教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第12章 王朝後期の文化⑦
4.文学
【解説】
「発達した」と言いながら、具体例が出ていないのがちょっと寂しいところなのだが、筆者も門外漢なので適当なことを書くわけにもいかず、原文の記述に沿った形としたが、簡単なリサーチで吉屋ちる(つる)の名前が出てきたので、蛇足ながら書き足した。最終的にまとめる際には、実際の歌を何首か紹介したいと思う。
文学の紹介と言いながら、平屋敷朝敏の悲劇を紹介するあたり、仲原の蔡温に対する批判的スタンスが見える。
【本文】
文学は古くから沖縄文学、日本文学、支那文学と3つの分野で発達しました。
沖縄文学で特筆すべきは、既に書いたようにオモロです。芸術的に優れたものも多いのですが、この時代にはオモロはすでに衰えており、それにかわって琉歌が発達しました。「サンパチロク」といわれ、8・8・8・6を基本形とする定型詩です。
尚敬王時代の末に恩納村の農家に生れた恩納なび、尚質王時代に那覇の遊女であった吉屋ちるというふたりの女性歌人が特に有名です。
琉歌の多くは三味線の伴奏によって歌われることを前提に作られ、日本の短歌のように独立した文学としての位置を築くまでには至っていません。すばらしい歌もあるのですが、無学の女性であった、なびとちるに優る歌人はその後も出ていません。
首里の貴族、士族の間では日本文学の研究がさかんで、『源氏物語』『伊勢物語』『太平記』『保元物語』『平治物語』などが読まれていたようです。和歌の研究と作歌は上流士族の間で盛んに行われています。薩摩や江戸に行く時、和歌や漢詩の心得があれば日本人と円滑に交流できるという理由もあったと思われます。王国末期の三司官であった宜保朝保は名高い歌人でした。
一方、沖縄人の手による散文の文学的作品としては、識名盛命の『思出草』、平屋敷朝敏(へやしきちょうびん)の『貧家記』などがあります。また宮古島の忠導氏おやけ屋の大主と呼ばれる人の書いた『宮古島旧史』は最も優れた物語文学です。
平屋敷朝敏は蔡温一派の政治に不満を持ち、王府高官の友寄安乗らの同志とともに蔡温と王府を非難する手紙を島津の役人に出して逮捕されました。そして朝敏ら15名は安謝で死刑になりました。朝敏の息子は島流しになり、妻は百姓に身分を落とされています。蔡温時代の「平屋敷・友寄事件」は八重山への強制移住や農民の奴隷化と共に、当時の政治の冷酷さを物語っています。
【原文】
文学は古くから沖繩で発達した沖繩文学、日本文学、支那文学と三つにわけて考えられます。
沖繩で発達したものはオモロでその中にはすぐれた文学的のものがすくなくない。しかしオモロはすでにおとろえ、それにかわったものが琉歌です。尚敬王時代の末、恩納村に生れた恩納なびという女性がもっともすぐれた歌をのこし、その後にもいろいろの人が歌をつくっていますが、多くは三味線の伴奏によってうたわれることを考えて作られ、日本の短歌のように独立の文学としての位置をきずくまでには至っていません。したがってすぐれた歌も少くないが無学の一女性恩納なびにまさる歌人はその後一人も出ていません。
首里の貴士族の間には日本文学の研究もさかんで源氏物語・伊勢物語・太平記・保元・平治物語等がよまれたらしい。沖繩人の手になった散文の文学的作品としては識名盛命の思出草、平屋敷朝敏の貧家記などがあります。その間にあって宮古島の忠導氏の書いた宮古島旧史はもっともすぐれた物語文学です。
平屋敷朝敏等は蔡温一派の政治に不平をいだき同志とともに蔡温をひなんした手紙を島津の役人にだしました。そのためとらえられて死刑になり子供も宮古に流されています。この事件は八重山の強制移住などと共に封建政治の冷酷さを語っています。
和歌の研究と作歌は上流士族のあいだにさかんに行われています。サツマや江戸に行く時、日本人とまじわるには和歌か漢詩の心がけがあれば便利である、という理由もありましょう。王国末期の三司官宜保朝保は名高い歌人でありました。