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鉄道の歴史Ⅰ(戦前編)⑨  昭和12年のダイヤ改正


 反日的な書物は「15 年戦争史観」、つまり、昭和6(1931)年の満州事変の後は、絶え間ない戦争が行われていなければならない、というに固定観念にとらわれています。それゆえに昭和戦前期は暗黒時代でなければならないのですが、実際にはその「定説」では説明できない歴史的事実がたくさんあります。
 昭和12 年7月1日、鉄道省は大規模な「国鉄」のダイヤ改正を行いました。この戦前最高水準のダイヤ改正が、「国民生活を圧迫した絶え間ない戦争」の真っ最中に行われていることは、その「定説」を覆す証拠のひとつとなるでしょう。
 このダイヤ改正で、東海道・山陽本線(東京-下関間)の特急・急行列車は最高の本数になっています。特急は不定期列車1本を含め5本となり、「富士」、「桜」、「燕」に加えて、「鷗」が新設されました。「鷗」は、主に京阪神の乗客の利便性を考え、東京での滞在時間が長くなるように、ダイヤが組まれていました。
 当時、大阪から東北・北海道方面へは、日本海廻りの列車が設定されていましたが、常に混雑していました。しかし「鷗」の登場により、東京経由で東北へ向かう利便性も向上したのです。まだまだ、地方への交通は不便でしたが、このように少しずつ改良が加えられるようになったということを見ても、鉄道を利用した旅行が増えていたことがわかります。
 ビジネス客を主な対象としたダイヤの他、週末の行楽客をターゲットにした列車も増発されています。そこにこの時代のゆとりが感じられます。すでに大正中期から大衆化が進展し、庶民の間にも旅行が盛んになりました。中学生の修学旅行も、この頃一般化しています。この昭和12年のダイヤ改正における行楽列車の増発と充実は、行楽ブームが継続していたことを物語っています。
 例えば、東京からは伊勢神宮への参拝客を乗せて、鳥羽行の不定期列車が運行されていました。この列車はかつて人気を博した「ムーンライト」のような快速列車でした。急行料金は不要でしたが、急行並みの設備とスピードを誇りました。また、静岡県の温泉地への行楽客を乗せる熱海、網代行準急列車(当時は、料金不要の快速列車の別称)も増発されています。人気の行
楽地である日光へも、ライバルの東武鉄道に対抗する準急列車を走らせていました。
 近畿地方随一の温泉行楽地、白浜に向けては、週末準急「くろしお」号が運転されました。これは当時、特急以外で唯一愛称を持つ列車でした。阪和電鉄(現JR阪和線)の天王寺駅と南海鉄道(現南海電鉄)の難波駅を出発した列車が、国鉄東和歌山駅(現和歌山駅)で併結され、一路白浜口駅(現白浜駅)へ向かうこの列車は、浪速っ子に大人気でした。
 私鉄各線もサービスを競っていました。前述の東武鉄道、小田原急行鉄道(現小田急電鉄)、大阪電気軌道と参宮急行鉄道(現近鉄大阪線)などは、沿線の行楽地に向けて長距離を疾走する電車を走らせ、国鉄とサービスを競
いました。
 このダイヤ改正の6日後、蘆溝橋事件をきっかけに、わが国は文字通り戦争の時代に突入し、大東亜戦争勃発後には、次第に行楽も影を潜めます。しかし、豊かになっていた国民は、戦争が激化するまで、今日同様、鉄道の旅を楽しんでいたのです。

連載第91回/平成12 年3月1日掲載

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