アジアと日本の歴史⑦ フィリピン~最後まで日本の傀儡にならなかった幻の初代大統領
スペインの支配下にあったフィリピンでは、19世紀末頃から独立運動が盛んになり、1898 年にはエミリオ・アギナルドを大統領とする革命政府が成立しました。しかし同年、アメリカは言いがかりをつけてスペインと開戦して勝利し(米西戦争)、グアム島とともにフィリピンを奪取して植民地としました。しかし同時期に日本の植民地であった台湾、併合された朝鮮と比して、アメリカのフィリピン統治が、現地の発展にそれほど寄与していなかったことは統計上明らかです(杉本幹夫『データから見た日本統治下の台湾、朝鮮 プラス フィリピン』、 竜渓書舎、1997年)。
フィリピンは最終的にアメリカから独立したことになっていますが、日本占領下で一度独立を宣言しています。初代大統領になったのが、ホセ・パシアノ・ラウレルです。
1891年に生まれたラウレルは、フィリピン大学卒業後、エール大学の大学院に学びました。そこでアジア人に対する厳しい人種差別を経験したラウレルは、独立を強く志すようになったといいます。
フィリピン政府に職を得て、1921 年には内務長官となりましたが、フィリピン総督レオナルド・ウッドと対立して辞職し、その後日本占領下で独立準備委員長に就任しました。
ラウレルは、次男を陸軍士官学校に留学させたほどの親日派でしたが、フィリピンにおける日本軍政は彼の期待を大きく裏切るものでした。また、元来食糧生産力の乏しいフィリピンに日本軍がやってきたため、食糧難も起こりました。民心は離れ、もともとあった親米感情が強くなってゆきました。しかも、戦局が日本にとって芳しくないのは、誰の目にも明らかになっていきました。
そんな状態でもラウレルは、日本の指導のもとに独立する道を選びました。確かにアメリカは、1946 年の独立を約束していました。しかしフィリピンの指導者は、空手形になるかもしれない宗主国の約束よりも、厳しい条件付きでも、日本からの即時独立を選んだのです。
昭和18(1943)年7月、マニラを訪問した東条英機首相は、日本との同盟を条件に独立を認めることを通告しました。さらに、9月末には、東京に招致されたラウレル、ベグニノ・アキノ(コラソン・アキノ元大統領の義父) ら独立準備委員会のメンバーに対して、「宣戦布告」を条件として要求したのです。
親米感情の根強いフィリピンで、アメリカに宣戦布告することは、政治的に困難を伴うのは当然です。10 月に独立を宣言してからも、ラウレルは巧妙に「宣戦布告」を引き延ばし、翌年9月になって、マニラなどが米軍機によって空襲されるに及んで、ようやく「英米との交戦状態」を宣言するに留めました。また、ラウレルは、産業、財政関係以外の日本人顧問派遣をやんわりと拒否し、日本の傀儡になることを潔しとしなかったのです。
昭和 20 年3月になってラウレルは日本軍の勧めで亡命を決意しました。間一髪のところでフィリピンを脱出して、台湾経由で日本にたどり着き、最後は奈良ホテルで日本の敗戦を迎えました。
戦後、人民裁判で無罪を勝ち取ったラウレルは各方面で活躍し、対比賠償問題が困難に直面したとき、当時の吉田茂首相との秘密会談でこれを妥結に導いたのでした。
「独立に人あり」。ラウレルの苦悩と決断を語ることなしに、フィリピンの独立を語ることはできません。
連載第39 回/平成11年1月12日掲載