まつりの行事なども仏式で七月えいさあという盆おどりもさかんになりました。
 仏教はまた建築(木造・石造)やちょうこくのはったつをうながしたこともきわめて大きく、いわゆる黄金時代の文化の中心となり光をはなっています。しかしこの時代の仏教は王の力によってさゝえられているので、その力がなくなればおとろえるというようなきけんがあります。
 道教、これは中国の民間にふかく根をおろしておる宗教で、福建人が久米村に移って来たときから沖繩に入って来ました。かまどの神を信じ又航海の神を信仰します。沖繩では火の神をあがめたこれまでの民俗とむすびつき、お岳や拝所が村の信仰の中心であるのにたいし、火の神は家ごとにまつられ各家庭の信仰になってきました。祖先のおまつりに紙銭をやくことは道教の風習をとり入れたものです。
日本の神もむかえてあがめ、いわゆる八社とよばれる神社がたちました(波ノ上、沖、末吉、職名、普天間、八幡、金武、天久)。これらの神社は熊野神社(和歌山県)の神をうつしむかえたものです。
 儒教、孔子の教えで人間の道徳をとき、中国・朝鮮・日本の道徳の中心となる教で宗教ではありません。三山時代からすでに中国に留学生がたびたび行っており久米村の人たちの学問もこれが中心です。仏教その他の宗教とちがい神や仏をおがみ、目に見えないものにたよるということでなく、学問によって心をみがいて行かなけ ればならないから、学校もなく書物もすくない時代には一ぱんの人の心に入りこむのはむつかしいことで、さかんになるのは次の時代です。
 お岳信仰、仏教をはじめ新らしい(ママ)宗教がつぎつぎと入って来たので、今までの信仰、お岳をあがめ、神女を中心とする神まつりはなくなったかというとそうではない。信仰はよわくなったかも知れません。しかし王宮にも村々にも女の神官がいてお祭りをやっており、ことに仏教も儒教もすべて男を中心とした教えであるのに、この信仰は女中心のもので日々の生活とむすびついているから中々ねづよいものがあり、ことに第二尚氏のはじめは王宮ではかえってさかんになっています。
 

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