見出し画像

教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第12章 王朝後期の文化③

3.瓦と陶器

【解説】
 工芸史については全く知識がないので、細かいことはわからないが、人物については少しだけ調べて書き足した。仲原の記述は、人物についてあいまいなところが多い。その他、例によって文の順序を整理して、読みやすいようにした。

【本文】
 瓦はすでに第一尚氏時代から焼かれていたようですが、はっきりしたことはわかりません。瓦造りがさかんになったのはこの時代で、王城を筆頭に、お寺、民家にも瓦ぶきが多くなったのはこの時代からです。
 陶器は、羽地朝秀の時代にはすでに、古我知(羽地村)、知花(美里)、湧田(那覇)、宝口(首里)などで良質のものが生産されていますが、釉薬(うわぐすり)をかけた陶器が、いつごろから始まったかははっきりしません。
 薩摩の支配が始まって間もない1616年に、尚豊王が薩摩から3人の朝鮮人陶工をまねき、日本の本土と同様に、陶芸先進国であった朝鮮の優れた技術が沖縄にも伝わりました。
 日本本土では秀吉の時代までは良質の陶磁器をつくることができませんでした。朝鮮出兵に際して西国の諸大名は争って朝鮮の陶工を連れて帰り、それがきっかけになって、陶磁器製造が盛んになりました。薩摩も80人余りの陶工を連れてきました。薩摩焼はその後盛んになったものです。
 さて、沖縄にやって来た陶工のひとり張献功(張一六)は、仲地麗伸と改名して湧田に住み、妻をもらって永住して技術を伝えました。陶器に特別の趣味をもっていた尚豊王の奨励によって、沖縄の製陶はこの時期にさかんになっていきました。
 1871年には平田典通(てんつう)が清に渡って、釉薬の技術を学び、日用品の他、茶つぼ、花立、菜皿、その他の工芸品を作りました。後に首里城正殿屋根の竜頭瓦を制作したのもこの人です。琉球焼中興の祖とされる仲村渠致元(なかんだかり・ちげん)は王命により、1724年に八重山に製陶法を伝えました。また、1730年には薩摩に渡って高度な製陶の技法を学び、それを広めました。 
 尚敬王時代には、瓦、酒がめの外、日用品の皿、茶わん、まかい、厨子甕(ずしがめ。火葬が普及する前の沖縄での納骨に使った容器。一度風葬を行った後に、遺骨を海水や酒などで洗う洗骨を行い、その後の遺骨を全部納める)、徳利、花立、酒器など、あらゆるものを制作できるようになりました。品質も、本土に引けを取らないものを生み出せるようになりました。
 

【原文】
3.陶器
 瓦とか、酒がめとか、あるいはうわぐすりをかけた陶器が、いつごろからはじまったかはっきりしません。しかし羽地の摂政時代にすでに古我知(羽地村)知花(美里)湧田(那覇)宝口(首里)などでよい陶器がやかれています。
 さつまの支配がはじまって間もない一六一六年にさつまから三人の朝鮮陶工をまねき、その中の張一六は湧田にすまい、妻をもらって永住したというから、朝鮮のすぐれた技術がつたわったことと考えられます。陶器にとくべつの趣味をもっていた尚豊王の奨励によって、製陶はさかんになって行きました。
     日本は秀吉時代までいい陶磁器をつくることができなかったの    
    で、朝鮮に侵入した諸大名はあらそってむこうの陶工をつれかえ
    り、それから日本の陶磁器がさかんになりました。この時さつまへ
    も八十人あまりの人をつれて来てサツマやきはこれからさかんにな
    ります。
 そののち、平田典通(てんつう)という人は中国に行って(一八七一)上焼物のやきかたをまなび、日用品のほか茶つぼ、花立て、菜皿その他の工芸品をつくり、仲村渠致元(一七三〇)はさつまにいってそのすぐれたところをならってかえりだんだんよいものが出来るようになります。 
 尚敬王時代には、瓦、酒がめの外、日用品の皿、茶わん、まかい、厨子(ずし)がめ、徳利、花立、酒器あらゆるものを焼きだすことができ、その出来ばえも他地方におとらないくらいのものができました。
 瓦はすでに第一尚氏時代からやかれたらしいがはっきりしたことはわかりません。さかんになったのはこの時代で、王城はじめお寺、民家に瓦ぶきが多くなったのはこの時代からです。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?